アイリス in 東京
「起きてよ、ユーダイ!」
「ん、んぁ?」
時計を見たら、まだ6時前だよ。いったい何事?
「だって、今日はどっか連れていってくれるんでしょ?」
ああ、まあ、そうったけど、なんで6時前……某、ネズミが主役のファンタジーな遊園地とか、海の中のちょっとしかない道を歩ける海の楽園とか、小雨が降る平日なんかに行くと、あまりに閑散としていて寂しさがハンパないF高地とかへ出かけるのならともかく、近場の散策と買い物だよ?
「アイリス……ちょっと、早いかな。こっちのお店は朝が遅いんだよ」
「ええー?」
あちらの世界は電気がないから、夜が来れば真っ暗だ。だから、日の出と共に活動して、日の入りと共に活動が終了するサイクルができているんだろう。
こっちの繁華街は不夜城だからな、朝は遅いんだよ、夜の主力は19時以降だしな。
しかも最近は24時間やってる居酒屋とかまであるしなぁ。平日の午前中に入ると、クズになった気分になれる素敵な場所だ。
閑話休題。
「ふあーっ。それでアイリス、どっか行きたいところがあるの?」
「どこもみんな行きたいけど、どっかって言われるとわかんない。いろんなところ?」
うんまあそうだね。どっかと聞かれても何があるのか分からなかったら、答えようがないもんね。
もういっそのこと、はとバスツアーにでも飛び込むか。「シンフォニーサンセットクルーズと夜景の東京スカイツリー」とかベタベタでいいんじゃ、とも思ったけど、やはり少しはこちらの社会に馴染んでからのほうがいいか。
ワクワク全開のアイリスに促されて、家をでる。
近くの大きな公園にでも行こうかと思ったが、無料エリアの開園だって8:30のはずだ。しかたがない、まずはいつものドトールで、とも思ったが、7:00だか7:30くらいだよなぁ、開くの。
「ユーダイの所って、本当に大きな建物が沢山あるんだね」
アイリスが上を見ながら歩いている。前を見ないと危ないよ?
「もう少し都心に行くと、雲より高い建物もあるよ」
「ええ? ホントに?」
んー、これから電車で出れば、ちょうど朝ご飯が食べられる時間になるか……通勤ラッシュはもう少し先だろうし。
「じゃあ、ちょっと見に行ってみる?」
「うん!」
◇ ---------------- ◇
6:32の特快に乗れば、7:00には新宿だ。そういや、オレンジ色の電車を見なくなって久しいな。
アイリスに切符を買わすのはあまりに不安だったので、無記名のSUICAを購入して5000円チャージしておいた。
「ほら、こっち。入るときは、ここにこのカードをかざしてね」
「う、うん」
ぎこちなくSUICAを改札の入り口にかざして、ホームに入る。
「降りるときも、ああいう――改札って言うんだけど――に、同じように今のカードをかざすと外に出られるから」
「わかった。変わった材質だけど、なんだかギルドカードみたいだね」
ああそうか、向こうにもカード文化があるんだよな、そう言えば。俺も作ってみようかな。
ホームに電車が入ってくると、アイリスは小さく悲鳴を上げて、俺の後ろに隠れた。
「なんだか凄いね。鉄の巨大な蛇みたい」
「これは電車っていって、大勢を一度に遠くに運ぶための乗り物だよ。そうだな、街と街を結ぶ馬車みたいなものかな」
「これが?」
おそるおそる、それを見ていると、電車のドアが、プシューっと音を立てて開く。
「きゃっ」
「大丈夫。ほら、乗ろう」
と彼女の手を取って、電車に乗った。さすがに早い時間だけあって座れそうだ。
電車のドアがしまって、動き始めると、
「お、お、おお~」
と言いながら、アイリスが窓の外を見ている。
「凄い。速い!」
「ほら、アイリス。ちゃんと座って。危ないよ」
「あ、うん」
なんだか大きい子供みたいだが、初めて電車に乗ったら、興奮するのも仕方ないか。一番前の車両に乗れば良かったかな。
その後も電車が駅に止まる度に、おおーとかいいながら慣性を楽しんでいる様子。
「こうやって、いろんな場所に拠点――駅って言うんだけど――を作っておいて、その間をこの乗り物で繋いでるんだよ」
「ふーん。こんな大きなものを動かすんだったら、凄い魔力がいるんでしょうね」
アイリスの方をちらちら見てた、前に立っている若者が、俺たちの会話が聞こえたのか「はっ?」という顔をした。
紫の瞳のダークブロンドの美女が、魔力の話をしている。うんシュールだ。冷静に考えたら、どこのロールプレイのオフ会だよって感じだな。
新宿駅の地下改札を抜けると、初めてだと絶対迷いそうな地下道が現れる。
案の定、アイリスが
