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公爵令嬢はクッキーに恋い焦がれる 

公爵令嬢のクローディアには婚約者がいる。年上の多忙な婚約者のランスロットに会えるのは夜会か月に一度の定例のお茶会だけ。いつも甘い瞳で愛を囁き抱きしめる婚約者が好きだった。夜会の帰りはクローディアを馬車までエスコートして蜂蜜色の髪に口づけを落とし、離れていく姿が見えなくなるまで窓から見送っていた。クローディアは婚約者と相思相愛だと思っていた。

クローディアが現実を知ったのは16歳の時だった。


クローディアはランスロットの通う学園に入学した。

貴族は貴族院に通い社交や教養を学ぶ。ただランスロットは貴族院ではなく学園に通っている。

両親に貴族院に通うように言われたクローディアは必死に社交界で伝手を広げ、令嬢教育や貴族として必要な教養も全て完了させた。親しくなった貴族院の学長に頼み入学試験と卒業試験を同時に受け、満点をとり両親に卒業証書を突きつけた。両親はクローディアに負けて平民も通う学園への入学を許した。休日には必ず帰り社交を疎かにしないことを条件に。

クローディアは笑顔で了承し、これから愛する婚約者に毎日会えると想像するだけで笑みが零れていた。

ランスロットを驚かせるため内緒にしてほしいと両親や友人に頼んだ。自分を見つけたら甘い笑顔で抱きしめてくれるのを想像すると顔が緩むのが止まらなかった。

公爵は不安を覚えながらも、上機嫌な娘を送り出し、公爵夫人は二人の様子を微笑ましく見守っていた。



学園にはクローディアの知人は誰もいない。学園に入学する貴族は変わり者か貧乏な家の生徒ばかり。クローディアはランスロットを喜ばせるためにもう一つサプライズを用意した。

入学式でずっと笑みを浮かべる蜂蜜色の髪を持つ美少女は目立っていた。視線を集めるのに慣れているクローディアは気にしない。頭の中にはランスロットのことしかなかった。

入学式が終わり、上機嫌で婚約者に会いにランスロットの教室を目指していると大好きな声が聞こえて足を止める。クローディアはランスロットセンサーを持っていた。

声のもとに足を進めると庭園で愛する婚約者の腕の中には女生徒がいた。甘い言葉をかけて、髪を梳く姿にクローディアは目を丸くする。あまりの衝撃にランスロットへのサプライズのために用意したお菓子が手から落ちた。

学園では手作りのお菓子の贈り物が流行っていると知ったクローディアは必死にお菓子作りを覚えた。両親と料理人を脅して料理を覚える許可を取り、大量の汗を流し百面相しながら指導する料理人の指導のもと必死に作り方を覚えたクッキーが砕ける音がした。

呆然としたクローディアはフラフラとした足取りでクッキーを踏んだことに気付いた。さらに体重をかけて、ぐりぐりと地面に落ちたクッキーを踏みつぶした。クッキーのように恋心も砕きたかった。まさか自分が喜んでいた言葉を他の女にもかけているとは思わなかった。

ランスロットと目が合い微笑みかけられたので笑顔を浮かべて礼をして立ち去る。追ってこない婚約者に悲しむ自分が嫌だった。クローディアは侍女のエリーに学園でのランスロットを調べるように命じる。別人だったらいいとバカなことを願う自分にため息をつき、クッキーの生地をこねる手に力が籠った。クローディアの部屋にはキッチンをつけていた。公爵家は学園に多額の寄付をしたので、寮の部屋を自由に改装する権利を手に入れクローディア好みに整えられた。もちろん実費で卒業時にはきちんともとの内装に戻す予定である。


クローディアは毎日クッキーを焼く。生地にこめるのはランスロットへの愚かな恋心。そのクッキーがどうなるかはランスロット次第。

クローディアは令嬢教育で身に付けた鉄壁の笑顔で学園生活を過ごした。ランスロットには会いに行かず何も言わない。公爵邸から届いたランスロットからの手紙も贈り物も開けずに片付ける。

エリーは何も言わず泣きも怒りもしない主が怖かった。ランスロットの報告書を綺麗な笑みを浮かべて読むクローディアに震えていた。公爵令嬢として評判の良いクローディア。幼い令嬢達のお手本に名の上がる程だった。ランスロットさえ関わらければ・・・。ランスロットに恋する主はおかしかった。ただそれ以上に今の主は恐ろしくてたまらなかった。


