026 大人の時間
「おつかれさまでした」
IRISの扉のスポットを消して、店内を非常灯だけにしてから、サラとアイリスを連れて外に出て、表のドアに鍵をかけた。
今日の午後、初出勤だし、感謝の気持ちも込めて、孤児院でお夕食でもいかがですかとサラに誘われたのだ。
ヴィオラールは、まだ治療院の準備が終わっていないし、アンジュが来たら困るだろうから、今回は遠慮しておきますと言うことだったので、俺とアイリスでお邪魔することにした。
俺はその話を聞いて、少しおみやげを持って行こうと、現代に戻って、いくつかの買い物を済ませておいた。
孤児院に向かって3人で歩いていく途中、中央広場で簡単な買い物をして、10分くらいで、孤児院に到着した。
扉を開けると、スープの良い匂いが漂っている。
「おかえりなさい!」
と子供達が飛び出してきた。
マリアを筆頭に、上は15歳、下は4歳の7名だ。
「あら、ご飯を作って待っててくれたの?」
「うん! 今日から院長先生が、新しいお仕事だって言うから、お祝いに、みんなでスープを作ったんだ」
「ありがとう」
「ユーダイ様もいらっしゃいませ」
とコロネが挨拶してくる。
「うん。今日はご馳走になりにきたよ」
「うー、スープしか作ってないよー」
「じゃあ、俺がパンを提供しよう」
と、買ってきておいた、エシレ・メゾンデュブール(*1)のクロワッサンを取り出した。トラディションと50%ブールのドゥミ・セルを20個づつ用意したから、多分足りるんじゃないかな。
「うわー、なにこれ? くるくるしてる」
「クロワッサンというパンだよ」
「へー、クロワッサン」
「じゃあ、みんな座って」
サラが手を組んで、目をつむり、簡単な食前の祈りを捧げた。
「今日この日の糧を得られたことに、感謝を」
「いただきます」
そう言った、俺に、コロネが、
「ねえねえ、ユーダイ様。今の何?」
「いただきます? 俺のいた国の食前の祈り?みたいなものだよ」
「ふーん、じゃあ私も、いただきます」
スープはお肉も野菜もたっぷり入っていてなかなか美味しい。キャベツっぽい野菜の甘みがよく出てる。
俺の持ってきたクロワッサンも中々好評だ。
「何このパン、さくさくしててもちもちしてる!」
「うわー、なんか噛んだらジュワっと出てきた」
「えー、でないよー?」
「こっち。こっちのちょっと丸っこい方」
「そっち? うわー、ほんとだー」
わいわい言いながら、結局ほとんどのパンが食べ尽くされた。
食事が一段落したところで、サラがみんなに話し始めた。
「それでね、アイリスさんのお店が、ひとり働く人を募集しているんだけど、マリアかコロネはどうかなって」
「働けるのは嬉しいですけど……」
とマリアがコロネの方を気にしている。コロネが行きたいって言ったら身を引くつもりなんだろうな。
「それって、あのきれいなお店ですか?」
とコロネが聞いてくる。
「いいえ、その隣にある前の店舗だそうよ」
「そっかー」
マリアとコロネがお互いに見つめ合ってる。お互い行きたいけど、いけるのは一人。じゃあ相手が、みたいなやりとりが言葉を使わずに行われていた。
「じゃあさ」
アイリスが見るに見かねて割り込んだ。
「ふたりとも、来る?」
「「え、いいんですか?」」
「コロネちゃんは、IRISで働きたいんでしょう?」
「……うん。それは、できれば」
でも今のままでは無理だから、デュコテル商会で働きながら、マーサにマナーとかを教えて貰って、マーサのOKがでたらIRISで先生と一緒に働いて貰うって言うのは?
