序章
『煉獄記――れんごくき――』
全ての音がはじけ飛びながらも、貴方の傍にいたいと思う私は愚かなのかもしれません。水面に揺れるのは一つの感情、そう、愛情にも似た憎しみ。
煉獄――
いつまでも続く永遠の苦しみの中で溺れていくのは私自身なのでしょうか。全身を蛇のように這いまわる貴方の視線から逃げるように、瞼を瞑るのです。瞳に映らずとも、感じる事が出来るのは人間の良い部分でもあり、悪い部分でもある。それでも、燦々と肌を打ち付けてくる雪に埋もれながらも、瞑った瞼からは一筋の光にも似た雫が毀れました。
焼きつかされる煉獄の中でも雪の冷たさを感じる私は異質かもしれません。それ程、貴方に魅力を感じ、このような感情を抱いた自分をも愛しているのです。
『実名嘉、何故、泣いているんだ』
「……」
分かりません、その一言が言えなくて、その代わりに唾をゴクリと飲み込みました。貴方の問いかけと共に。
『……そこまで私が憎いか?実名嘉』
「そのような事を何故、おっしゃるのですか?」
嘘はついていません。実際にそう感じたからこそ、言葉にするのです。それが、貴方と向き合う事になる唯一の手段なのですから。私は貴方の言葉をそのまま受け取るつもりはありません。本当の感情を表にしないからこそ、引き出さないと気が済まない性分なので。
……それなのに、自らの言葉は飲み込み、貴方様をどんどん歪ませていく、私をお許しください、言葉で伝えれないからこそ、心の囁きと、感情が落ちるように流れる涙で分かってくれますか?
(唯我様、弱い私を許してください)
降る雪は冷たくも温かい。
それは貴方の心のようで、同じ道を選んでいたあの頃を思い出すようで。
またポタリと流れるのです、雨など降っていないのに……。
序章 夕餉の月
刃と刃がぶつかる音が鼓膜を振動させると、その次に聞こえてきたのは笑い声でした。病で視力を手放した私、実名嘉は、細やかな音で楽しんでいるのです。一人遊びと同じようなもので、両耳から流れてくる癒しの曲は、唯我様と独尊様の会話でした。
唯我様と独尊様は兄弟で幼い頃から同じ時を過ごしていました。視力を失った私を守るかのように……宿命にも似た関係性のようで、少し悲しくなります。無力だと分かっていても、自力で人生を歩みたいもの。だからこそ、お二人の負担である事実は絶えれなかったのです。
杖の音を頼りに、歩いていく、お二人に聞こえないようにこっそりと。
『腕を上げたな、唯我』
『……ふん』
温厚で弟の独尊様は柔らかな物言いをしているのに対して、なかなか素直になれない兄の唯我様。私はたまらず、くすりと微笑んでしまうのです。その声に気付いたのは独尊様。彼はこう言いました。
『実名嘉。そこにいるんだろう。出てこい』
「……はい」
隠れていたはずなのに、少しの声で気付くのは独尊様だけです。唯我様が気付く事はないでしょう。何故なら、私よりも、目の前にいる独尊様しか見ていないから、私を守る事を決めたのも独尊様の意思なのです。だからいつも唯我様は『独尊が守ると決めたなら、私も同じ道を歩むだけだ』と繰り返し、私に聞かすのです。
……分かっています。お二人が私を大切に思うかなどと、勘違いはしません。唯我様は、私から見れば少し遠い存在、しかし独尊様は違う、実の兄のようにおしたいしているのですから。
まるで表裏一体、だからお二人の御父上は『唯我独尊』と分けて名付けたのでしょうね。祈りは果てしなく、どこまでも続いていく……。お互いがお互いを尊重し、道を進み始める前のお二人を心の瞳で見つめながら、涙を流した事など、誰にも語り継ぐ必要などないのでしょう。
ほろりと一粒の雪が、頬を霞め、じんわりと溶けていく。私はまるで景色が見えているように、空に視線を注ぎながら、時を過ごしていくのです。
お二人の前に姿を見せたのが全ての始まりだったのかもしれません。
「……邪魔をするつもりはなかったのです、申し訳ありません」
鍛錬に勤しんでいるお二人の邪魔をしてしまわないように、ひっそりと音を楽しんでいたはずなのに、微かな音、足音にも気付いてしまうなんて思いもよりませんでした。
『本当だな、だから女は――』
『実名嘉の事など、すぐに気づく』
唯我様の棘のある言葉は私の心に痛みを与えるのです。しかし、空気を読みながら、私の心を包み込んでくれるように守る独尊様の言葉に守られた気がしました。少し感情的になっている唯我様と、優しい眼差しで私を見つめる独尊様。私の枯れた瞳でも、感じる事が出来る程に、風を伝って、全身に流れてくるのです。
「……貴方って人は」
私の言葉はただの呟きとして、降り始めた雪にかき消されながらも、続きの言葉を言いたくて、溜まらない気持ちにさせてしまうのです。盲目の私が独尊様の隣にいれるはずなど、ないのに、期待をしてしまう愚かな私。
『――雪が降り始めたな』
貴方の優しい心そのものが声になり、言葉になり、雪のように、じんわりと心に染みていく。こんな毎日が私達の幸せだったのかもしれません。降り出した雪をかき消していくのは月の存在、そしてじんわりと広がる夕焼けの空。私の見た事のない世界をお二人は見つめていたのでしょう。