***


夜会でクローディアはランスロットのエスコートを受けていた。挨拶が終わったので人気のないバルコニーに誘われ二人で休んでいた。クローディアの前にいるランスロットはいつもと変わらない。


「ディア」


ランスロットは甘い瞳でクローディアを見つめ、頬に手を添えそっと口づける。クローディアは綺麗な笑みを浮かべる。


「どうかした?」


微笑むクローディアの頬にランスロットが口づけを落とした。


「私だけですか?」

「もちろんだよ。僕が愛するのは君だけだ」


クローディアは甘い声で囁かれ、触れるだけの優しい口づけを落とされた。前のクローディアなら頬を染めてうっとりと幸せに浸った。ただ嘘だと知ってしまった。

クローディアは背伸びをしてランスロットの頬に手を伸ばし口づける。クローディアからの初めての口づけにランスロットは驚きながらも受け入れる。

クローディアはランスロットから唇を放し、熱に溺れる瞳を見つめた。

目の前の相手は単なる快楽主義者と思うことにした。口づけに愛などかけらも籠っていない。再びランスロットに口づけられた。ランスロットとの口づけは気持ちが良かった。空虚な甘い言葉も耳心地よい。囁かれる愛の言葉はいつもと変わらない。心に響かせてはいけない。それでも高鳴る胸の鼓動もうっとりしそうになる自分が滑稽で堪らなかった。口づけに満足したランスロットが抱きしめる腕の中でクローディアの心はごちゃごちゃになっていた。

心の中で色んな感情が混ざり、ランスロットに何も感じなくなればいいと願う。バカで愚かな自分への気持ちを隠して社交の笑みを浮かべてランスロットに寄り添った。


***


入学して一月経つ頃、エリーに婚約者の調査を命じる必要はなかったとクローディアはしみじみ思っていた。

今まではランスロットに嫌われたくないから調べなかった。この学園に来なければクローディアはずっと気付かなかっただろう。

ランスロットは放課後は、ほぼ毎日恋人達と過ごしていた。クローディアは意識しなくてもランスロットの声と気配を見つければ視線で追ってしまう。つい足が勝手に動いていた。

クローディアは毎日作るクッキーをランスロットと恋人の姿を見るたびに、恋した自分に失望して、踏みつぶした。

クッキーと一緒に全て砕けてしまえと。

踏みつぶしたクッキーは鳩の餌にする。庭園の椅子に座り踏みつぶしたクッキーを与えてぼんやりするのがクローディアの日課だった。

そしてランスロットへのごちゃごちゃした気持ちをを抱えたまま生地をこねて、クッキーを焼くことも。


クローディアは自分の手の上のクッキーを食べる鳩を眺める。こんなに醜いクッキーでも寄って来る鳩に感心していた。鳩の赤い目を見ながら考え込む。一度、膝の上でクッキーを食べさせて制服に鳥の糞がつきエリーに泣かれてからは、気をつけて制服が汚れないように手の上で食べさせていた。エリーは突っ込みたかったが怖くて言えなかった。鳥の糞がついても何も気にしない主の心の傷に泣いた。鳩が大事なお嬢様の美しい肌を傷つけることにも嘆き悲しんでいた。公爵に報告したくてもクローディアに干渉するなと命じられている。

エリーは目を輝かせて楽しみにしていた学園生活で、ボロボロになっていく主の姿に陰で涙を流していた。クローディアが何も感情を示さないので、エリーは慰めることもできない。ただ命令をこなして傍にいるだけだった。


クローディアはランスロットが何人もの恋人と過ごすのを見かけた。二人の意思とは関係なく将来はランスロットとの婚姻が決まっている。愛のない夫婦などたくさんいるのはよく知っていた。クローディアは仮面夫婦でも外ではうまく演じる自信がある。

ランスロットに恋人がいるなら、クローディアにも恋人を作る権利はある。

この学園にはクローディアを知る者はいない。ランスロットを驚かせたかったので公爵令嬢とは隠していた。ランスロットと平民の恋人ごっこもしてみたかった。今のクローディアにとっては黒歴史だが・・。もし公になっても公爵家の力で噂を消そうと決めた。社交界ではランスロットの女好きの噂はない。ランスロットがうまくやっているならクローディアもできるだろうと歪んだ笑みを浮かべていた。


