第三夜『sparkle』
淡い光が、舞い降りてきた。
無味乾燥で、淀みかけていた日々を癒すような、温かい光が。
朝の満員電車の中、私は仕方なく、吊革に手の付け根を置いて座席の正面に立っていた。
誰が触ったかもわからないものに、長い間べったりと触れるのは、極力避けたい。
真後ろに立つ人のカバンの角が、妙に鬱陶しく感じる。
私は不機嫌さを顔に出す代わりに、深くため息をついた。
次の駅ではさらに人が乗ってくるのかと、心の中で嘆きながら、ふっと正面を見やる。
刹那に心を揺さぶられた。
けれど、この感情を表す言葉に、ぴんとくるものが思いつかない。
それを恋と呼ぶには、私は冷静だった。
ほんの僅か、周囲の音が遮断され、辺りが白い光に包まれた。
生まれる前から定められ、遺伝子に刻まれていた存在に、出会うべくして出会ったような、そんな不思議な感覚。
生き別れの肉親に会った時も、きっとこんな感覚なのだろう。
多分、その人は、私に微笑みかけていた。
ふてぶてしい顔をした他の大人たちと違って、多分、飄々としていた。
どんなにその人の顔を見ても、まるで白いもやがかかったように、はっきりと見えない。
だからこそ、私はその存在に惹かれたのかもしれない。
多分、根本的な何かが、他の人たちとは違うのだ、と。
次の日も、私は同じ車両の同じ場所に立った。
その人もまた、同じ車両の同じ場所に座っていた。
昨日と同じように、その人は、窓から注ぐ淡い光の中で微笑んでいた。
言葉を交わすことはなくとも、何度も視線を交わし合った。
まるで、他の誰にも知られてはいけない、秘密の暗号を教え合うように。
その時の私の瞳は、間違いなく、いつもの何倍も輝いているだろう。
日々の中で一番ときめきを感じるのが、この時なのだから。
この瞬間ほど、日々の中で楽しみなものは他にない。
その輝かしい姿は、私の中のほのかな闇を溶かしてくれるようで、いつしか私は、その人と会うのが毎朝の楽しみになっていた。
どうしてここまでこの人に惹かれるのか、自分でも不思議に思うほどだった。
いっそ、その人が私にしか見えていなきゃいいのに。
そんなことすら考えた。
私にしか見えない、特別な存在。
もし本当にそうだったら、どれほど素敵なことか。
――本当にそうだったのかもしれない。
だけどその事実は、こんな形で知りたくなかった。
結局その人とは、いつもの電車のいつもの場所と、ここ以外で会うことはなかった。
気が付くと、私は見慣れない森にいた。
白い神秘の光に溢れた、澄んだ緑色の森。
いつここに来たのか。ここへ来る前はどこで何をしていたのか。
そう思い、辺りを見渡すと、その人が立っていた。
相変わらず、もやの向こうで微笑んでいる。
そして何も言わずに、私の手をぎゅっと掴み、走り出した。
確かにこの手は掴まれていて、行くべき場所まで引っ張られていた。
だけどその感触はあまりに弱く、まるで風のようで。
その人は、森の奥へ入った。
そよ風のような足取りで、私をどこへ導く気なのか。
森の木々は、光を纏ってきらきらして。
それは太陽の光か、私が見た幻か。
あるいは、視界が潤んでそう見えていただけか――。
やがて、その人は止まった。
真ん中に大きな切り株だけがある、広い場所。
その人の身体は徐々に光に包まれ、透明になっていた。
どうして?
そう口を開くと同時にその人は言った。
もうすぐお別れだ、と。
私はすぐに気づいた。
この人は私たちとは違う存在なんだと。
この森に住む、神様のような、神秘的な存在。
不浄なものを一切知らない、聖なる存在……。
ずっと人の姿をして、人に紛れて、世の中を見ていたんだ。
その人は自分の秘密を、私にだけ教えてくれた。
相変わらず、その表情ははっきりとは見えない。
どんなに望んでも、見えない。
けれど、森の中にいるその人は、電車の中にいる時よりも輝いていて、どこか嬉しそうだった。
それもそのはず。だってここが、その人の本当の居場所なのだから。
さよなら。
その姿が完全に消える前に、私は背中を向けた。
消える瞬間を視界に収めたら、それが私の中で現実になってしまうから。
せめて、私の中では、ずっとどこかに居続けられるように。
淡い光の小径を、全速力で引き返す。
振り向くな。後ろ髪を引かれるな。
自分にそう言い聞かせながら、涙をこらえてひたすら走る。
走れ、走れ。
私の元いた世界へ――。