【第8話】More tea, Vicar?
──More tea, Vicar?──
直訳すれば「牧師様、もう一杯いかが?」。
然しこの言葉の真の意味は、場の気不味い雰囲気を和らげる事にある。
20世紀、21世紀に於いて存在していた旧国イギリスでは、主に放屁してしまった際に使われるジョークの一つであったそうだ。
────以上、レムリア国営電子事典『Apocalypse Ⅰ』より抜粋。
ケトルの湯はポットに注がれ、白白と湯気を漂わせる。
すると間も無く茶葉が容れられ、酸味とはまた違った“柑橘系の本質”ともいえる独特の芳香が、ブレイドの嗅覚を擽ぐった。
────アールグレイか。
特段ブレイドも、生粋の紅茶党という訳ではない。しかし、ブレイドの個人記録媒体には幾度に渡り、この香りが残されていた。
……バーンズが嗜む紅茶は、いつだってこの茶葉であるからだ。
あの時も、あの時も、あの時も。
思い起こせばバーンズは決まって、あの紅茶を飲み続けていた。
(ああ、そういえば……“あの事件”も)
◆◆◆
──────記憶を辿る事、今から三年前。
聖都が文字通り“血に染まった”、あの忌々しき金曜日。
国営放送局と気象管理局が占拠され、早四時間。
セイクリッド・シティの摩天楼は雪を被り、辺り一面はさながら銀世界となっていた。
原因は、立て篭もるテロリストによって故意に引き起こされた“豪雪”。
たった数時間で積雪5cmを記録し、その予期せぬ天変地異の前に、当時の交通網は完全に麻痺していた。
積もり積もった深雪を掻き分け、ようやっとEraser“ブラボー中隊”が、担当である放送局に到着した時の事。
兵員輸送車から降車するや否や、ブレイドの耳には四方八方からの“ノイズ”が響く。
そこにはテレビやラジオは勿論の事、街頭テレビや災害非常用スピーカーからまでも、犯行グループによる理解不能な喧伝が繰り返されていた。
「お前達は騙されている!」
「午前三時になったその瞬間、全ての真実を、我々の正義を……明かにしよう!」
……人質を取っておいて何が正義か。
どこか子供染みたこの吹聴に、当時のブレイドは異常なまでに苛立っていた。
これの正体が自己嫌悪であったのか、それともやはり論理的に考えた結果であったのか……
……今となってはただの“記録”に過ぎないが為に、その検証は不可能である。
兎も角、Eraserのネクスロイド全体が、現場にて殺気立っていたのは事実であった。
だがそれはブレイドのように、決して嫌悪感などから来るものではない。
……“残された刻限”に対する焦り、である。
正直回線で何を暴露されようと、然程大した問題にはならない。
政府側には“サイレン”という絶対的な力があるのだから。
知った知られたどちらにせよ、記憶を改竄してしまえばそれで良い。
だがそれは、“午前三時に何事もなければ”という前提条件の上で成り立っている。
国民は各種身体検査を行う度、“パスポート兼医療用チップ”という名目で、改竄用チップを秘密裏にその体内へと投与されている。
しかし、テロリストは当然の如く、それが無い。
するとどうなるのか?
答えは簡単である。二者に記憶の食い違いが生じるのだ。
改竄前の記憶について、その直後に語られたら。
連結する自らの記憶に、突如として“ズレ”が生まれたら。
結局、どれだけ高度な技術を用いたところで。人間が、同じ人間を完全に支配するなど不可能だ。……つまるところ、必ずこのカラクリに気付く者が出るという訳である。
それ故、Eraserは“三時”という刻限に。どう足掻こうが縛られざるを得なかった。
しかし。ブレイド当人でさえ、どうも気分が悪い。
外は五月蝿いだけでなく、周囲の同僚も気分が悪いのだから余計に苛立ってくる。
カーティスは第一司令部に呼び出しをくらい、アローは兵装車にてAFの起動準備中。
突入用装備が重い等々、そんな感情は一切無かったが、もうこの際ぶっ放せばいいのでは……そんな野暮な考えすら思考回路の行動候補に浮かんでくる程には、焦れ込んでいた。
そんな時だった。
バーンズが初めて、ブレイドを呼んだのは。
「おーい、そこの若いの」
ぶっきらぼうで妙に間延びした声は、指揮車両の真ん前より響いていた。
声の主はというと、黒のトレンチコートに身を包んだ白髪混じり。