「人だらけのダンジョンみたい」
と言ったのには、少し笑ってしまった。
今回は大きな建物を見せるってのが主眼なので、
西口の地下をずっと歩いていって、どん詰まりの新宿公園で地上に出た。
「ほら、アイリス」
「すっごーい!」
丁度目の前に、ハイアットリージェンシー。左の先にはヒルトン。そして右を見れば、東京都庁が、どんとそびえ立っている。この角度から見る都庁は線が多くてなんだかゴシック風の装飾に見えなくもない。
都庁の展望室は見学できるって、以前聞いたことがあったから、スマホで調べてみたら、9:30からだった。
「アイリス、ご飯は?」
「まだ」
「じゃあ、簡単なものでも食べようか」
「うん!」
目の前のハイアットリージェンシーのカフェ(*1)なら、外国人が多いからアイリスも目立たないだろう。ブッフェだから気楽だし。
NEWoMan(*2) も行ってみたかったんだけど、こっからだと遠い。
◇ ---------------- ◇
「うわぁ」
とアイリスが変な声を出す。
丁度目の前でオムレツを作ってくれているのだ。やっぱプロは手際が良くって、みるみるまとまっていく卵を見ながら驚いた声を上げたってわけ。
2Fのカフェ(そう言う店名なのだ)で、
そのほかには、向こうでも普通に食べていそうなパンとホットディッシュを中心にセレクトした。
サラダと生のフルーツのバリエーションがあまりなかったのは意外だったな。
「おいしー。ふわとろだね」
とオムレツをスプーンですくって口に運んでいる。
どれもこれも、凄く美味しくて、なんだか戻れなくなっちゃいそうと、アイリスが笑った。
確かに文明的なギャップは大きい。
でも、アイリスを見てると、あっという間にこっちの文明レベルにも慣れてしまうんじゃないかと、そんな気がした。
もちろん俺の部屋で、PCだのTVだのを始めとする家電群やライフラインに慣れていたからと言うのもあるかもしれないが。
「でも、こういう世界があるよって分かったら、きっとみんな来たがるよね」
ふと、アイリスがそうこぼした。
観光か。
確かに、絶対ウケるとは思うけど……異世界→現代なら、向こうの情報伝達速度の遅さから考えて大丈夫なのか?
現代→異世界は、行ったやつがSNSとかで広めて大変なことになりそうだけど。
魔物ハンティングツアーなんてやったら、絶対参加したがるマニアや金持ちが大勢いるだろうな。
しかしなぁ……どっかの馬鹿が、資源を目的に向こうの世界に攻め入ったりする可能性、いや、確実にそういうことをするやつがいそうだ。
何しろ、自国の領土が、惑星?1個分増えるのと同じことだもんな。
幸い俺の部屋の壁より大きなものは向こうに持ち込めないから、少しは安心だが……やはり今のところ知られないに越したことはないか。
その後俺たちは、9時過ぎまでゆっくり朝食をとって過ごし、その後都庁の展望台にのぼった。
同じく高層の、パークタワーやオペラシティ、そしてスカイツリーなども見えていた。
アイリスはどの方向にも果てしなく拡がっているように見える建物の群れを、目を丸くしてみていた。
「凄くたくさんの人が住んでるんだね」
「東京? ええと、確か1200万人くらいだったかな」
「ええ?!」
グリッグスの人口だって、ぱっと見た限りは1万人くらいじゃないかと思うので、そりゃ驚くよな。
どうやって、食料をまかなってるの? だって畑なんて何処にもないよ? と、まじめな顔で聞かれた。
確かに。そう考えると不思議な街かもしれない。
◇ ---------------- ◇
帰りにワインショップへ寄って、いくつか買い物をした。
今回、フロドロウに提案しようと思っているのは、ロゼとシャンパーニュだ。
ロゼは純粋にきれいだからであり、シャンパーニュは……ほら、新しいグラスが売れるかも、だし。まだ寒い季節なのが玉に瑕なんだけどさ。
あまりふくよかで穀物感のあるものは、向こうの世界の人に受け入れられるかどうかわからないし、いくら素晴らしいからってクリュッグ(*3)みたいタイプは避けた方が良いだろう。
そうするとブラン・ド・ブラン(*4)を中心に、スッキリ感や果実間が強いものがいいよな……高すぎてもあれだし、あまりに稀少すぎるものも避けたい。
ってことで、ヴァルニエ・ファニエール(*5)のNVを選択した。甘くて豊潤な香りを持っているくせに、飲み口はシャープで、ザ・ブラン・ド・ブランな仕上がりの逸品だ。
ロゼは味もさることながら、色だよね。力強いイメージが先行するゴブレットより、繊細なグラス+美しいピンクでご婦人のハートをわしづかみだぜ!(予定)
