第8話 想い
………思ったより時間がかかった。
アザリアの中心街。現在時刻は十一時五十五分。何に時間がかかったかと言えば、本選びである。
さっさと食材は手に入れたのだが、本屋で時間を喰った。ソニアの分だけでなく、色々気になる本を買ってしまった。
何にせよ十二時までに帰るという目標は果たせそうにない。どう足掻いてもこの荷物で五分では戻れない。
(………腹空かせて待ってんのかな…)
リクエストに応えるにはまた帰ってからの時間がかかる。……勉強させておけば、大丈夫だろうか。
一人、街の通りを歩く。この辺りではスラム程ローエンの名は知れてはいない。ただ時折数人でいる女達がヒソヒソとやや興奮気味にローエンを見て話しているばかりである。
しかしそんなのはもう慣れている。別にナルシストという訳でもないが、自分の容姿には自信がある。放っておいても向こうから話しかけて来ることもある。その時はまた女友達が増えると喜ぶばかりだ。
ともかく街を歩いている限りは安全である。安心して服を選べる。今度オフェリアに貰った服も着てやらなきゃな、とそう思った。
しばらくして、家のある通りに差し掛かった。人気のない静かな通り。今の時間、ほとんどの人間は仕事に出ているので余計に静かである。
「ただいま」
玄関を開けても、静かだった。まだ熱心に勉強でもしてるのだろうか。
「ソニアー、帰った……ぞ」
リビングに顔を出して、ローエンは立ち止まった。
「…………」
まず目に入ったのは、倒れた椅子だった。そして、元の位置から歪んだ机。壁の絵も歪んでいる。
……荒らされたのは見て明らかだった。しかしそれが、ソニアの仕業であるとは思えない。
どさ、と荷物を床に置いて、机の上に置かれた見覚えのない紙を見た。その上には汚い文字でこう書き殴られていた。
[ガキを取り戻したきゃここに一人で来な]
そして、その下にコピーされた地図が貼り付けてあった。赤い点が、手描きで描き加えられていた。
「…………なんだよ」
不思議と焦りは無かった。………それどころか、心がひどく冷めて行った。波一つ立たない、静かな水面のようだった。
ローエンは一つため息を吐いて、倒れていた椅子を全て直し、机の位置を直した。そして壁の絵を直すと、椅子に座った。頭の後ろで手を組み、椅子の背中に体を預ける。
(………別にいいか。またいつも通りの生活に戻れるんだ、面倒な事も何もない)
そう思って、目を瞑った。脳裏に色んなことが浮かぶ。
(いなくなってせいせいしたじゃねェか……)
そう思った矢先、ふと脳裏にソニアの笑顔が浮かんだ。チクリと心が痛んだような気がした。
(…せい……せい……)
違う、と眉根を寄せると、今度はソニアの寝顔が浮かんで来た。安らかな表情。……自分の横で、寝ていたときの。
「…………」
ぱちりと目を開け、体を起こした。卓上の書き置きを、じっと睨みつける。イライラというか、何だかモヤモヤした気持ちが込み上げてくる。
「……………あぁぁもうっ」
ガタッと立ち上がると、書き置きを握り締め、ローエンは家を飛び出した。
「ほ、本当に来るのかよ」
「来るに決まってる!見たんだよこのガキと歩いてんのを!」
「…………来たところで…殺れるのかよ」
「馬鹿、こっちにゃ人質がいるんだぞ」
どこかのテントの中。ソニアの目の前で、男が二人言い合いをしていた。ここがどこかは分からない。状況も良く飲み込めていない。気付いたらここにいたのだ。覚えているのは、家で逃げ回った挙句に抑えられたところまでだ。
恐らく眠らされていたのだろうが、ソニアにはそこまで考えられなかった。……ただ、二人の顔にはどこか見覚えがあるような気がした。
「……おじさん達、誰……?」
「あん⁈」
「おい、コイツの口塞いどかなくていいのか」
「煩くなきゃいいだろ、それに無駄に傷付けたくねェ。大事な商品になるかもしれないからな」
ソニアには何の話なのかよく分からなかった。ただ、今自分がただならぬ状況に置かれている事だけは理解出来た。逃げるべきなのも分かっていた。……逃げられれば、の話だが。
