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7月・愛しのヒロイン



「あ……」



滞在中の屋敷のエントランスホールで思わず声を出したのはシエラ。


戸惑いの視線は前を歩く男の広い背中に注がれている。正確には身につけたジャケットの腰に位置する飾りボタンだ。



「どうしたの?」



聞こえた声に違和感を覚えて男は振り向く。シエラも立ち止まり真っ直ぐ瞳を見返した。



開放的な吹き抜けのホールで階段をバックに被写体のように佇むのは、黒い髪と瞳、信じられないほど美しい容貌を持つ男。


名前はウィル。暗殺を生業とし、シエラのカタキに当たる人物だ。



そんな関係などお構いなしにウィルは愛しい復讐者へ天使の微笑を向けた。


ところが愛は報われず、相づちひとつ貰えず、ダメ元で再び問いかける。



「オレの服装おかしい?頭に何か付いてる?」



声の流出を後悔しつつシエラは動揺を悟られないよう気を引きしめた。返答前の鼓舞でもあった。嘘が下手なのだ。



「……襟元が汚れてる。洗濯したら?」



平静を装い、眺めていた腰ではなく襟元の名を上げた。



「え、本当?ありがとう」



素っ気なくも親切に教えてくれたシエラへ男は素直に礼を述べた。



偶然方向が一緒だっただけのふたり。やがてシエラは無愛想に自室へ移動し、ウィルは無視された行為に怒りもせずダイニングルームに入室した。




窓の外の夏模様とは異なる快適な室内には先客がいた。3歳年下の部下、青い瞳のケイだった。



食欲旺盛なケイはシエラ手作りのブランデー入りパウンドケーキを手元に、見る者を爽快にさせる勢いで満足げに食していた。太らない体質、量やカロリーは気にしない。


3個めを手にした時、隊長ウィルが入室し満面の笑みで歓迎した。



彼はウィルを信頼し敬愛し、そのくせいじめるのも大好きだった。


ネタ探しに姿を追う濃く鮮やかなコバルトの瞳がめざとく粗を捉える。



「あれっ隊長、後ろのボタンゆるゆるだよ?取る?」



ケーキを含んだ口でモゴモゴと指摘する。それでも言葉は通じたようで、ウィルは身をよじって背中を確認。しかし見つけられぬまま元の姿勢に戻った。



服を脱ぐなり寄せるなりして確認しろよ、とケイはツッコミたくなったが、天然の隊長こそ隊長らしいと言及は避けた。



キツい嫌味を聞かずにすんだ若き隊長は、そうとも知らず呑気に部下に返答だ。



「まだ大丈夫そうならこのままでいいよ」



穏和な口調と対極に黒い瞳は不敵に輝く。何やら面白い事実を察したらしい。


即実行と、足早に進んだ先は脱衣室の洗濯機前。無造作に上着を脱ぎはじめた。



汚れていると聞いた襟元に目立った跡は見られない。それでも彼はニヤリと笑って服を洗濯機に入れた。


短時間のうちに『ある女』がこれを取りにくると確信していた。




ダイニングルームに戻る途中で自室から出るシエラとまた対面した。彼女の目にも上着を脱ぎタンクトップ姿の精悍な男が映る。


どんな格好をしていても見惚れてしまう完璧な容姿だが、もちろん敵対するシエラに正面きって誉め言葉が言えるはずもなく。無言を貫くのみだ。



「シエラ、オレはこれから外出するけど寂しがらないでね?」



悪魔の尻尾を隠した天使はヌケヌケとそんな戯言を口にした。



このタイミングでシエラと鉢合わせた偶然。それに伴い予定変更である。


用事もないのに外出を決め込み彼女に時間を与えたのだ。




「いってきます」と無邪気な笑顔の男を見送ると、シエラはサンダル音をパタパタ響かせて行動開始。黒い悪魔の思惑通りである。



自室に戻り裁縫セットを手に取った。エルのドレスを直した際に使用したもの。手元に残していたことを喜んだ。



また部屋を出て脱衣室へ。洗濯機を覗くと目当ての物が置かれていた。ウィルが先ほどまで着用していたジャケットである。



予想の的中に「やっぱり」と呟く。汚れを信じた彼が何も確認せず入れたのだろう。


タンクトップ姿で脱衣室から出てきた彼を見て「もしかして」と行動を起こしたのだ。




ハンガーに上着を掛けて背中部分のボタン修繕を始めた。


一度ボタンを服から取り、新たに糸を通して縫い付ける。立った姿勢で器用な手付きだ。


ウィルがいたなら絶賛しただろう。先日のエルの時もそうだった。



けれど意地っ張りなシエラだ。賛辞を受けるのは苦手だし、何より彼はカタキである。善意の応酬はそもそもあってはならない。



にもかかわらず裁縫行為を起こした矛盾。本人の前で手直しを告げるのは恥ずかしく、でも復讐者にいつも優しい彼に何かしてあげたくて……。



「オマエっ!それ隊長の服!何してるのさ!」


「きやっ!」



突然の大声と秘密の作業を見られた驚きに、シエラは両腕をビクッと揺らし振り返った。



大声の主は隊長ウィルがいなくなり暇でシャワーを浴びに来たケイだ。


すぐ怖がる、と極度の怖がりであるシエラの悲鳴を何度も聞いてきた身として肩をすくめる。


原因の多くはホラー映画を見せたりと彼自身が脅かすせいなのだが、それは綺麗に忘れていた。




普通に話せる程度の関係でいたいのに、嫌われていると自覚するシエラ。穏便を心掛けるも声はわずかながら恐さに震えた。



「ボタン取れそうだったので」