クローディアは期間限定の新しい恋を探すことにした。

ランスロットへの恋心を消すことに躍起になっているクローディアは自分が有名だと気付いていない。

入学式で多くの生徒の視線を集めた慈愛に満ちた表情で鳩に餌をあげる美少女は学園で有名だった。

どんな悪いことを考えていてもクローディアは鉄壁の笑顔を浮かべていた。公爵令嬢にとって常に笑顔を浮かべるのは簡単だった。


クローディアはクラスメイトのリリアンと食事していた。リリアンは入学してから出来た貧乏伯爵令嬢の友人である。クローディアとリリアンは面識がなかった。クローディアの友人は誰も学園に通っていない。この学園に通うと伝えると大反対されたが聞き流した。当時は婚約者を追いかけることで頭がいっぱいだった。



「リリアン、期間限定の恋人ってどうすればできますか?」

「遊びの恋人ごっこ?」

「思い出作りかな。一度でいいからちゃんとした恋愛をしたい」

「お金を払えば女の子に夢を見せてくれるクラブがあるよ」


クローディアは首を横に振る。夢や偽物はいらない。それは婚約者が与えてくれる。どれだけあとで惨めになるか身を以て知っていた。


「嫌。心が満たされたい。将来は決まった人に嫁ぐけど、心だけは恋人のものにしたいの。一度でいいから本物が欲しい」

「噂を流してあげる。きっと声をかけられるわ。クローディアは可愛いもの」


可愛くウインクするリリアンにクローディアは頷く。クローディアはリリアンは学園生活に慣れない自分を気遣い色々教えてくれる親切な友人と思っていた。人に世話されてばかりの公爵令嬢のクローディアにとって、自分のことは自分でする学園生活は新鮮だが不便だった。今まではクローディアの身の回りのことは全てエリーたちが用意してくれた。髪も自分では纏められない。お茶も自分で入れられない。

初めて料理をした日は手を洗うのに冷たい水に触れ顔を顰めただけで料理人達が絶叫して止めようとした。

お嬢様の美しい肌がと騒ぐ者達をクローディアは笑顔で脅して黙らせた。婚約者が関わるとクローディアが豹変するのは公爵家の常識である。

入学してからクローディアは価値観の違いに友人に心配された理由を痛感していた。

いつも親切なリリアンに感謝していた。エリーに甘えるのは寮内だけと決めていた。学園内ではできるだけ自分で頑張ると。必死になって新しいことを覚えている時はランスロットのことを忘れられる。

鈍いクローディアはリリアンが親切で優しい伯爵令嬢でないとは気付いていない。



木蔭でクローディアはクッキーを踏みつぶしていた。

何度見ても悲しむ自分が嫌だった。残念ながら本人だった。ランスロットの声に気付くのもどんな言葉も聞き逃さない自分が惨めで嫌だった。

抱き合う二人から視線を背けて、クッキーを処理するために拾い上げ、粉々になったクッキーを見つめていた。


「捨てるのか?」


クローディアは首を傾げた。周りを見渡しても近くに誰もいない。

ドサっと音がして木の上から降りてきた男にクローディアは目を丸くした。


「捨てるならくれないか?腹減ってるんだよ」


クローディアは粉々になったクッキーを見つめた。人の口に入れていいものではない。


「お腹壊しますよ」

「どうせ鳥にやるならくれよ。踏んでたのも見えたし」


クローディアは男の言葉に首を傾げる。1度目以外は人目を気にして人気のない場所で踏んでいた。さすがにクッキーを踏みつぶす行為はマナー違反とわかっていた。男は茫然として動かないクローディアから袋を取り上げクッキーを口にいれる。

クローディアにとって学園生活は常識の違いに驚かされてばかりだった。もしかして粉々のクッキーを食べる文化があるんだろうかと見当違いなことを思っていた。


「クッキーを踏むのは普通ですか?」


常に笑顔のクローディアは有名だった。ただ近寄りがたいオーラにほとんどの者が声を掛けられなかった。最近は酷い失恋をしたクローディアが新しい恋を探していると噂になっていた。


男は見当違いな言葉に笑う。


「普通ではないが、食べ物は貴重だ。粉々でも腹にたまれば一緒だ。味も悪くない」


食べてもらいたかった人がいた。ただもういない。クローディアの初恋、恋心は砕け散ってほしいと思っている。料理を覚えていた昔の自分を思い出すと悲しい気持ちがした。


「このようなもので良ければさしあげます。お腹を壊しても責任は持ちませんよ」

「ああ。また余ったらくれよ」


この学園に通うのは裕福な生徒は少ない。目の前の男が誰かは知らない。クローディアの行為は酷い行為だと気づいた。悲しい顔をしたクローディアの頭に男が手を置いた。


「理由があるんだろう。責めるつもりはない。事情は人それぞれだ」


クローディアは恵まれている。未来は選べなくても、たくさんの人に世話され、贅沢して暮らしている。婚約者の本当の姿を知るまでは幸せだった。それでも家族にも友人にも恵まれ幸せである。初恋を砕きたくても泣くことは許されない。ランスロットとは良好に見せないといけなかった。婚姻に不満を持つなど許されない。将来クローディアの家に婿入りするランスロットへの不満は表に出すなど公爵令嬢の矜持が許さなかった。