手足はそれぞれ錠を掛けられていた。動こうにも動けない。
「…………放して!おうちに帰してよ!」
「黙ってろガキ!」
「おい、何騒いでんだよ、刺激すんな」
もう一人、男がテントの外から顔を出した。
「放してよ!」
「……コイツが騒ぐんだよ」
ソニアに怒鳴った男が、外の男に言った。
「騒ぐなら静かにさせろ、多少荒くしたって構わねェから。殺すなよ」
「分かってるよ」
チッと舌打ちして、男がナイフを出す。それを見てソニアは身をよじり、叫ぶ。
「……いやっ!」
「うるせェな、嫌ならギャーギャー騒ぐんじゃねェ!」
「いやだあっ!」
「黙れ黙れ!ったく、面倒臭ェガキだな!」
ナイフを突きつけられ、ソニアは息を呑んだ。じっ、と身を硬くして、震えて男を見る。
「……そーだ、そうやって静かにしてりゃ何もしねェよ」
「もうそのまましとけ、また騒がれちゃ面倒だ」
外の男がそう言った。はいよ、とソニアのすぐ前の男は答えた。
ソニアはもう恐怖のあまり声が出なかった。ただひたすら、ローエンの事を考えていた。今すぐ顔が見たかった。
「…………てか…外の見張りは」
「三人でしてる」
「そうか」
その時だった。外で大きな声がした。何かが崩れるような音もした。
「なっ、何だっ⁈」
その場の男達は、一様に外へと注意を向けた。ソニアもまた、外へ注意を向ける。
「………う、嘘だろ」
外にいた男が震えた声で言う。
「ど、どうした?」
「全員やられた…………」
「⁈」
「き、来やがったぞ‼︎」
一人の緊張が、全員に伝染した。男達は顔を見合わせ、そして一人がソニアを、ナイフを突きつけたまま引っ張った。
「来いっ!」
「やっ!」
テントの外に連れ出されたソニアが見たのは、倒れた屈強な三人の男達と、その中に立つ見慣れた顔だった。
「………おとーさん!」
ソニアが叫ぶが、ローエンは表情を変えない。ソニアの方すら見ない。怒った顔でもなく、笑っている訳でもなく、ただ無表情で、ソニアを捕らえている男達を見ていた。
「……………お前らこの前の残党だろ」
ローエンが静かにそう言って、一歩踏み出した。
「!」
「可愛い女のコ達に可哀想な事した」
そう言いながら、一歩一歩と男達の方へ歩いて来る。
「くっ、来るなっ!コイツがどうなってもいいのか!」
裏返った声でそう叫んで、男はソニアの首筋にナイフを突きつけて、ローエンを脅す。しかしローエンは、男達のほんの数メートル前で立ち止まると、言った。
「…………やってみろよ」
「………は?」
「こっちは痛くも痒くもねェ」
思わず、ぶるりと震えた。男達は勿論、ソニアまでもが震えた。殺気、とはまた違う。何か、異様な威圧感だった。
「な…………何だとぶっ‼︎」
言葉の途中で、男は顔をローエンに掴まれ、後頭部からコンクリートの地面に叩きつけられた。ベキャ、という音がして、血が飛び散った。勢いで近くに転んだソニアにも、転々と血飛沫が掛かった。
「ひ、ひぃ………!」
残る二人の男が慄いて、後ずさる。ゆらりと体を起こしたローエンは、ゆっくりと彼らの方へ血のついた顔を向けた。
「…………馬鹿だなお前ら、そのまんまどこかに隠れてりゃ放っておいてやったのに」
感情の篭っていない言葉。男達の背筋をヒヤリとしたものが馳けた。殺される。そう、本能的に感じていた。
「………おとー……さん…」
ソニアは恐る恐る呼び掛けた。しかし、ローエンはやはり振り向かなかった。
「ゆっ、許してくれぇぇぇ!」
一人がそう叫んで、逃げ出した。だがローエンは追おうとはしなかった。残る、体が竦んで動けない一人の男に目を向ける。
「………お前は?」
軽く首を傾げ、そう問う。すると男は、震える手でポケットからナイフを出すと、何か叫びながら襲い掛かってきた。しかしそれを、ローエンは左手で軽く捌くと、右拳を男の腹に叩き込み、左の膝蹴りでその首筋を打った。ゴキ、と音がして男の首が変な方向に曲がった。
ドサ、と倒れた男を見下ろして一つため息を吐くと、やっとソニアの方に目を向けた。目が合って、ソニアは思わずビクリとしてしまった。