既に警察機関による規制線の展開は終了している為、関係者には間違いはない。
……その男、確かにブレイドの方面を向いてはいるが、ブレイドの周辺にも人造人間はいる為に、確証は無い。
が、この声に反応したのは、どうやらブレイドのみだった。
積雪を踏み、装備を揺らし。
ギュッ、ギュッといった、新雪を踏みしめた際の独特の音を響かせながらも、ブレイドはその男の真横へ赴いた。
「……なにか」
極度の苛立ちからか、ブレイドの口からは気が向いた言葉は出なかった。
人間に対しては礼節を持てとは言えど、この程度は失礼に値しないだろう、ブレイドは勝手にそう決め込んでいた。
「……少年。今君は……苛立ちを覚えてはいないかね?」
唐突だった。
男の側面にいる為に、目を合わせて会話をしている訳ではない。
適当に何か言葉を返そうか……そう思った矢先。
自らの目前に、黒い水筒が横方向に放られてきた。
ネクスロイドの機械的反射神経は、これにいち早く反応。外から見ればさも自然に、その水筒を片手にて捕えた。
勿論送り先は横の男から。
そこでブレイドは横目ながらも、初めてその男の顔を視界に入れた。
先程の白髪混じりの頭髪に加え、所々にシワが刻まれた顔立ち。
御老体一歩手前、といった印象だ。
老人は相変わらずブレイドの方を見ず、再び言の葉を紡ぐ。
「飲め。さすれば少しは気分が晴れよう?」
押し込み式の開閉ボタンを押すと、ゴブッと音を立てて蓋が開いた。
水筒の飲み口からは優しい湯気と、今までの記録にないような”香り”がフワフワと立ち昇っていく。
……ここまでしたら、飲むしかない。
ブレイドはその芳香に好奇心と期待感を覚え、そっと口内に……流し込んだ。
──────美味しい。
ブレイドはポツリと一言のみ、呟いた。
しかしこの一口は間違いなく、今まで記憶にある何よりも有意義なものであった事は間違いない。
透き通るような味の中には、ミルクによってより引き立てられた、落ち着きある深い香り。
嗅覚に香る独特の芳香は、データ上にて“ベルガモッド”という果実の物だと判定が出た。
……この飲み物の正体はずばり、アールグレイ・ミルクティーである。
美味しいです、ブレイドは再度。今度はその老人の方を向いて、そう口にした。
やはり老人はこちらを向きはしないが、静かに微笑したという事は、横向きにもわかった。
「……一杯の紅茶は、私の普通の状態を取り戻させてくれるだろう」
「そうですね」
「フッ、古人の言葉さ」
目線の合わないまま、二人は簡素な会話を交わした。
会話が終える頃……基、そのアールグレイの茶を飲み終える頃には、ブレイドの中にあった苛立ちなど、すっかり収まっていた。
◆◆◆
……と、すっかりブレイドは物思いに耽ってしまった。
そんなこんなを考えているうちに、諸々の準備は整えられていた。
目の前にはあのアールグレイ。
カップの中には香色の、ミルクと共に注がれたそれがある。
「先程から急に静かになったが、何か考え事かね?」
バーンズの口調はあの時と変わらない。
が、やや昔より優しいか。
ブレイドは紅茶を一口、二口啜ったのち、応える。
「いえ、アールグレイと云えば……局長と初めて会った時のことをふと、思い出しまして」
コーヒーを勢い良く飲み干したカーティスが割って入る。
「ああ、御前が局長をただの老いぼれ爺さんだと勘違いしてた話か」
「聞こえとるぞ、カーティス」
カーティスはガハハとまたもや“豪笑”。
対してバーンズは物静かに、一杯の茶を愉しんでいる。
「そういえばあの時、お前だけが命令に反応しなかったんだっけな?でしたよね、局長」
「ああ、そんな事もあったな」
カーティスの言った内容は、恐らくその後の「グレンザ事変」のことだろう。
ネクスロイドの私兵化、といった方が早いだろう。
あの会話の後、立て篭るテロリストに業を煮やした当時局長、グレンザ・アードルングが、立て篭り先への砲撃を隊員へ命令したのである。
政府や当時副局長、バーンズの反対を押し切ってでの凶行、基、強行であったが、犯行グループは兼ねてより制圧していた民間放送局をジャック。
結局、刻限である午前三時にも収まらず、人質全員を爆殺するという大失態。これが通称「グレンザ事変」である。
