019 治療騒動(前編)
「お嬢様、商会の前に数人の方が並んでいらっしゃるのですが」
と早朝、マーサが伝えてきた。
「え、こんな早くから並んで買うような商品、売りに出したっけ?」
「いえ、それが……」
どうやら、昨日ヴィオラール様が治癒魔法を使われたせいで、デュコテル商会でタダで治療して貰えるという、妙な噂が出回っていて、それを聞いてやってきた人たちらしい。
昨日のは緊急事態で仕方なく行ったことだし。大体そんなことをしたら、教会に目をつけられちゃうし! そもそも、そんな怪しげな噂、信じる?
と思って、店に行ってみたら、確かに少しみすぼらしい恰好の人たちが並んでいた。
話を聞いてみると、教会で治癒魔法を使って貰うための寄付ができない人たちで、さすがに嘘だとは思ったが、藁にもすがる気持ちでやってきてみたのだそうだ。
これ以上騒ぎになっても困るし。4人くらいならヴィオラール様にお願いしちゃった方が早いかな……
「いいですわよ」
と言って、ヴィオラール様は、嬉しそうにお願いを聞いてくれた。
ユーダイは微妙な顔をしていたけど、どうしたのかな。
◇ ---------------- ◇
いや、これってまずくないか? いや、まずいよな。
「ヴィオラール。必ず今日だけであることと、治してもらったことを口外しないように言っておけよ」
「? どうしてですの?」
と、きょとんとしている。昨日の『聖職者じゃない理論』が心理的葛藤をきれいにぬぐい去っていて、本人はただ良いことをしているつもりのようだ。
「ヴィオラールはずっとここにいるわけじゃないし、それに、ただで治して貰えるなんて噂が真実だと広まったら、教会に寄付ができなかった人だけじゃなく、いままで教会を利用していた人たちまでが押しよせるぞ」
そうして、結果として教会の商売の邪魔をしてしまうことになるのだ。
相手がどう出てくるか予想できない以上、刺激しないのが一番だろう。
「そんな大人数を治療するのは、一人では無理ですわ」
と、だからまるで大丈夫だと言わんばかりのヴィオラール。
だが、それは今度は「あいつは治してもらったのに、俺は治してもらえなかった」といういわれ無き恨みを買うのだ。
「……それも、そうですわね」
「それに、ここまでと打ち切られたところにいたのが、小さな子供を抱えたおかあさんや、おばあさんで、その人達が悲しげな顔をしながら、とぼとぼと帰って行く様子など想像するだけで心がダメージを受けるだろ?」
そう言うと、その様子を想像したのか、うるうる眼に涙を溜めながら、
「あううっ、それは厳しいですわー」
と、言った。
ヴィオラールは患者に念を押すことを誓って、治療にむかっていった。
◇ ---------------- ◇
俺は今、八重洲ブックセンター(*1)7Fの臨床解剖学のコーナーにいる。いつもお世話になっているのは3Fと地下1Fなので、こんなところまで上がってくるのは初めてだ。
ヴィオラールには念を押させたけど、なにかすごく嫌な予感がするんだよな。
念のためにヴィオラールには体の理を教えておこうと思う。そして手に取ったのが、グラント解剖学図譜(*2)だ、後はローエン(*3)と、臨床のための解剖学(*4)でいいか。
しかし、こっちの人間と向こうの人間の構造は同じなのかな?
最初は向こうで探してみたのだけれど、解剖学のアトラスのようなものは存在していなかった。やはり治癒魔法がある世界だからなのか、そう言う分野はまるで進歩していなかったのだ。
外見はまるでこちらの人間とおなじだし、おなじようなものだとは思うんだけれど……
その日は、向こうのアイテムを販売するための会社のサイトを作成しながら、遅くまで起きていた。
◇ ---------------- ◇
「ユーダイ! ユーダイ!」
「ん……ああ?」
なんでここにアイリスが? まだ……6時?
「ユーダイ! 大変なの!」
「どうしたの? まだ1の刻だよ?」
その日、朝の準備に商会に行ったマーサが、あわてふためいて帰ってきたらしい。
どうやら商会の前に、ものすごい人数の列ができているのだとか。
あっちゃー、やっぱりこうなったか。
口止めはしたけれど、昨日並んでいた人が今日は元気になっていたりしたら、問い詰める人や、その因果に気がつく人がいてもおかしくないわけで。
ただで治療をしてくれる、まるで神様のような人が、いつまでもいるわけじゃないと聞けば、いる間になんとか治してもらおうとするに決まってるよな。
さて、どうしたものかなぁ。
*1 八重洲ブックセンター
東京駅の八重洲口にある、都内では、ジュンク堂本店、丸善本店、紀伊国屋書店本店につぐ床面積を誇る大規模書店。
現在3Fはコンピューター関連が、地下1Fにはラノベやコミックのコーナーがある。
*2 グラント解剖学図譜
原著の初版は1943。それ以降時代時代に改訂されてきたためさまざまな時代のイラストが混じっている。
構成は、局所解剖に沿って論理的になされていて、まあ名著。
*3 ローエン
JohannesW. Rohen の書いた解剖学カラーアトラス(現在第8版)
グラントと違って、こちらは写真のアトラス。なので、いきなり見ると引いちゃう人もいる。
*4 臨床のための解剖学
メディカルサイエンスインターナショナルが出版した、定番の解剖学の教科書。




