033 治療院ができたよ
「昨日、変な方々が屋根の上にいらっしゃいましたわよ」
「変な方々?」
「おそらくはどこかの商会の間者ではないかと思いますわ。お師匠様の秘密を探りに来たのでしょうね」
秘密なんか無いけどね。というと、ヴィオラールは、はぁとため息をついて、
「お師匠様は、もう少し自分の非常識さというものを、自覚して欲しいものですわ」
と言われた。そんなこと言われてもなぁ……
「それで、どうしたの?」
「丁重にお引き取りいただきましたわ」
うっ。よく考えたらヴィオラールって、侯爵家の懐刀なんだよね。こういうのって得意中の得意なのでは。
「まあ、苦手ではありませんわね」
と平気な顔をしていってたので、これ以上突っ込むのは止めよう。それにしても今日は朝から、店の前が騒がしい気が。
「お忘れですの? 治療院が今日から開くのですわ」
ああ、そうだったけ。
ちらっと2Fの窓から覗いてみると、すでに長蛇の列ができている。あれって、沿道の店舗から苦情が出るんじゃないか?
かといって折りたたんで並んでもらうような場所もないし、これは困ったな。
「ずっとこういう状況でしたら、すこし考えなければなりませんわね」
と俺の隣で状況を見ているヴィオラールがそう言った。そうだな。
「まあ、今日の所は、皆さんお許しになると思いますわよ。ではお手伝いにいってきますわ」
「うん。がんばってね」
「おまかせ下さい」
ヴィオラールは少し嬉しそうに、ローエンとグラントを小脇に抱えて、階段を下りていった。
あれで支障がなかったら、体の中身も大体俺たちと同じってことか。不思議だな。
しかし、間者ね。やっぱり昨日来ていたブラックウッドと、ダンセイニかな。
もし、出入り口の使用をみられたとしても、まさかそれが異世界に繋がっているとは誰も思わないだろうから、ここでは不思議な魔法の一言で終わっちゃう気もするんだけど……まあ、気をつけるに越したことはないか。
明日から、地獄の箱詰めが始まるから、今日のうちにフロドロウへお届け物と、新しいグラスの販促にいっておきますかね。
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入り口のドアの上に燦然と輝く、グリッグス領主テップ伯爵様発行の『治療許可証』。
違法じゃないからなんて、滅茶苦茶な理由で、なにをどうやったらこんな許可証が得られるのか、さっぱり分かりませんわ。
しかも民間の治療院なんて先例のないものを作りながら、教会の圧力どころか人員まで派遣させるなんて、お師匠様って変なんだが凄いんだか、相変わらず分からない人ですわね。
フロドロウからも立派なアレンジが届けられました。
治癒を意味する、清楚なラヴィラソルムを中心に、献身を意味する黄色のローザや信頼や健やかさを意味するオレンジのローザが美しく配された立派なものです。
さすが、フロドロウ。隙がないですわね。
「いやー、すごいお客さんですねー」
とアンジュがのんきにそんなことをいっていますけど、途中で魔力が尽きそうな数ですわよ。
本当に捌けるのでしょうか。
「私は他の作業もありますから、魔力が尽きるまではつきあえませんわよ?」
「分かってますって。私、これでも、回復魔法だけは結構優秀ですから」
「なら、いいですけど」
「アンジュ!」
そのとき勢いよくドアがあいて、ヴィーが飛び込んできた。
「ヴィ、ヴィーさん?!」
アンジュが目を剥いて驚く。
「だ、だめですよ! 私これから仕事なんですから!」
「分かってるわよ。ただ、いつが休みか聞きに来たのよ!」
「や、休みですか?」
と、アンジュがヴィオラールの方を向いた。
「ちゃんとは決まってませんけど、お師匠様からは、IRISと同じ、0と5の付く日にしたらどうかって言われていますわ」
「よしわかった! じゃ、次は白の60日だね! ちゃんと迎えに来るから!」
「え、ええ!? 私のお休みはどうなるんです?」
「大丈夫! 私も休んでる場合じゃないし」
と屈託無く言うヴィー。
「ええー?!」
なるほど、これがお師匠様の言う、ブラックというやつでしょうか。
「じゃ、よろしくね!」
と来たときと同じように嵐のように去っていった。
「はぁ……」
「なにをしょぼついていますの。そろそろ開けますわよ」
「はーい」
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「治療院のオープン、おめでとうございます、ユーダイ様」
「あ、ウォルフさん。こちらこそ、立派なお花をありがとうございました」
今日の治療院のオープンにあわせて、フロドロウから立派なアレンジメントが届けられたので、入り口を入ったところに飾らせていただいている。