「クッキー以外で砕けるものはあるんでしょうか・・・」

「砕けたら俺が食べてやるよ。やめられないんだろ?」


クローディアは頭を撫でる男の優しさによわよわしく笑う。現実を知って初めて浮かべた素の笑みだった。


「やめられる時は前に進めた時ですわ」

「足掻くのは良い事だ。頑張れ。そろそろ帰れ」


クローディアは陽気に笑う男に礼をして立ち去る。

学園に入学してからランスロットとのお茶会は父に学園で会えるので必要ないと言い無くしてもらった。必要以上に会いたくなかった。ランスロットには多忙のため辞退の手紙を送った。うちから届けられたランスロットからの手紙も贈り物も見る気がおきなかった。ランスロットに心を動かされる自分が嫌だった。社交はさぼらないと約束した。ランスロットの愛の言葉を聞きたくなくて、同行者のいらない夜会を選んだ。あんなに好きだった時間が、クローディアにとって苦痛で空虚な時間に変わった。


初めてランスロットと会わない夜会に参加し、心配する友人達に笑顔を浮かべる。友人達の話に耳を傾けながら、仮面を被る。愛しい婚約者と毎日過ごせ幸せで堪らないと。息をするように嘘をつける自分もランスロットと同じと思うと悲しくなった。


クローディアはぼんやりと授業を受けていた。恋するには相手が必要である。何枚か手紙をもらって会ってもお付き合いには頷けなかった。向けられた気持ちは本物かわからない。でも騙すことは躊躇われた。本当の恋がしたいけど、ランスロットと同じことはしたくなかった。

ランスロットは色んな女を抱きしめ愛を囁いている。見かけるたびに、心が抉られクッキーを踏みつぶした。

出会った木の下に行くとジェットが降りてきた。踏みつぶしたクッキーはジェットに渡す。ジェットもクローディアもお互いのことは話さない。ただジェットはクローディアの何気ない言葉に耳を傾けながら踏みつぶしたクッキーを美味しそうに食べるだけ。クローディアは自分のドロドロした気持ちのこもったクッキーを食べる様子を不思議そうに見ていた。クローディアはジェットの前では貴族の仮面をやめた。踏みつぶしても胸の痛みが消えない自分が惨めで堪らなかった。でもジェットとの時間に心が軽くなるのに気付くのはしばらく先のことだった。


リリアンはクローディアとジェットの様子を眺めていた。恋に発展するかはわからない。恋がしたいと願うクローディアが本当の恋を見つけられるかは本人次第。バカな男の顔を思い出してため息をついた。


***


ランスロットはクローディアとの定例のお茶会も手紙もなくなり戸惑っていた。いつも嬉しそうに自分を訪ねていたクローディアが入学した途端に姿を見せなくなった。ランスロットは見聞を広げるようにと貴族院ではなく学園に通っていた。貴族院に通う時々抜けてる婚約者が心配になり姉に話を聞くと呆れた顔を向けられる。



「ランス、何を言っているの?ディアは毎日貴方と会えて幸せって笑ってたわよ。サプライズ成功したって喜んでたけど・・・。幸せすぎて頭がおかしくなった?」

「姉上、僕、ディアと一月も会えてないんだけど。ディアは貴族院に入学したんじゃ」

「は?ディアは貴方と同じ学園に行くって貴族院の入学試験と卒業試験を同時に受けたからすでに卒業してるわよ」

「ディアはどこに!?」

「学園に入学してるわよ。医務官呼ぶ?」


呆れる姉の口から聞いた恐ろしい事実に部屋を飛び出し、公爵邸に向かうと不在だった。学園に戻り調べると蜂蜜色の新入生が失恋し新しい恋を探していると噂があった。そういえば蜂蜜色の髪を見た気がした。クローディアに見えて幻覚かと思った。ランスロットが学園中探してもいなかった。