とアイリスが提案した。
マイフェアレディ(*2)ですか。
あのラストシーンはコックニー訛りが分からないと意味不明になりかねないよね。俺も「ボクのスリッパは何処?」って言いそうなタイプだからなぁ……ヒギンズの気持ちはよく分かるよ。
「いいの?!」
とコロネが驚いている。まあ、オーナーはアイリスだから。彼女が良いって言えば、大抵は大丈夫。
「「やったー!」」
「じゃあ、ふたりとも、明日からお願いね」
「「はい!」」
と返事をして、嬉しそうに笑い合っていた。
◇ ---------------- ◇
その後、子供達を寝かしつけてから、院長先生の部屋で、3人で話をした。
「本当にありがとうございました。デュコテル商会は孤児院の救い主ですね」
「そんなの大げさですよ。私たちも仕事をして貰えて嬉しいわけですし。ね、ユーダイ」
「そうだね。じゃ、俺はちょっと準備してくるから、少し話しててくれる?」
「準備?」
「うん。20分くらいかな」
「なんだか分かんないけど了解」
台所へ行った俺は、さくっと現代に帰って、下ごしらえしておいた甘鯛をたっぷりのオリーブオイルでポワレした。
ゆっくり弱火で、鱗付きの皮側を15分、さっとひっくり返して反対側で数秒。
甘鯛のジュからとったシンプルなソースを敷いて、その上に置けば、甘鯛の松笠ポワレの完成だ。
塩はつよめにあててある。ちょっとオリーブオイルを散らしてもいいな。
「はいはい、おまたせー」
と、ポワレした甘鯛にカトラリーを添えて提供する。
「え? これはどこから」
「あ、うちから持ってきたんですよ」
3人分をセットし終わったら、
「じゃあ、少しだけ大人の時間とまいりましょうか」
と、グラスと、モンテリドーリのロゼ(*3)で、少し強めに冷やしたものを取り出した。
「自分が売っているものを知っておくことも大切でしょう?」
といいながら、グラスに注いでいく。
「きれいですね」
「ホント」
モンテリドーリのカナイオーロで作られたロゼは、ロゼにしては色が薄く、少しオレンジがかかっている。
やや暗めの照明と、グラスの煌めきにとてもよく映えていた。
「それじゃ、サラさんの初仕事を祝して、乾杯」
「かんぱーい」
二人が、甘鯛を口に運ぶ。
「うわ。ぱりぱりさくさくして美味しい、これ鱗?」
とアイリス。
「そうだよ。この魚は鱗がそんなに大きくなくて、厚みもこういう料理にするには丁度良いんだ」
「それでも皮ぎしのところはもちっとしてるし、身もぷりっとしていて、とても甘いんですね。それにこのグライプ酒ともぴったりです」
「良い香り」
「キラキラしていて、なんともロマンティックな気分になります」
「そう。サラさんは、そのアイテムを売ってるんだよ」
「自分で使ってみてよく分かりました。これでしたらみなさんに自信を持って勧められますね」
「うんうん」
アイリスが、ロゼをきゅーっと飲み干して、おいしー、もう一杯とか言ってる。飲み過ぎるなよ。
◇ ---------------- ◇
くそ、あいつらが孤児院に入って、もう3時間以上たつぞ、いったい中で何をしてやがるんだ。
「ボス~、もう帰りましょうぜ」
俺は黙って、俺は黙って……くそ、投げるものがねぇ。
「ん?」
「お、出てきやしたぜ」
◇ ---------------- ◇
「うわ、真っ暗」
アイリスが驚く。あんまりこんな時間に外にはでないもんな。
「今日はどうもごちそうさまでした」
「いえ、こちらこそ、マリアとコロネの件ありがとうございました」
「ふふ、明日からビシビシ働いて貰いますから」
なんて二人で話している間に、俺はランタンに見えるデザインのLED懐中電灯を取り出してスイッチを入れた。
「うわっ、明るいですね、それ。IRISで売ってるんですか?」
「いえ、残念ながらこれは」
「そうですか、遅くなったときなどは、あかりの魔法が使えないと怖いんですよね。そういうのがあればいいのに」
こっちで可能なこの手のアイテムというと、太陽光充電付きのなにかかなぁ……魔石で電気が作れるようになれば、いろいろ売れそうなんだけどな。
ヴィオラールにでも研究してみて貰おうかな……
「それじゃ、お休みなさい。また明日」
「はい、お気をつけて」
そういって、俺たちは孤児院を後にした。
◇ ---------------- ◇
あいつらは孤児院を出て歩き出した。
「よし、行くぞ」
「行くってどこへです?」
「あいつ等を追いかけるんだよ」
「待って下さいよ、追いかけてどうするんです? 闇討ちとか洒落になりませんって」
「馬鹿野郎、闇討ちなんかするかよ。俺等、一応商人だぞ?」
「じゃあ、どうするんです?」
「どうするって……どうする?」
「勘弁して下さいよ……」
くそっ、黙って、コイツを投げつけてやろうか。
このままじゃ店に着いちまう。ただ一日後をついていっただけなんて、不毛にも程があるだろ。ええい、もういいや。あたって砕けろだ!
◇ ---------------- ◇
「おい、まちなよ」
ん、誰だ? こんな時間に話しかけてくるなんて?