それだけで結構な箔付けになって大変感謝しているけれども、これは勉強しなきゃダメだよな。うーん、さすがウォルフ、商売人だ。
「ほう。これが新作ですか?」
ウォルフは、木村硝子のピーボ・オーソドックス 62987-245 を手にして言った。
「これはまた、一段と繊細なステムですな」
確かに。簡単に折れそうなほど細い。
「それは、こういった種類のグライプ酒を飲むための専用グラスなのです」
そういって俺はヴァルニエ・ファニエールのNVを取り出した。
キャップシールを切り取って、ストッパーをはずした俺は、少し悪戯心が涌いてきた。
本来なら、コルクを押さえながらボトルをまわし、コルクが抜けそうになったら傾けて静かに空気を抜く。
だけど、新しもの好きの楽しいこと好きが貴族の常だ。いっそのこと――
ポンと音を立ててコルクを抜いた。
「おお、なにやら景気の良い音ですな。なんですか、それは?」
「これはガスが含まれているグライプ酒なのです」
そう言いながら、木村硝子にシャンパーニュを注ぐと、やや淡目の金色の液体の中に、綺麗な泡の塔が立ち上る。
「どうぞ」
「これは……なんだか心が浮き立つようですな」
と立ち上る泡を見ながらウォルフが言った。そうしてそのまま口をつける。
「むぉ、痛いようなむせそうな、しかし爽やかで心地よい、なんとも不思議な感じです」
「はい。しかし、先日お渡ししたグラスですと、泡が弱めで香りがさらに開き、また違った感じになってしまうのです。もっともそれが好きだというかたもいらっしゃることはいらっしゃるのですが」
特にオールドのシャンパーニュとか、非常にうまく造られた白ワインのごときものだと、そういう傾向が強い。
純粋なフルート(*1)は、泡感が強調されるが、それ以外の要素は、ある程度ボウルに膨らみがあったほうが良く感じられる。もっともそれで馬脚をあらわしてしまうボトルもあるので、善し悪しなのだが。
「ふむ。これは、テップ伯爵様のところには――」
「卸しておりません。本日はかぶらないような商品を厳選しました」
「それはありがたいですな」
俺はもう一つのワインを取り出した。
「もう一つは、これです。主に華やかなものがお好きなご婦人のためにご用意いたしました」
といいながら、チロ・ロザートをグラスに注ぐ。
「これは美しい」
「このワインもやや冷やしてサービスして下さい。何にでも無難に合いますから、そのロマンティックな色合いで気分を浮き立たせるようにご利用になると良いかと思います」
「確かに。若いご婦人に受けるでしょう」
「それで――」
「もちろんすべて引き取らせていただきます」
「あ、それなんですが」
「?」
「これらのワインは保存がやや面倒なのです」
「ほう」
「肌寒く感じるくらいの温度で、あまり変化しないことが望まれます。そして提供前に冷やすのが一般的です」
「ですから、一度に納品するよりも、分散させた方がよろしくないでしょうか?」
「ふむ。しかし、そう言うことでしたら、当ホテルにも地下に貯蔵庫がありますから、そちらでも問題ないように思えますな。ご覧になりますか?」
「はい、是非」
そうして見せて貰った地下貯蔵庫は、大変立派な地下カーヴとよんでも差し支えないもので、これならと思わせた。
もちろんアラワヌーク産も、ここで保管されているわけで、考えてみればあって当たり前だったのだ。
取り越し苦労だったな。
そうして俺たちは、価格や本数を決めて、ついでにシャンパーニュグラスのご注文も頂いてフロドロウを後にした。まいどありー。
*1 フルート
縦に細長く、ボウル部分の膨らみがないかほとんど無いタイプのグラス。
シャンパーニュグラスには、大まかに言って、クープ、フルート、ヴィンテージシャンパーニュ用のボウルがあるタイプの3種類がある。
クープというのは、ステムにお皿がくっついているような、現代ではシャンパンタワーをやるときに使われる幅広のグラスで、昔はパーティ等で盛んに使われていた。泡を飛ばしてゲップを防ぐだとか、いろいろ適当な話が多いのもこのグラスだ。
フルートは、縦に細長く、シャンパーニュの泡を美しく見せるために考案されたグラスで、単純にシャンパーニュグラスというと、現代ではこれのことになる。
ちなみに、ブロガー始めとするメディアを集めた昨年のスペシャルシャンパンテイスティングセミナーで、当主のマキシミリアン・リーデル氏がフルートについて暴言(内容は割愛)を吐いたという話もみかけたけれど、それが本当なら思ってても言っちゃダメでしょ。ソムリエシリーズでもスーパーレジェーロでもブラックシリーズでもヴィノムと類似形状のシャンパーニュグラスを堂々と売り続けてるのに。ハイエンドシリーズの理念が崩壊しちゃうよ?