ランスロットは混乱していた。


「坊ちゃん、文を出されてはいかがですか?」

「ディアが学園なんて。こんな危険な場所に可愛いいディアが」


途方にくれ、真っ青な顔のランスロットを侍従は引きずって連れ帰った。昔からランスロットを振り回せるのは姉と婚約者だけだった。婚約者が関わると手がかかるのはランスロットも同じだった。


***

クローディアはいつもランスロットとの時間を優先していた。ランスロットの参加する夜会に同行するため遠方の茶会には参加しなかった。

初めて大公夫人が王都から離れた避暑地で開く茶会の招待を受けた。移動に半日かかるので夜のランスロットとの夜会を断る口実に丁度良かった。公爵はきちんと約束を守り、ランスロットではなく公爵令嬢としての社交を優先したクローディアを誇らしく見ていた。学園では問題なく過ごしているので、安心していた。娘が暴走しないようにうまく手綱を握っているランスロットに感謝した。


クローディアはお茶会の後に泊まるように勧められた。大公夫人はクローディアとの会話を楽しんだ。断るのも無礼なのでクローディアは大公夫人に付き合った。学園の授業よりも社交が優先である。おかげで学園に戻ったのは翌日の午後の最後の授業が始まる時間だった。中途半端なので授業はサボった。

クローディアは寮の自室でオーブンに入れたクッキーの焼き上がりを待っていた。机の上には見慣れた文字の手紙が置いてあった。読む気が起きなかった。いつまでも手紙を無視するわけにはいかないので、手紙は開封せずに、謝礼と多忙なため時間が作れないと謝罪を綴りエリーに頼んで侯爵邸に届けさせた。

一人になったクローディアは机の上にあるランスロットからの手紙を燃やした。文箱に保管していた読んでいない手紙も1通ずつ燃やした。

燃えていく自分の名前を見ながら少しだけ前に進める気がした。昨日の大公夫人と二人の時間を思い出した。

大公夫人は優しく温かい人だった。


「ディア、心は自由よ。心だけは」


大公夫人と大公はおしどり夫婦と有名だったが政略結婚である。

秘密よと笑いながら夫人は初恋の話をした。大公夫人が焦がれたのは庭師の少年。彼の手から差し出される一輪の花だけに心が満たされたと。二人は想いを告げなかった。大公夫人の誕生日に届く差出人不明の一輪の赤いバラを眺めるといつも初恋を思い出すのよと美しく微笑む夫人にクローディアは自分の嘘が気付かれている気がした。嘘で固めた幸せな学園生活。

話を聞いて羨ましくてたまらなかった。心のうちは見せずに鉄壁の笑顔を浮かべても無駄だとわかっても他に方法がわからなかった。


クローディアは現実を知って初めて自分で焼いたクッキーを口に入れた。クローディアの汚い気持ちがこもったクッキーのほのかな甘さに涙がポツリと流れた。

ジェットに会いたくなった。涙を拭いて焼きあがったクッキーをバスケットに詰めていつもの木に向かった。

女生徒を抱きしめるランスロットを見かけても足を止めなかった。せっかく美味しくできたクッキーを食べて笑って頭を撫でて欲しかった。クッキーを踏みつぶさなくても、大丈夫な気がした。


「ジェット、いますか?」


いつもの木に声を掛けても反応がなかった。クローディアはジェットに会う方法はこの木で待つしか知らなかった。いつも並んで座る木の幹に座って膝を抱えた。

焼きあがったクッキーは冷めても、初めて形があるから喜んでくれるだろうか。クローディアはジェットが来るのを待つことにした。探せばきっと見つかるだろう。でもこの場所で会いたかった。


****


ランスロットがクローディアの教室を訪ねると休みだった。体調不良なら見舞いに行く用意をするため侯爵邸に帰ると母親に呼び止められた。


「ランス、どうしたの?」

「ディアの見舞いに」

「え?ディアは元気よ。大公夫人に捕まってたから返してもらえるかはわからないけど。大公夫人が料理を覚えたディアに作って欲しいって頼んでいたわ。ディアは不出来で口には入れられないって」

「料理・・?」


朗らかに笑い楽しそうに話す侯爵夫人と茫然とするランスロットの異様な空気に執事が足を踏み入れた。


「クローディア様からお手紙ですが、後にしますか?」


執事の声にランスロットは手紙を乱暴に受け取り、その場で中身を読んで真っ青になった。

初めてもらう形式通りの感情の籠っていない手紙だった。


「ランス、喧嘩したの?ディアが会いたくないって」


ランスロットはディアに学園で会いたいと綴っていた。多忙?