宝石などでも濃い色が好まれる文化だから、少し濃いめのロゼってことになると、イタリアのチロ(*6)がいいだろう。
かなり低めの温度がいいんだけど、フロドロウならそれも可能だろう。
というわけで、こんな感じのラインナップなら、ニャル様のところとかぶらなくていいよね。
シャンパーニュグラスと言えば、真っ先にロブマイヤーのバレリーナのチューリップトールが思い起こされるけど、優雅だけど、素敵だけど、いかんせん高い。
価格比でいうなら、1脚金貨16枚でも足らないわけで、いくらなんでも160万円のグラスが売れるかと言われるとなぁ……
というわけで、主力は飲食店の心強い味方、木村硝子(*7)の、少し似てるフォルムを持ったピーボ・オーソドックス 62987-245 だ。
「すごく一杯買ったね」
「フロドロウに、頼まれててさ。何しろお世話になってるだろう?」
「ウォルフさんがいなかったら、今頃デュコテル商会は風前の灯火だったもんね」
もちろんユーダイがいなくてもね、と付け加えてくれた。
荷物は明日には届くらしい。俺たちは、電車に乗ってうちへ帰った。
そこで初めて通勤ラッシュを経験したアイリスは、「みんなどうしてあれに絶えられるの?」と、目を白黒させていた。
うん、俺もそう思う。
*1 カフェ
ハイアットリージェンシーの2Fにあるカフェ。ちなみに一応固有名詞。
朝食は、ほんと外国の方が多いです。サラダの野菜とフルーツの種類が少ないのがちょっと不満。
*2 NEWoMan
ニューマン。
よくこんな昭和ギャグみたいな名前をつけたなと思うわけですが、新宿南口にできたバスターミナル兼商業施設。
飲食系は、朝4時までやってたりするのに、始まるのは8時とか、早くても7時とか。
これができたおかげで、南口の前でタクシーが拾えなくなって超つらい。わざわざ道を渡って、ターミナルの上まで上がって乗るか、南口前の橋を東西どちらかの麓まで降りて乗るかの2択ですが、どっちもクソ面倒で、しかも大して渋滞は改善されてないような……泣きそう。
*3 クリュッグ
KRUG.
言わずと知れた、世界最高のシャンパーニュのひとつ。
プレステージ・キュヴェだけ作ってるところが、ビンボー人は相手にしてない感がバリバリだが、新宿歌舞伎町にあるしじみらーめんの券売機(!)には、1000円以下のらーめんメニューの中に、突如としてKRUGが2マスも登場し異彩を放っていた(移転前)。さすが驚きの歌舞伎町だ。
*4 ブラン・ド・ブラン
blanc de blancs.
白ブドウだけで作られたシャンパーニュのこと。
シャンパーニュを作る白ブドウはシャルドネしかないため、シャンパーニュのブラン・ド・ブランというと、シャルドネ100%となる。
一般的にフレッシュ&ミネラリーで、いわゆる穀物のようなニュアンスを持つものは少ないが、例えば、テタンジェのコント・ド・シャンパーニュのように、熟成すると、まるで蜂蜜とバターを塗ったトーストのような香りを発するものもある。
*5 ヴァルニエ・ファニエール
Varnier Fanniere.
美味いです。スッキリタイプのシャンパーニュが好きな人には是非飲んでいただきたいNV
ただすっきりだけではない、素晴らしい果実実が味わえる。グラン・ヴァンタージュももちろん素晴らしいけど、まずはNVからどうぞ。
*6 チロ・ロザート
Ciro Rosato.
イタリアはカラブリア州にあるスカラ社が作る、ガリオッポ100%のロゼ。
濃いめのピンクが美しい、赤い果実と白い花のニュアンスで実にフレッシュなロゼ。イタリアの手頃な価格帯のロゼは、冷やして美味しいものが多いけれど、これもその1本。
カラブリアはイタリアのブーツのつま先にあたる州で、ギリシャ人が最初にそこにいたイタロス人と接触したために、イタリアと呼ばれるようになったそうだ。
ガリオッポは、ギリシャ起源と言われるブドウ。イタリアのブドウ品種にはギリシャ起源がやたらと多い。その名もずばりグレコとかあるしね。
*7 木村硝子
湯島にある、プロ御用達の硝子製テーブルウェア専門店。
割れても我慢できる価格帯で、素敵なデザイングラスをたくさん作られています。
秋葉原の少し北側(蔵前橋通りは越えちゃうけど)で、歩いてもいけるよ!
以前は1Fは業務用店舗だけだったけど、今は一般人でも入れるようになったから、興味のある人は一度どうぞ。見てるだけでも楽しいです。ただし、木~土の週3日しかやってないのでご注意を(12:00-19:00)




