二つの風の匂い
体の中に何かがいる。俺の思考、感覚、全てを支配しようと侵食して行っているようだった。奥底で眠る事しか出来ない自分の弱さに涙を流す。きっかけは『嫉妬心』だった。出来損ないの自分と優秀な雫を比べて、悪意に飲み込まれそうになっていた──その時だった。
『──自分の可能性に気付かない哀れな忍びよ。悔しいだろう、悲しいだろう。同じ忍びなのにどうしても気づいてしまう。才能の違いに……』
その声はじっとりと絡みつくように粘り気のある言葉使いで、囁いてくる。跳ねのける事も出来たはずなのに、その時の俺は耳を傾けてしまった。
「──っ」
『本当は彼女も欲しいのだろう? いつも傍にいて支える役目を全うしているお前は心の奥底では欲して止まないのだ』
声は術のように姿を変えながら人の姿から獣の姿へと変貌していく。その光景はまるで自分そのもののように思えてままならなかった。いつもの俺なら、そんな言葉を跳ねのけるし、乗り越えていたはずだ。しかし、その時はふつふつと湧き上がってくる『欲望』を受け止めてしまう。年老いた男の声に寄せ付けられ、俺の体と心の自由を奪うように、風に靡いて辿り着いた札がびっしりと体を覆う。
『お前は優秀だろう。だったらそれを示せばよいではないか。例えどんな手を使ってでも……な。それをお前は求めているのだ』
自分の体が黒いミミズのようなものに貫かれていく。体のパーツに合わせて変幻自在に形を、姿を変え、奥底に眠る俺は砕かれていく。
しみわたる
おんなのかげに
あめのおと
よかぜがうなる
きみのはごろも
こんな時に浮かんできたのは紅蓮の姿だった──
『右黄、こんなものに喰われてはダメだろう。紅蓮様も待っているのだ、お前が帰ってくる事を』
蓮虞は痛い想いを堪えて、何度も何度も問いかける。ほんの少しでもいい、この声が届くのならまだ間に合う。時間がかなり経過していた事もあり、侵食の度合いが深いのだ。忍びとして生きている右黄だからこそ、この術にも耐えている状況だった。何の技術も精神力も持たない村人からしたら、耐える事が出来る者は存在しないだろう。心の奥底に浮かぶ人間の持つ感情の一部分に弱さがある。そこを突かれたのは分かっていた。分かっていた、だからこそ、余計腹正しくも感じてしまう蓮虞。
苦しむ事もしなくなった右黄を横目で見ると、その顔はまるで死人のように生気を失っていく。
『自分自身に負けてどうする? お前の『覚悟はその程度だったのかセイよ』
もう随分、この名前を出していなかった。出してしまうと昔を認めてしまいそうで、感情の制御をする為にもあえて出さなかった。忍びとしての道を歩いた瞬間から、蓮虞と右黄の運命は決まっていたはずだった、が、子供の二人には大人の事情など理解出来ずにいた。あの時の事を思い出すといかに自分が愚かで脆い存在なのかを思い知らされる。
二人を包む風がゆっくりと歌を歌う。
子供の声に聞こえる音は二人にとって悲しくもあり、幸せの形を示してくれた過去の希望の姿だったのだ。
木登りが好きだった。この里から出る事が出来ない、任務以外で行動してしまえば、その先はない。ルールは破る為にあるものだと考えていたセイは長い髪を結うと、黒装束に包まれながら鳥のように飛び出した。
『私はもう17だ。そろそろ自由に生きたい。だからこそ、すまないね』
苦しい思い出ばかりではない。二人の兄弟に支えられていた。二人も年を重ね、自分達の任務に取り掛かるようになっていた。それは本人の意思より里の意向であり、この村の長『相良恵世』が決めていた物事でもあった。
『あのばあさんは厄介だが、私はそこを切り抜ける術を手に入れた。だからこそ、全てを白紙に戻すべきなのだ』