嫌な言葉が脳裏をよぎった。失恋して新しい恋を探している?手料理なんてもらったことはなかった。ランスロットは慌てて学園に戻った。侯爵夫人は楽しそうに笑った。息子が慌てても婚約者さえ前にすれば落ち着きを取り戻す。婚約者の前で格好つけることに全力を見せる息子は愉快な玩具だった。


ランスロットは学園に戻り、侍従にクローディアを探させた。

学園を歩きまわると蜂蜜色を見つけて、駆け寄ろうとすると女生徒とぶつかった。バランスを崩した女生徒の腕を引っ張り勢い余って抱きとめた。

この光景をクローディアが見たことをリリアンは見ていた。


「申しわけありません」


ランスロットは女生徒の言葉に反応せずに、蜂蜜色を追いかけるとすでにいなかった。

窓から外に出て庭園を探した。歩き回ると、蜂蜜色を見つけた。膝を抱えてうずくまるクローディアに慌てて駆け寄った。


「ディア」


クローディアは待ち疲れて眠っていた。呼ばれる声にゆっくりと頭を上げて、目を擦った。


「ジェット。遅いですわ。待ってましたのに」


寝ぼけて、無邪気に笑うクローディアの言葉にランスロットは息を呑んだ。

目を開けて、ランスロットの存在に気付いたクローディアは目を丸くした。なんで目の前にいるかわからなかった。つい先刻に多忙で会えないと手紙を出した相手に会うのは気まずかった。そして目の前の相手は恋人と楽しい時間を過ごしているはずだった。


「ディア?」


クローディアは鉄壁の笑顔を纏った。


「ごきげんよう。ランスロット様。私、用があるので失礼しますわ」


思いつく方法は一つだけだった。前に進む準備ができてから会いたかった。クローディアはまだ準備中である。

クローディアは立ち上がり、礼をして立ち去ろうとすると腕を強く引かれて抱き寄せられた。

ランスロットは嫌な予感しかしなかった。無防備に笑い他の男の名前を呼ぶクローディアは初めてだった。自分から離れようとする姿も。いつも自分を見ると嬉しそうに笑う顔が可愛くてたまらなかった。


「ディア、新しい恋って、君は僕の婚約者だろう」


クローディアは動揺する心を抑えて笑みを浮かべた。目の前にいるのは快楽主義の婚約者。


「はい。公爵令嬢ですから、きちんと務めは果たします。噂が立たないようにきちんとしますのでご心配なく」

「ディアは僕のことを」


クローディアはランスロットの小さい呟きを拾った。長年培ったランスロットセンサーはどんな言葉も聞き漏らさない精度を誇っていた。顔色の悪いランスロットは秘密を知られ動揺していると思った。確かに父はランスロットの女癖の悪さを知れば激怒するだろう。クローディアは父に愛されている。父には婚約者と幸せな結婚をすると誤解していてほしかった。大好きな父に心労をかけたくなかった。クローディアはランスロットさえ絡まなければ親思いの優しい娘だった。


「お父様達に報告しませんわ。私は現実を知りました。嘘の言葉はいりません。仮面夫婦でいいですわ。必要な時はきちんと演じます。ですから放っておいてください」


私は気にせずどうぞ恋人と愛を育んでくださいとは口にできなかった。クローディアは胸を押して、立ち去るつもりだった。

離れようとするクローディアをランスロットは離さなかった。ずっと微笑むクローディアの頬に片手をあてた。


「僕はディアに嘘はつかない。どうして、そんな」


呆然と呟くランスロットの察しの悪さに唇を思いっきり噛んだ。言わないとわかってくれないのか。これ以上騙されて惨めになるのは嫌だった。公爵令嬢なら言うべきではない。でもお互い様かと思い直してクローディアは本音を口にした。


「私がバカでしたの。勘違いしておりましたわ。私は本物が欲しいんです。今だけでいいです。婚姻したら諦めます。たった一人の人を愛して愛されることに夢を見させてください。噂などたてませんわ。在学中にできなければ諦めますわ」

「僕はディアだけを愛している」

「嘘ですわ。もう聞きたくないんです。放してください」

「ディア、僕は」


ランスロットの腕から逃れようとクローディアは必死に胸を押しても離れられなかった。

クローディアの叫び声にジェットが駆けつけランスロットの腕を掴んだ。腕から解放されたクローディアは逃げ出した。


「僕のディアに何をした!?」

「何も。何かしたのは俺ではありません。ご自身でお考えを」


クローディアの父は娘に甘い。礼儀も知らない生徒が多い学園に愛娘を通わせるのは心配だった。クローディアに秘密で生徒として何人か忍ばせていた。ランスロットがいると暴走する娘の悪癖も心配だった。