その後は政府もタガが外れ、民間放送局も止む無く砲撃した後に、発生したデモ隊を武力行使も交えて鎮圧。翌日には再び“サイレン”による記憶改竄を行った後、騒動は一応の収束をみている。
因みに記憶改竄後、世間では事件日である12月13日金曜をもじり、これを“血の金曜日事件”なる立て篭り事件として認知されたが、グレンザ事変に関わる失態までは未だに改竄し切れていない。
また、この僅か一日間……サイレンの作用不足の隙を突き、チップを外して地球側に迎合する国民が少なからず発生しており、昨今の絶えぬテロリストの襲来の要因ともなった。
……さて話が戻るが、この事変の最初の命令から最後まで、ブレイドはこの間“なにも影響を受けなかったのである。
これは今をもってしても原因は不明であった。……が、何故かこれといった問題にされていないのも事実。
まぁ、バーンズがそれを隠蔽し続けたというのが真相ではあるが。
「思考回路に紅茶でも回ったんじゃないのか?あぁ、でもそれは局長だったな……」
「……カーティス、兵員輸送車のカーナビ。あれはどうした?」
「おうふっ……そうだった……」
今まで散々軽口を叩いていたが、カーティスはたったその一言で顔を青くした。
流石にこの二人のやり取りには、ブレイドも自然と笑みを溢す。
それを見たバーンズはカップを置き、今一度ブレイドに話しかけた。
「先程の話の結論だがね、ブレイド。君の考えはよくわかる、安心しろ。君の思考回路は異常なんかじゃあない。優秀な証拠だよ」
バーンズは空になったブレイドのカップを、再びポットのミルクティで満たす。
次に自分のカップにも注いだ後、ジャムと一口を啜り、続けた。
「この件については、私も同感だ。我々は無思慮に暴れる暴漢ではない、れっきとした
いち部隊だ。正直な話、昨今の政府からの命令はどうもきな臭い……終わりの無い土竜叩きを部下に強制しているようで、私としても我慢ならない」
やはり、バーンズとしても想いは同じだった。
ブレイドは底知れぬ嬉しさと、目の前の御老体への溢れんばかりの敬意を覚えた。
そして先程までの、“局長を恐れる”などという考えに陥っていた自分を、深く恥じんだ。
「私から上層部に掛け合ってみよう。それにブレイド、前回の君の目標から、気になる物が採取できたのでな」
「しかし……あれはアローの加粒子砲で、跡形もなく吹き飛んだ筈では……?」
そうだ、あれは文字通り消し飛んだ筈だ。
ブレイドの脳裏にはサンダースの最期が、ちらとフラッシュバックしてみえた。
「なぁに言わせるな、うちの加粒子砲はまだ試作段階のポンコツ。次いでに奴さんはロケランの直撃にも耐えうるお化け装甲と来た。消炭の一つや二つぐらいは残るだろうさ」
バーンズが発した謎については、珍しくカーティスが口を挟んだ。
こうも理由を述べられると、戦ったブレイドとしては俄然納得が行く。
「まぁ良かったな。恐らく諸々の件が咎められなかったのも、その拾いモンのお陰だぜ?」
「ああそういえば、カーナビの件についてはまだ済んでいなかったな。カーティス?」
……これでは最早ギャグである。カーティスは自ら墓穴を掘った。
ブレイドは哀れな隊長から、助けを乞うような視線を感じたものの、目線を目前のカップに戻した。
────今はこの一杯を楽しむとするか。
「……司令者よりNR-53へ命令を下す。十分間その場にてモリスダンスだ」
「勘弁してくれぇぇぇぇ!」
バーンズは腕をまくり、そこに取り付けられた腕輪に詠唱すると……あら不思議。
カーティスはたちまち席を立ち、その場にて“モリスダンス”を踊り出した。
モリスダンスとは、旧世紀国家における伝統舞踏……ブレイドの思考回路にはその程度の情報しかなかったが、カーティスはものの見事に、それらしく踊ってみせている。
やはり年季の差なのだろうか。
ブレイドは感心するとともに、己の無知からなる多少の悔しさも感じていた。
「見てないで止めろぉおぉおブレイドォオォオ!」
そんなカーティスには目もくれず、バーンズは薄型のノート型パソコンをテーブル上に乗せ、電源を入れる。
諸入力を済ませると、画面上には「Who do you connect the phone to?」というテキストと、マイクマークが表示された。
「アロー!アロー私だ、バーンズだ!」
……
…………
………………
……はい……はい!