「ユーダイ。もしかして、盗賊?」
「街中で? そういうのあるんだ?」
「それは、確かに余り聞かないけれども……」
「まあ、いいや。もうすぐお店だし、俺が引き留めておくから、先にお店に逃げるんだよ」
「え? ヤダよ」
「ほら、俺一人だったら、いつでも向こうの世界へ逃げ込めるから」
「あ……うん、わかった」
アイリスは納得したような、できないような、それでも自分が足手まといになると言うことだけは分かった感じでうなずいて、お店に向かってかけだした。
「おい、なにをごちゃごちゃやってやがるんだ。耳が聞こえないのか?」
「ああ、俺に話してたのか。知らない人だったから人違いかと思ってね。あなた誰です?」
「けっ、スカしてやがらあ」
そして、その男はグレイだと名乗った。
「それで、何の用です?」
「お前がサラの借金を立て替えたのか?」
「は? サラって、孤児院の?」
「そうだ」
うーん、どうかな。あれは契約金だから、立て替えたのかって言われると、違うとしか言いようがないよな。
「いや、たぶん違うけど。それがあなたに何の関係が?」
「か、関係? 関係な……関係っちゃー、あれは俺が貸し付けたカネなんだよ」
「え? じゃああなたが金貨5枚しか貸してないのに50枚の返金を要求した?」
「うっ……利息だよ、利息!」
「はあ。まあ、暴利だとは思いますけど、返ってきたのなら良かったですね。それじゃ」
「あ、ああ……って、待ちやがれっての!」
「なんですか」
「お前が俺の邪魔をした、落とし前をだな……」
「邪魔? サラの件で?」
「そうだ」
「え、でも、マリアに金貨5枚を貸して、50枚が返ってきたんですよね?」
「そうだ」
「じゃ、ビジネスは大成功じゃないですか。金貨45枚も儲けたんでしょ?」
「う、ま、まあな」
「仮に私がその金を出したのだとしても、あなたの商売を助けこそすれ、邪魔などしていないと思うのですが」
「う、うるせえ! あいつはな、俺が助けるつもりだったんだよ!」
「は?」
「ボ、ボス、まずいっすよ」
「つまり、借金をかたに、サラをいいようにしようと?」
「そんなことするか! あいつの最初の客になって、借金を立て替えてやる予定だったんだよ!」
なんだそれ。なんというか、超ゆがんでるぞ。
「いや、好きなら普通に告白しろよ」
「ば、ばか、そんなんじゃねぇ……」
どこの小学生だよ、まったく。あ、そうだ。
「ふーん。そんなんじゃないんだ。せっかくいいものを見せてやろうと思ったのにな」
「い、いいものだと?」
俺はグレイの側によって、
「ああ、お宝だぞ?」
と耳打ちした。
「お、お宝……」
「ボス、もう帰りましょうよ」
「う、うるせぇ! お前一人で帰ってろ!」
ええーと言いながら、部下は石ころを投げつけられて帰って行った。いや、あれ、いいわけ?
「それで、お宝ってのはなんだよ。しょうもないもんだったらタダじゃおかねぇからな!」
「お? じゃあ、しょうもなくなかったらどうするんだ?」
「そ、そのときは、何でも言うことをひとつ聞いてやらあ!」
「よし、約束だぞ。違えるのはなしだ」
と言って、俺はスマホを取り出した。そこにあるのは――
「サ、サラ!?」
とグレイは大きく目を見張った。
*1 エシレ・メゾンデュブール
ECHIRE MAISON DU BEURRE.
東京丸の内にある世界初のエシレバター専門店。そんな専門店が成立するのが東京の不思議な、もとへ、凄いところ。
ここのクロワッサンは、3種類。クロワッサン・エシレ トラディシオンは普通のクロワッサンだが、クロワッサン・エシレ 50%ブールは、全体の50%がエシレバターでできている、いや、入れりゃいいってもんじゃないだろという味の逸品。
ドゥミ・セル(有塩)と無塩の2種類があるが、ドゥミ・セルの方がクセになる。入れりゃいいってもんじゃ、等と言いながら、時々食べたくなる不思議なパン。
ただ時々焼き過ぎじゃないの?って感じの色のことがあるのはご愛敬。
*2 マイフェアレディ
My Fair Lady.
淑女は教育で作られるかという実験の話なのだが、終わってみれば、結局、意地っ張り女と偏屈男のラブストーリー。
ei-ai矯正用の「スペインの雨は主に平野に降る」はその後、いろんな作品で合い言葉に使われたりするようになった。
ボクのスリッパはどこ?が、映画の最後の台詞で、その後ラブになだれ込むとか、字幕を見てるだけではまるで意味不明なラストに見える名作。
I washed my face and 'ands before I come, I did.
Where the devil are my slippers?
なお、the devil は単なる強調デス。
オードリーでスリッパと言えば、昼下がりの情事でもスリッパがなくなった話が語られる。
靴がなくなったと床にはいつくばって探しているオードリーに、ゲイリークーパーが、
Like that slipper. I couldn't find it for a whole week.
初めて見たとき、このwholeををfour、weekをweeks.と勘違いして、1ヶ月じゃないの?(字幕は当然1週間)だと思ったことはナイショだ。
で、この話をしながら、ドレスを着たまま机の下で横になってラブシーンとか、もうね。
この映画は、スーツケースにのっかるオードリーがキュートだが、
You're just the right weight.
Am I ?
In Japan last year, they ruined a brand-new suitcase.
The whole lid crushed in.
日本人はそんなに重くないですよ? どんなやつとつきあったんだよw
しまった、全然マイフェアレディじゃなくなってしまった。
*3 モンテリドーリのロゼ(カナイオーロ)
Montenidoli.
エリザベッタ・ファジョーリがトスカーナで、土着品種のカナイオーロという葡萄を使って作ったロゼ、イタリア風に言うならロザート。もうそれだけで、マニアックな一本。
色の淡いロゼで、ピンクというよりはオレンジがかっている。果実と言うより花の香りが中心で、いつもよりずっと冷やして飲むと、まさに夏にぴったりのロゼになる。
魚介にたいへんよくあうので、夏のデートの前菜ならこれで決まり。ロマンティックな色合いで外れ無し。しかもまあまあ安いです。
問題は日本への輸入が少なすぎて見あたらないことか(だめじゃん)




