『黒猫のミケ』
人生とは常に選択の連続、選択に次ぐ選択に次いだ中での結果。
ある一定の年齢までは、例えば通う小学校みたいに他人の選択によって左右されてしまうけれど、途中からは比較と判断と決定をせっつかれる日々に誘われるわけです。
だからきっと、田舎も田舎、ド田舎の出身であったにも関わらず、見事東京への進出を果たした上に念願の漫画家を生業としているこの現実も、どこかの選択で得られた結果なのだと、妙な納得すら感じられる。
そもそも、実家付近なんてものは遊びに行くような場所もなく、元来インドア派の私はテレビを見ているか絵を描いているか、くらいの幼少期過ごしていたことが転じて自身の夢を『絵描き』として成り立たせていったのかとも思う。事実絵を描くこと自体は性に合っていたので、漫画家としての日々はむしろ喜ばしいように思っていたものの、やはり職業。行き詰れば詰まるほど首を絞めることになる、追われる締め切り、日に日に削られる体力と集中力。皮肉なもので、あの田んぼと土埃の田舎へ帰りたいと何度考え、その度に原稿の手を止めて白紙を引っ張り出し、当時の風景をがしがしと書き込んだものだった。その痕跡が発見されるたびに「そんな時間と余力があるなら原稿を終わらせろ」と編集からどやされたことか。
ひとつの作品に向けて使われる時間と力は計り知れないけれど、その分脱稿後の達成感や充実差は計り知れず、言葉での表し方に困る。人によりけりだとは思うが、私はもう生まれ体を成す原稿に対する感動は薄く、むしろそっちのけで自分自身のやりきったという『事実』にのみ達成感と満足を感じ、包まれるあの瞬間が換え難く好きだった。完成品への執着はないに等しく、もう自分で歩くことができるでしょう、さあ右左と足を交互に出して勝手に歩いてください、お母さんあなたを書き上げることに全精力をつぎ込んだから眠たいのよ。そう思うたびに、私は絵を描くことが好きなのだなぁと他人事のようにひとりごちてしまう。
あの日も、そんな心地よい疲労を纏った夜中のように思う。
寝不足で腕も脳にも鈍痛を感じながら、どうしても頑張った自分へご褒美のビールを与えたくなった。寝てからにするか、この幸福感を最大限楽しむために今外へ出るべきか。好き勝手に伸びた髪を適当に後ろで縛りながら、ここまで準備をしたのだから出てみるかと、最後に着替えたのはいつかも定かではない恰好で右手に硬貨の音しかしないガマ口を携え、近所のコンビニへ向かった。
そんな選択に選択を重ねることが、日々であり人生なのである。
――――――――黒猫のミケ――――――――
ふわり、香る夜風はやはり土臭さ。それから伸びた稲の擦れ合う音をサラサラと連れてくる。毎度のことではあるが縁側に座って遠くを眺めていると、懐かしいような、幼少期を擽られるような、そんな気持ちにさせられる風景だ。夜空を遮る背の高い建物も、断続的に国道を流れるヘッドライトもいない、そんな田舎には風の音が広く響き渡っていた。我が生家はガランとしていてだだっ広い、しかし掃除が好大好きなばあちゃんの手が行き届いているようで、古びている様子はあまり見受けられなかった。柱にかかっている古い時計がチクタクとのんびり時間を刻んでいる。
「風が気持ちいーなー…」
「挨拶もなしか、小娘」
刺々しい、わりに小さな声が背中から私を刺した。むっと顔をしかめながら振り返ると、はたり、はたり、尾を振る真っ黒い猫がキッとこちらをにらむ様に見つめていた。
「お、ミケか、お元気?」
「ふん、心配は無用だ」
吐き捨てるように呟くと、ステステ小さな脚をを動かして隣に腰を下ろした。ミケは人の言葉を喋る不思議な猫だ。しかも体毛は黒い。どこで覚えたのか古めかしい言葉遣いの小生意気な猫だ。元はじいちゃんが人から貰いうけた猫で、出生や年齢などなど素性は謎に満ちている。貰ってきたというのも、地元で唯一のスナックに行きつけのじいちゃんがママさんから譲り受けてしまったらしい。お酒の席だったこともあり、おおよそ豪気に返答をしてしまったのであろう、断ることもできずにウチの居候となっているが、この事実は私と彼の数少ない秘密事であった。この風変わりな名前も、件の女将さんから頂戴したらしく、そもそもスナック通い、そのうえ飲酒の体で自転車に乗り行き来している事実が人より沸点が低いばあちゃんにばれたらと思うと…限りなく避けて通りたい道である。飼い猫が引き金となり刺される、なんて朝刊の見出しは身内の話でなくともできれば見たくない。
「やっぱり田舎よねぇ…久し振りに帰ってくるとさ、空気が澄んでるっていうかさ」
「そうだろうな、空気の質も悪く、礼儀の知らぬ同胞が多いというではないか、トウキョウというやつは」