過去の匂いはゆるやかに残酷に流れている。自分達の血筋が原因で全ての幸せが音を立てたのはセイが5才になった頃の事だった。弟はすやすやと寝息を立て、母の腕の中で幸せそうな顔をしていた。その姿を見ていたセイと兄は微笑みながら『誓いの場』へ向かう為に、嘘を吐いて時間差で家を出た。鈴蘭の花が咲き乱れる場所が二人の秘密基地でもある。ここの存在を知っているのは一部の者だけだった。元々ある男の忍びの名前にちなんで鈴蘭で埋め尽くしたと聞いた事がある。おとぎ話のような内容に笑ってしまう二人。
『兄貴、俺達は鈴蘭よりも強い忍びになる。実在したかは分からないけど、模倣すると言う意味でさ、俺達兄弟がその名前を語るのはどうだろう』
冷静な兄に提案をすると、溜息で返された。
『セイ、その名前は使ってはいけないと言われているだろう?』
『そうだけど。何か綺麗で格好いいからさ。まぁ過去の忍びの名前と同じってのは兄貴からしたらプライドが傷つくかもだけど』
真っすぐに生きていたセイははっきりと言った。悪意がない程の純粋さはいつか全てを崩壊する危うさをはらんでいる。その事に誰よりも気づいていた兄はもう一度、聞こえるように大きく溜息を吐いてみせた。
『お前はバカか? 同じ名を語る事が出来るのはその跡継ぎだけだろうが。私達はその立場ではない』
兄は真面目で堅物と言われている。自分の考えを持ちすぎている所が強く出ると視野が狭くなるような事を言いながら、出来ないと言っていた、以前は。最近はセイにどう言えばいいのかを理解したのか、言葉の方向性を変えながら諭してくる。しかし今日はどうしてだか、兄は機嫌が悪い様子。
『跡継ぎだけなら、俺らがその『跡継ぎ』になればいいじゃん』
後先を考えない発言に怒りを通り越して、呆れしかない。いつもの兄なら苦笑しながらも、優しく答えてくれるのに、まるで何かを否定するように、逃げているように、見ない振りをしていた。
『……私は鈴蘭を名乗れない。他の名を貰ったからな』
『えっ、凄いじゃんか。何て言う名前?』
『弟のお前でも教える訳には──』
『俺は『鈴蘭』兄貴は?』
産まれた時の名と下忍の名、そして新しい主から授かった名、複数の名前を操りながら、沢山の顔を作る。それが兄の求める姿でもある。この運命に逆らう事は出来ないからこそ、名前は伏せるようにもしていた。一つの情報を教えてしまうと、ここまで育ててくれた人達に迷惑もかかる。そして自分の弱点にもなりかねないと考えているからの判断だった。冷たい滴はゆっくりと蓮の花に吸われていく。どんなに汚い居場所でも生きれるからこそ、別の名前を選んだ。その事実を知らないセイは、はしゃぐばかりで全く成長の色が感じられない。図体だけ大きいだけで、後は子供と同じ。
『セイ、私はお前の兄として言ってやる。お前にはその名は重すぎる。いつか身を亡ぼす結果になるだろうな。その名前を名乗るのもお前の自由だが』
忠告をしてくる兄は、セイの知らない別人に見えた。笑っていた顔は歪に歪んでいくと、一つの闇となる。
『……だから言っただろう? お前には重すぎると』
自分の父が背負っていた名前とは知らないセイは、鈴蘭の名を語る資格を得てしまった。その父の姿を知らないセイからしたら、複雑に絡み合う関係性に気付く事が出来ないでいた。そこも弱さの一つだったのかもしれないと蓮虞は思った。自分の話し方を真似ていた17歳のセイを最後に消息が掴めれなかった。右黄は昔の姿を捨てた兄、蓮虞の気持ちを汲み取る事が出来なかった。
『いつかは蹴りをつけないといけないのだよ、右黄。お前はあの人事を知らないから余計にな』
悲しく呟くと、今の自分に出来る弟を助ける策を複数組み合わせながら、黒霧を裂いていった。