①
ふいに涙が毀れそうになる衝動を抑えながら、震える口を噛みしめながら、呟きました。私の声が独尊様のお耳に届いたかは、分かりません。無言の中で優しい香りがしたのは気のせいでしょうか。私の目が貴方様の表情を見る事が出来たのなら、どれほど、幸せでしょう。
言葉の代わりに、貴方様の近づいてくる足音が聞こえてきます。少しずつ距離を狭めるように、私を安心させるように優しい香りを漂わしながら。
伸びてくる手は、私の頬に触れ、そして撫でました。そしてなぞるように頭を撫でてきたのです。
「独尊様?」
恥ずかしさを隠すように、独尊様の名を呼びました。返答はなく、居心地のよい無言が続くばかり、これも私にとって一つの幸せの瞬間だったのです。この時から少しずつ崩れていっている日常の幸せの旋律に気付く事なく、ただ流れに身を任せ、現実に気付く事にもなかったのです。
『……いい気なものだな』
空間に混じるように、影に隠れ私達二人の行く末を傍観している瞳に気付く事なく。
涙の音は燦燦と降り注ぎながら、涙に変わります。青い瞳の独尊様、そして対なる、赤い瞳を持つ唯我様、その間に祈り続けるのは私の役目。
子供の頃から人の心を見る事が出来る私は、二人の心を掴みながら、あの時に近づいていくのが運命かもしれませんね。
美しいお二人の間で何の取り柄のない私がいるのが自分でも不思議で不思議でたまらない。剣術と武道を完璧にこなす兄弟のお二人を見ていると、本当にお傍にいていいのか躊躇ってしまいます。満月に見つめられながら、暗闇の中で草木のしなやかな香りと騒めきが交差しながら、頬を刺激する。そのたびに心の臓が締め付けられ、切ない気持ちへと流されてしまう。いつもなら独尊様が近くにいるはずなのに、今日は違って唯我様とこの地へと足を運びました。私の事など興味などないはずなのに、連れ出してくださった唯我様の手は温もりに満ちて、戸惑いを落としてしまうのです。
私は問いかけながら、この空間を身体に教え込みながら、一つの想い出として、語るのです。
「どうしてここへ?」
『……単なる気まぐれだ。理由などない』
冷たい口調の割には、彼を纏う空気は妙に温かくて、独尊様の時とは違った居心地の良さを感じました。彼の事も尊敬していますが、いつも素っ気なく、厳しい方なので近づくきっかけが掴めずにいる私にとって最大の好機とも言えるのでしょう。
――少しでも理解出来る可能性を捨てきれませんから。
『……お前は私が怖くないのか?』
「え」
『いつもビクビクして、弟の後ろに隠れているだろう?少し気になってな』
「それでここへ連れてくださったのですか?」
『くどい』
「すみません」
そんな風に思われていたとは考えもしませんでした。ふふっ、と唇から微笑みが出ると彼は上ずった声でもう一度『くどい』と言いました。
「ふふっ。すみません」
独尊様とは違った優しさを見つけたような気がして、心が温かくなったのは内緒です。私だけの宝物の一つになりました。唯我様も独尊様もきちんと自分と周りを見据えて行動しているのだな、と思った瞬間でした。
夜風が悲しく吹きながら、乗っかかるように彼の呟きが漏れたのです。
『この景色、お前にも……』
「何か言いましたか?」
独り言のように掻き消える声は彼の鼓膜の中だけで響きながら、私の耳には吹き荒れる風の涙を聞いていました。