「この地域周辺しか知らない猫が何言ってんのよ、あと同胞って猫のこと言ってるの?」
ふん、気に食わなさそうに鼻を鳴らす、黒いふさふさ。
「じいちゃんとばあちゃんは元気?」
ミケの小さな頭を撫でながらお決まりの質問を投げかける。
「息災だ」
「びっくりするほど一言で片づけられちゃうのね~」
「自分で確かめればいいだろう」
「確かにね、それもそうだ」
お父さんとお母さんは、そう尋ねる前にミケは素っ気なく続けた。
「母君もまた歯に着せぬ物言いをするお方よな、父上殿も苦労しておる」
「ハハ…母さんもばあちゃんに似て気が強いからなぁ」
みんなが元気、と聞くだけでホッとするような年齢になったのだと、こういう場面で特に感じるものだ。昔は自分の空腹と睡眠しか気にかけなかった私も、月日には叶わないなぁ、なんて更に感慨深い気持ちになる。
「調子はどうだ」
唐突にミケが呟く。到底、心配しているようには聞こえない口ぶりである。
「結局ね、忙しいのよ。漫画だけじゃなくってさ、似顔絵とか風景画を描いているのよ」
「結構なことだ、趣味が職に転じるとはよく言ったものだ」
「もうちょっと言い方をさ…そういえばミケは?もういい歳なんだから良い相手見つければ?」
「こんな辺鄙な土地では猫を見つけるのも骨が折れる」
「そういわずにさぁ、ちょっと歩いてみればいいんだよ、案外すぐ見つかるかもよ」
煩いと言わんばかりに毛を逆立てているのが見受けられる。撫でようと手を伸ばすと体ごと避けられてしまう。ミケはもうすっかり我が家に馴染んでいて、しっかと家族になっているようだった。
私が見ていない間に時間は間違いなく進んでいて、
「…ふん、何も変わっておらん」
何を感じ取ったのか、黄色いビー玉みたいな瞳をこちらへ傾けながらミケは言う。
「そうね、ありがと」
もう一度手を伸ばすと、今度こそ避けられずに小さな黒い頭を手のひらいっぱいに感じる。ふわふわとした、拾ってきたあの日より大きくなった猫。
「さて、そろそろ行こうかな、みんなも帰ってきちゃうし」
いつのまにか痺れ始めていた足をほどいて立ち上がると、周囲の空気も一緒に巻き上がって、古びた懐かしい香りがした。
「もう少し休んでいけばいいものを」
ミケも小さな腰を上げて、体重を後ろへ運びながらぐっと伸びをした。畳に引っ掛けた爪がカリカリと音を立てる。途端に猫らしい仕草をするものだから、何だか可笑しさすら感じる。見習って伸びをしてみると、満点に広がる星空が漆黒の夜空に浮かんだ。詳しい星座はわからないけれど、素晴らしい輝きを見せ、それからちくちくと心を突かれた。
「よし」
ひと声出してから部屋の奥へと歩みを進めると、足元をミケがぐるぐる8の字に回って見せた。
「何しているのよ」
「ふん」
踝のあたりに黒々とした毛並みと体温を感じる。全く不器用な猫だ。
「しんみりしていけないからさ、牛も待たせているし」
「好きにせえ」
「あはは、偉そうな猫だあ」
すっと歩みを止めてチョコンと小さな腰を下ろす。ぱたん、ぱたんと揺れるしっぽ。そんなミケに少しだけ振り返った後、正面の小さな仏壇へ向き直る。まだ新しさすら感じる黒光を放つ、こじんまりとしたソレ。
憎たらしいくらいの笑顔でこちらを見つめる、私の写真。
「今年もよろしく頼みますよ」
「請け合おう。貴様もたまには顔を出せ」
「はいはい、来年からはちゃんと顔出しますよ!」
『ただいまー』
玄関の方からガラガラと引き戸の懐かしい音がする。そうだ、来年は玄関から入室としようかな。
「じゃあ、また来年」
とぷん。伸ばした指先から陽だまりに溶け込むような感覚。一瞬目の前が真っ黒に染まって、それから白く暖かい光に包まれる、私のいる場所へ。
「おうミケ、ただいま。いい子にしとったか?」
「なぉん」
おしまい。
本作は<2012年2月23日>にて投稿をしました『ミケ』の改良?現在の私ならこう書く?バージョンです。笑
物語性というよりは田舎独特の懐かしさだったり、夜空に浮かぶ星空やなんにも見られないあの形式だったりを想起させる点を工夫したつもりです。主人公は交通事故で亡くなっているのですが、以前書いたものは自分が描いた人物背景を文章内に書き入れなかったので、物凄くコンパクトな仕上がりとなっているように感じました。味気ない、というのが読み終えた感想です。(辛辣)
もっと書き混んで描いてみようと、いざタイピングに励めば励むほど、「やだ、すごく皮肉っぽい」そんな具合で書いては消して、消しては書いて。
当時の私はどんなことを思いながら書き始めたのか、全く思い出しはしなかったのですが、
猫についてもう少し知識があるとよかったのかなと思いました。
ここまで読んでいただきありがとうございました!