「局長ですか?はい、何用です?」
画面内では仮想空間を背景に、アローの姿が映っていた。
勿論映像はホログラムだが、以前の出撃時には御目にかかれなかった、独特に跳ね散らかした寝癖のような頭髪まで再現されている。
「忙しい所すまないが、後ろの馬鹿と二人、兵員輸送車のカーナビを直しといてはくれんか?」
ホログラム・アローは如何にも嫌そうな面持ちになり、画面越しにこちらを見つめ返す。
その様子はまさに、普段のアローの生写しであった。
『えーっ、こちとら同期作業終えたばっかなんですぜ?それに技術部の面々は?流石に全員休暇って事もあるまいし……』
同期作業というのは、アサルトフレームによる出撃の帰還時、戦闘データの共有を行う為の諸作業の事を指す。これ無しではAFから降りる事は出来ないが、必要時間はものの数分。
これは局長の同情を誘う為の、アローによる巧みな嘘である事は明らかであった。
「すまん。例の解析で人手が足りんのだ。どうか一つ、引き受けてくれんか」
下手に出てはいるものの、形式上は上官命令である事に変わりはない。
無論、アローはこれに抗う術など持たず、これまた不承不承といった感じで引き受けた。
『あーあ、後ろのノリス・ダンス男がカーナビ壊さなきゃ、午後は休みだったてってゆーのによー……』
「えぇい、やかましい!午後は休みって、お前は普段からサボりすぎだ!いつどこに行ってるかも把握がつかんレベルでな!あんまり酷いようだと、今度貴様の行動ログを全部調べさせてもらうからな!?」
『そ、それだけは勘弁してくださいよ!?ホラ、人間で言うところの『プライバシーの侵害』に値しますよ!?それに機械人権思想だって……』
「俺も機械だ!」
部屋の中で騒がれては叶わん、そうとでも言いたげな顔のバーンズは再度腕をまくり、今度はフォーク・ダンスを命令し、カーティスを退出させた。
「フォ、フォークダンス!?これ二人でやる奴だよな……っておーい局長ー!バーンズ局長ー!」
カーティスの断末魔とも言うべき声は、やがて局長室から遠ざかり……ダンスリズムの足音とともに、聞こえなくなった。
そしてブレイドは、局長と二人きりで残りの紅茶を愉しんだ後、バーンズの口から思ってもみない言葉が告げられたのだ。
「さて……ブレイド君。少し休暇を取ってはくれないだろうか?」
……再び、静寂を取り戻した局長室にて。
テーブルに残されたケトルを、カップを、ポットを。
一つずつ丁寧に、手際良く洗い、拭き。後片付けを済ませていく。
ケトルの中身もポットの中身も、勿論空。
客人との愉しき時間と共に消えて行った。
洗浄の終わったカップを棚に戻そうと動いたその時、狭い室内にはあの甲高いコール音が反響する。
それに気付いた途端、カップの片付けなど後回しに、ノート型パソコンを手に取った。
呼出し先は一切不明。番号にも見覚えはない。
だがしかし心当たりはあった。
ロック画面を解除すると受信をクリックし、すぐに応対にあたる。
ホログラムすら表示されず、画面には「No Date」のテキストと、不規則に変化する砂嵐のみが映っている。
これが彼女が通話先にいるという……たった一つの合図であった。
バーンズはディスプレイの表示を今一度確認すると、徐に口を開き、見えない彼女への報告を開始する。
「消し炭から無事、例のチップが見つかったよ。予備フレームを用いた紛い物でさえあの強度なのか?全く、正規の司令者……君をを伴した時の彼の性能は……本当に計り知れないのかもしれない、な」
バーンズは自らの服越しに、腕に取り付けられた装置を見つめて細々と話す。
返しが無いのをいい事に、そのまま言葉を連ね続けた。
「勿論データは解析済み、提出も済ませてある。これだけの情報を開示して見せれば、如何に上層部の奴らといえども、了承せざるを得んだろうな」
バーンズは自らの胸ポケットより、小さめのチップを取り出し……パソコン内蔵カメラに見せつけるよう述べた。
だが、彼女は『そう……』と、短く儚げに呟くのみ。
自分の仲間を生贄にしたのだ、気が落ちるのも致し方ない……バーンズは敢えて、それ以上その話題には触れなかった。
「…………本当に良いのだな?」
いや、本当に彼なんだな──、そう問うのが尤もだが、彼女にそれを聞くのは今更野暮という物だ。
これはバーンズから彼女へ向けた、ある種の最終通告である。
『……貴方こそ、その選択で本当にいいのね?』
後悔しない?と、先程の言葉に続いて返された。
バーンズは彼女の問い掛けに、底知れぬ驚嘆と、感心の念を心のうちに抱いてしまった。
────なんという事だ、この少女は。この後に及んで、まだ他人の事を……
思わずバーンズの表情にも、柔らかな微笑が宿っていく。
この娘の為であれば、私はこの命すら投げ出そう……そういった覚悟の笑みである。
「ああ、大丈夫だとも……これが、私の選択だ」