歩いて来るローエンの顔が、段々と険しくなってくる。ソニアは何となく危険を感じて退がろうとしたが、手足を封じられていては思うようには動けない。あっという間にローエンの影が自分に覆い被さった。
「…………」
「……おとーさん……?」
恐る恐る呼び掛けると、ぐん、と胸ぐらを掴まれて持ち上げられた。
「余計な世話掛けんな‼︎面倒なんだよ一々お前の為に何かすんのは‼︎」
怒鳴られて、反射的にソニアの目には涙が溜まった。そんな事に構わず、ローエンは怒鳴り続ける。
「お前に時間取られるし気軽に女と遊びにも行けねェし、ものは荒らすし字も読めねェし、食べ物に文句言うわ風呂も一人で入れねえ‼︎お前なんか一層の事いなく………‼︎」
不意に、ローエンの言葉がしぼんだ。その時ぽた、とソニアの頰に何かが垂れてきた。
「…………いなく…」
ローエンの手の力が緩んで、ソニアの足が地面に着いた。
「…いな……くなっ…たら」
あれ、違う、とローエンは思うが、口は止まらない。目頭が熱い。何故そうなっているのかよく分からない。目元を拭った袖が濡れた。
「………いなくなったら………どうしようかって…」
違うだろ、言いたかったのはそうじゃない、と何度念じても、その否定の言葉は出て来ない。ポロポロと、次から次へと涙が溢れて止まらない。
ソニアがもたれ掛かってきた。手足が拘束されているせいで、上手く動けない。
「……………ごめんなさい」
「……!」
「ごめんなさい……おとーさん……ソニアの事嫌いにならないで………!」
ソニアが泣き出す。ローエンは半分ぼうっとした頭のまま、自分の涙を拭いて、ソニアの頭に手を置いた。
「…………初めっから大嫌いだ馬鹿」
クスッと笑ってそう言った。そして、ソニアの錠を外してやろうと針金を出した時だった。
不意に後頭部に強い衝撃を受け、世界が一瞬暗転した。地面に体を打ちつけた衝撃で意識が再び覚醒する。が、再び何かの衝撃が頭を襲う。
「おとーさん‼︎」
悲鳴のようなソニアの声が聞こえた。
「ハッ、ハハハハハハッ、ばーか‼︎馬鹿野郎‼︎何が感動の再会だ‼︎死ねっ‼︎死ねっ‼︎」
狂ったような笑い声と、そんな言葉が聞こえた。何度も何度も何かで殴られるせいで、顔が確認出来ない。……しかしその声からさっき逃げて行った男だと言うことは分かった。しかし、今何がどうなっているのかは分からない。
「なーにが「痛くも痒くもねェ」ッだ‼︎隙だらけじゃねェかよッ‼︎」
段々と意識が朦朧として来る。頭の痛みがどこか遠い。ソニアの声も僅かに聞こえるばかりだ。
ローエンが動かなくなると、男は殴るのをやめた。なんとか薄眼を開けると、彼が手にやや太めの鉄パイプを持っているのが見えた。
「………ハァッ……ハァッ……ザマァ見やがれ……ハァッ…俺らの商売邪魔しやがって…………なあっ‼︎お陰で俺らの生活滅茶苦茶じゃねーかっ‼︎」
「………………」
「何とか言えよオラッ‼︎」
「!」
脇腹を蹴られ、地面を転がった。起き上がる力が無い。うつ伏せのまま、止まる。
「………ゲホッ……」
「…………見ろよ、あの悪魔が虫の息だぜ」
男がローエンへと歩み寄る。
「やめて‼︎おとーさん死んじゃう‼︎やめて‼︎」
ソニアが必死に叫ぶ。すると、くるりと男はソニアの方へ振り向き、二、三歩そっちへ踏み出した。
「………そーだよ死んじゃうんだよお前の大好きな“おとーさん”は。お前のせいで」
「……………!」
「お前も廃棄する“商品”の残りだからなぁ、後で十分可愛がってから処分してやる」
「……!」
にや、と男は下卑た笑みを浮かべる。
「……………やめろ………手ェ出すな…」
「……あん?」
声に男が振り向くと、なんとローエンがフラつきながら立ち上がっていた。
「…………何だまだ動けるのか」
「…娘に………手ェ出すな…………!」
振り絞られた声。その目が、鋭く男を捉えた。しかし、男は鼻で笑う。
「………………何 巫山戯た事言ってんだよ」
鉄パイプをカンカンと床に打ちつけながら、男はローエンへと近付く。
「その体でまだやる気か?立ってるのでやっとなんじゃねーのか、なぁ⁇」