ジェットは掴みかかるランスロットの腕を解いてクローディアの置いていったバスケットを手に取り立ち去った。

初めて形があるクッキーに笑った。クローディアなりに前に進むなら見守るだけだった。ジェットはランスロットの幸せには興味がない。事情を知っても介入する気はなかった。ただ間違った道に進むなら止めて、危険から遠ざけるだけ。年長者としてのアドバイスをするのは公爵家のお嬢様にだけである。



ランスロットはクローディアの拒絶に茫然とした。

クローディアの待つジェットを呼びに行かせた後からリリアンは二人の様子を静かに見ていた。あの状況で追いかけないランスロットに呆れた。リリアンはランスロットの背中を蹴とばした。倒れ込むランスロットを高圧的に見下した。ランスロットは茫然とリリアンを見上げた。


「情けない男。ディアの趣味を疑うわ。ディアを傷つけ、恋心を砕いたのは貴方よ。ディアは貴方でなくてもいいわ。婚約破棄して身を引いたら?学園の生徒の憧れのランス様」


あざ笑うリリアンを表情が抜け落ちたランスロットが見上げた。


「なんで、ここに」

「ディアが貴族院に通わないって言うんだもの。せっかくだから遊ぼうと思ってたのに、この有様。数多の恋人を持つ貴方を見て純真なディアの心は砕けたわ。最近、ようやく笑うようになったのよ。毎日婚約者に会えて幸せって、私を騙せるわけないのに」

「なんで、ディアがここにいるんだよ。こんな危険な場所に」

「伯父様はディアのお願いに敵わないわ。ディアを説得するより周りを固める方が簡単だもの。ディアは気付いてないけど簡単な方法があるのに」

「僕はディアだけなのに」

「バカみたい。他の女で練習した言葉に喜ぶ女はいないわ。女の子に夢を見せる?ディアのため?ディアに捨てられればいいわ。公爵家に婿入りしたい男は数多いるもの。ディアが本気になれば女公爵も目指せるわ。ディアは決めたら絶対に掴み取る。私はディアを慰めてくるわ。どうぞディア以外の恋人達と幸せに。さようなら」


妖艶に笑うリリアンを見てランスロットは茫然としている場合ではないと気づいた。目の前の令嬢は狡猾である。侍従に足止めを命じてクローディアを探しに消えて行った方向に駆けだした。



***

クローディアは本能のままに走っていた。気付いた時には自分はどこにいるかわからなかった。

息が切れたので木陰に座り休むことにした。

ランスロットに心を乱す自分が嫌だった。クローディアは本物の愛が欲しい。ランスロットはクローディアが事実を知ったと知ってどうするんだろうかとぼんやり考えていると人の気配がした。女生徒が去っていき、あとからゆっくりと男子生徒が歩いていた。

男子生徒はクローディアの前にしゃがみ、頬に手をあてた。クローディアは首を傾げた。


「待てなかった?俺を指名してくれるのは光栄だけど、次はやめて。なんて呼んでほしい?」


魅惑的に微笑みかける男子生徒にクローディアは笑みを浮かべた。この距離感も学園では常識なのかと見当違いなことを思った。目の前の綺麗な生徒をクローディアは知らなかった。


「クローディアと申します」

「クローディアか。初めてかな?希望はある?」


クローディアは首を横に振った。


「なら任せて。夢を見せてあげるよ」


優しく抱き寄せられて、クローディアの髪を解き、髪を一房手に取り口づけを落とす姿はよく似ていた。鉄壁の笑顔の仮面が取れて、眉間に皺が寄った。男子生徒はうっとりしないクローディアの緊張を解くために優しく笑いかけ、頬に手を滑らせた時、クローディアが勢いよく顔を背けた。


「嘘、なんで、逃げないと」


男子生徒の胸を押して、クローディアは慌てて立ち上がり駆けだした。


「ディア、待って」


クローディアのセンサーが反応した。ランスロットに会いたくなかった。今はやめてほしかった。本気で走っても身体能力の差は激しくあっという間にランスロットに手を掴まれた。