それはケイも確認済みの事実。故に反論はしないまでも、カタキ相手の服を直す行為に警戒する。牽制を入れた。



「針とかワザと仕込まないでよ!?」



信用されていないんだな、とたちまちキュッと唇を噛んで彼女は視線を落とした。


復讐者である身を考慮し、寂しそうに「当然だよね」と心の中で呟く。




落胆する女を前にケイの後味も悪い。シエラのこんな表情を見ると最近なぜか切なくなる。その度に「しっかりしろ!」と己に言い聞かせる。


隊長ウィルのような徹底した悪人になりきれず、元来の明るく話好きな性格も手伝ってかつい話しかけてしまった。



「ねえ、オレのも直してよ。ボタン緩いのあるんだ」



意外な注文にシエラは相手の長身を見上げ、23歳という年齢より幼く見える顔を凝視した。


無表情から正確な感情は読み取れなかった。けれど冗談ではなさそうだ。そう判断し快く「はい」と引き受けた。



服を取りに自室へケイは移動する。2階に向かう足取りは軽く、彼女の柔らかな笑顔が頭から離れなかった。





一時間後、シエラから縫ってもらった半袖シャツを着たケイは、ダイニングルームで隊長の帰宅に立ち会った。


カフェでコーヒーを飲み暇潰しをしていた彼だが、ケイは『暇潰し』だと知る由もない。


当然のこと悪たくみも知らず、そのままウィルの自己満足に巻き込まれた。



「ね、この服だったよねボタン取れそうなの」



脱衣室から取ってきた上着を手に、白々しく同意を求めた。


内心では確認した裁縫跡への高笑いがトランペットのように華々しく響いている。



「あの女が縫ってたよ」


「シエラ?優しいな」



目撃したらしい部下の答えがウィル脚本の舞台の成功を確実なものとした。ヒロインは忠実に健気な娘を演じてくれたようだ。




直接シエラに裁縫を頼むことも可能だった。彼女なら経過はともかく最終的には頷いてくれるだろう。


しかしウィルは展開を予想し、意地っ張りなヒロインを試すように現状を選んだ。


彼女は素直でないにせよ健気な行動を取り、それがまたかわいらしく、ウィルを楽しませ満足させたのだった。




ケイはと言えば、カタキ相手の行為を嬉しがるウィルに歯痒さを感じていた。



「変なことされてない?あいつカタキだよ?毒針仕込んだり、硫酸染み込ませてるかもしれないよ」



いかにもケイらしい非難にウィルは笑い、会話もそこそこに愛しのヒロインの部屋へ向かった。





「シエラありがとう」



勝手に入室してきた男の言葉を、彼女はソファで聞いた。


ウィルには何度も来訪を強行されており改善は諦めているが、謝礼の意味を理解できずに首を傾げた。



「何のこと?」



上着の件だとは気づかず本気で問う。だが語尾と同時に彼の手中のジャケットに気づき嫌な予感が胸をかすめた。



「ボタン」とウィルは一言口にしシエラはピクリと反応する。



ケイから聞いたのだろうか。彼女もまたウィルの企みだとは知らぬ身。素直な疑問しか浮かばない。


そうして嫌な流れを認めつつ表立っては一貫してとぼけてみせた。



「……ワタシには何のことかわからない」



頑固な女にウィルは苦笑だ。仕方がない。スタート時はこちらが騙されたし、仕返しも兼ねて少し困らせてやろう……。



無意識を装って服を握り締めた。そして。



「痛っ!針かな!」


「えっ!?ごめんなさい!」



小麦色の髪を乱し慌てて駆け寄る。ウィルは泣きそうな女に美貌を寄せて甘い旋律で耳打ちした。



「ウソだよ」


「…………」



絶句のシエラだ。呆然と立ち尽くし騙されたと理解した。


よくよく思い出せばまち針や複数を必要とする作業ではなかった。服に残るはずがない。



誘いに乗せられ裁縫の件も見事に知られてしまった。踏んだり蹴ったりである。




「ごめんね」と優しい詐欺師は騙した行為にまず謝罪。次いで改めて謝礼を告げた。



「シエラ、ありがとう。何かお礼がしたいな。金とオレとキスのどれが欲しい?」



眼前で女は唖然とし返す言葉を失った。


聞こえないフリをしたかったが至近距離ではそれもままならない。とりあえず自分のペースを保守した。



「どれもいらない」



冷ややかに無関心な言葉を投げて回れ右をした。バカバカしくて相手にしてられない。



ソファへ向かう華奢な背中に秀でた顔を向けて男は話しかける。



「ならこれをあげるよ」



ふわりと温かい感触。背後から抱きしめられたシエラはその場でピタリと立ち止まった。



「こんなのでいいかな」



頭上からの声にも抵抗は見せない。回された腕に頬を寄せる。


彼から伝わる穏やかな空気に包まれ、身も心も心地いい。



「……十分。ワタシはこれでいい」



この時も未来でもシエラが最も好んだのはこうして抱きしめられる行為だった。


こうされると安らげた。ひとりでないと寂しさを忘れられた。


誰でもいいのではない。ウィルでなければダメだった。シエラはすでにそれを自覚していた。



振り返ればキスが待ち構えているだろう。それにも拒否する意思はない。でも今はまだ腕の中に包まれていたい。


この温もりが何より好きなシエラであった。




end.


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