「………うっせェ……黙れ」
頭からはかなりの出血をしている。肋骨も何本か折れてしまっているようだった。
「黙んのはそっちだよ、さっさと大人しく、くたばりやがれ‼︎」
男が鉄パイプを振りかぶった。振り下ろされたそれを、ローエンは右手で掴むと、強引に奪い取った。バランスを崩した男。その首を、ローエンが鉄パイプで薙ぐ。男は吹っ飛んで、床に墜落した。直後、力の抜けたローエンの手から鉄パイプが飛んで行って、壁にぶつかって落ちた。それと同時にローエンは膝から崩れ落ちる。
「おとーさん!」
ソニアが必死になって這って近付いて来る。ローエンは仰向けに倒れ、力無く笑う。
「……あっはは………ちょっとやべェや、油断しちまった」
「死んじゃやだ!独りにしないでよ…!」
ソニアが泣きながらそう言った。
「……死にゃしねェよ………大丈夫」
ローエンは震える手で携帯を出して、ある番号にかけた。
「………………あぁ、俺。………ちょっとすまねェ、位置送るからそこに来てくれ。……あとあいつも呼んでくれると助かる………あぁ、頼む」
それだけ言って電話を切ると、少し操作をした後手を下ろした。
「………おとーさん………?」
「…………助けは呼んだ。……お前もここで待ってろ」
「……死んじゃわないよね…………?」
「…………多分……な」
はぁ、とため息を吐くと、ローエンは目を瞑った。少し限界である。喋るのも辛い。
「……大丈夫?おとーさん?」
ソニアの声が少しずつ遠くなる。そしていつしか、ローエンの意識は闇に落ちた。
「………おやおや、珍しく助けを呼ぶから何かと思って来てみれば」
「!」
数分後、現れたのはアクバールと、見知らぬ眼鏡の男だった。ソニアは泣き腫らした目で、アクバールを見る。
「おとーさん死んじゃった!」
「おやおや。そうかね。…………グラナート」
「はいはい」
アクバールの後ろにいた見知らぬ男が、ローエンに近付いて首筋に触れた。
「……あぁ、弱っちゃいるが生きているよ。すぐに運ぼう」
「君の病院の方が近いかね」
「そうだね。ローエンは僕が背負うから、その子は頼んだよ」
「ふむ、なるほど、それで二人呼んだわけか」
「…………それ以外にも理由はあると思うけどね」
よいしょ、と慣れた様子で男はローエンを背負う。ソニアも、錠がついたままアクバールに抱きかかえられた。
「すまないね。ピッキングの道具は教会に置いてきてしまった。このままで行くよ」
「……おとーさん生き返る?」
心配そうに訊くソニアに、アクバールは笑う。
「ハッハッハ、死んでないから生き返らないよ」
「アクバール、意地悪なこと言わない」
「何を。本当の事だろう」
「ったく。…………急ぐよ」
「はーいよ」
先を歩き出した男に、アクバールがついて行く。その腕に揺られているうちに、ソニアは段々と緊張がほぐれてきた。そして一つ、別の事に興味が向いた。
「…………おじさんは誰?」
前を歩く、ローエンを背負っている男にソニアは言った。すると、彼は振り向いて苦笑した。
「あっははは、参ったなあ、僕ももうおじさんか」
「ローエンでもそう言われていたから仕方あるまいよ」
アクバールがそう言った。彼はその呼び方を否定する気は無いようである。
「…………まぁ、そうだねぇ」
男はアクバールからソニアへと視線を移すと、言った。
「僕はグラナート。……まぁ、いわゆる闇医者って奴かな」
「……やみいしゃ?」
「まぁ、ソニアちゃんには少し難しいだろうね」
アクバールが苦笑する。
「よろしくね、えーっと、ソニアちゃん?」
「うん、ソニア」
「可愛い名前だね」
にこ、とグラナートは笑うと、前方へ視線を戻した。
「さ、急ごう、本当に死なせちゃいけない」
「おや走るのかい、仕方ないね」
「うわっ」
グラナートと共にアクバールは軽く走り出す。揺れが大きくなって、思わずソニアは声を上げた。
「すまないね、落とさないように気をつけるよ」
アクバールはそう言って少し腕に力を入れると、さらに速度を上げた。その腕の中で、ソニアはじっと、前にあるローエンの背中を見つめていたのだった。
#8 END