「僕が愛してるのはディアだけだ」

「離してください。もういりません。必要な時だけで構いません。ここには私達を知る者はいません」


言い争う二人に先ほどまでクローディアを抱きしめていた男子生徒が不機嫌そうに声をかけた。


「ランス、俺の客を取るなよ。今日の指名はどうした」

「客!?ディア!?そんなものに近づかないで。君は知らなくていい世界だ」


自分の肩に手を置き、焦った顔のランスロットにクローディアは戸惑った。見たことのない顔だった。


「ランス、具合悪いのか?」

「まさかディアに手を出してないよな」

「クローディアと知り合いなのか?」

「あとで覚えておいて。ディア、僕には君だけだよ」

「もう嘘はやめましょう。虚しいだけですわ。もう少しだけ時間をください。そうすればきっと理想の二人に戻れますわ。子供さえ作らず、醜聞さえ気をつけていただければ私は何も言いません」

「ディア、お願いだから聞いて。僕は生涯君だけだよ」

「いりません。私はもう子供ではありません。理想の仮面夫婦も見つけましたわ。もう少しで気持ちの整理も」

「ランス、かわるよ。このお姫様はランス向きじゃない。お手本見せてやるよ」


「ディアに手を出したら殺すから。ディア、僕は君が好きだよ。一度も嘘をついていない。でも秘密はあった。僕は君が思うほど、器用な男じゃないんだよ。ディアに好きになってほしくて必死に」

「ランスのお姫様か・・。女の口説き方を教えてくれって頼まれたのが懐かしいな。クローディア、ランスは学園に恋人はいない。夢を売ってるだけだよ。女心の勉強に。こいつはディアのことしか考えていない」


笑う男子生徒と赤面するランスロットにクローディアが首を傾げた。意味がわからなかった。


「ランスに本命がいるのは有名だよ。それでもこの外見だから指名が入る。俺が教えて、客で試して君に実戦してたんだよ」


クローディアは茫然とした。ランスロットは多忙である。クローディアはどんなに会いたくても我慢していた。我儘は言ってはいけないと。

そんなことのために時間を使っていた?クローディアは会いに来てくれるだけでよかった。うっとりする甘い言葉は嬉しかった。愛していると言われたときは幸せで死にそうだった。でも欲しいのは本物だった。誰かの考えた気持ちのこもっていない言葉はいらない。事情がわかればランスロットの行為は全く嬉しくなかった。心の中で聞き慣れたクッキーを踏みつぶす音が聞こえた。


「きらい。もういや」


「ディア?」


「さよなら」


クローディアは茫然とするランスロットの手を解き立ち去った。クローディアの中で愛したランスは偽物だった。ランスロットとの思い出が全て嘘に思えた。

クローディアの部屋の前でリリアンが待っていた。


「クローディア、お帰り」


優雅な笑みを浮かべたリリアンにクローディアは首を傾げた。


「ただいま。疲れているのかな。リリアンが別人に見えました」


リリアンがまとめていた髪をほどいた。髪の色は違うがクローディアの従姉のアンリにそっくりだった。


「ディアは一目でわかると思ったのに」

「アンリ、どうしてですか!?」

「せっかくなら私もディアと楽しみたかったの。ここではリリアンだから。さて新しい恋を探しましょうか」

「全部お見通しですか?」

「もちろんよ」


クローディアは同じ公爵令嬢で王子を婚約者に持つアンリが入学するとは思わなかった。ただ包容力のある王子ならアンリの行動も笑顔で受け入れてくれるのがわかって笑った。


「久々に1杯やりましょう。ディアの新たな門出に」

「ありがとう」


クローディアは細かいことは気にしない。リリアンだったアンリと共にお茶を楽しんだ。アンリに学園でおすすめの生徒の資料をもらった。クローディア好みよと笑うのにつられて笑った。

クローディアはクッキーを焼くのはやめた。本物の恋を探して学園生活をアンリと共に満喫することにした。アンリに渡された資料がお忍びで入学している高貴な血を持つ訳あり貴族達とは気づいていなかった。


ランスロットは空き時間はいつもクローディアを探した。ただランスロットセンサーを持つクローディアは避け続けた。

放課後は時々ジェットに頼んで木の上に座らせてもらった。

パイを渡すと美味しそうに食べるジェットを見ながら他愛もない話をした。

クローディアが新しい恋を見つけられるか、ランスロットが砕けた心を繋ぎ止めるかは二人次第だった。


読んでいただきありがとうございます。

踏むと砕けるクッキーになりたかったクローディアの話ですがタイトル詐欺でしょうか・・。

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