第7話 父
「………アクバール、戻ったぞ」
時刻は午前十時、スラムの教会。ローエンはいつものワイシャツにベストという出で立ちで現れた。
「………あぁ、ローエンか。ご苦労さん」
箒で掃除をしていたアクバールは、彼に気付いて顔を上げた。
「………その頭の傷は?」
アクバールが自分の額の右側を、指で小突いて問う。
「ぶつけた」
ローエンは真顔でそう答えた。
「…………そうかい。大丈夫そうだね」
「ソニアは」
「まだワタシの部屋で寝ているよ。……昨日中々眠らなくてね」
「………そうか」
「寝付かせるのに苦労したよ」
と、アクバールはそう言って苦笑した。近くの長椅子に箒を立て掛け、歩いて来るローエンを迎えた。
「で、どうだったかね、仕事の方は」
「……幹部は全員殺した。捕らえられてた奴も逃した」
「そうかい、それは良かった」
満足そうに頷くアクバールに、ローエンは小切手を押し付けた。
「………これは?」
「やる」
「?………って、おい、これは……」
100,000と書かれた小切手。振出人がローエン名義になっている。それと、ローエンの顔を交互に見て、アクバールは戸惑う。
「……君が稼いだのだろう、どうして……」
「いくら稼いでも、俺の好きに使っていいんだろ」
「!」
「それの十倍貰ったから気にすんな」
と、それだけ言ってローエンは、アクバールの部屋へとスタスタと歩いて行ってしまった。その後ろ姿を見て、しばらくアクバールは唖然としていたが、不意にふっ、と笑った。
「………らしくない事をするじゃないか、悪魔め」
小切手を懐にしまうと、彼の後をついて行った。
「ソニア、起きろ」
「………うにゅ…」
アクバールのベッドの上で眠りこけているソニア。ローエンが声を掛けても、布団を抱きしめ丸まってしまった。
「………おい……帰るぞ」
体を揺すってようやく、ソニアは薄っすらと目を開けた。そしてその目がローエンを捉えた途端、ぱちりと大きく見開かれた。
「おとーさん!」
「だっ、おいっ、だからくっ付くなっ‼︎」
飛びついて来たソニアを引き剥がそうとした所へ、アクバールがやって来た。
「昨日の夜、君がいないのが不安だったみたいでねぇ」
「………何でだよ」
「すっかり懐かれてしまったね、ハッハッハ」
「………」
懐かれても困る、とそう思ってため息を吐いた。
「おかえり!」
「……まだ家じゃねェし」
「おやおや、そこは『ただいま』で良いのだよ、ローエン」
と、アクバールがにやにやとしながら言うので、ローエンは眉間に皺を寄せる。
「何笑ってんだよ」
「………あぁ、いや何、面白くてねえ……」
「正直か」
「おとーさんおとーさん」
「………んぁ」
「お腹すいた」
ソニアがローエンの服を引っ張ってそう言った。そうだな、とローエンは頷き、そしてアクバールに言う。
「………じゃあ世話になったな。また何かあったら言ってくれ」
「あぁ。………ソニアちゃんもいつでもおいで」
「………」
「……お前はあまり懐かれてなさそうだな」
ソニアの様子を見てローエンがそう言うと、アクバールはやれやれと肩を竦める。
「一晩で少しは慣れてくれたかと思ったが、やはり君には代えられんようだね」
「お前の顔が怖いんだろ」
「おや、君よりはマシだとは思うがね」
「………なんだと」
「フフ。………まぁ良いさ。気を付けて帰りたまえよ」
ベッドから降りたソニアが、ローエンの手を握った。ローエンは一瞬戸惑ったが、払いのけはしなかった。
「………帰るか」
ローエンがそう言うと、ソニアはホッと安堵したように微笑んだ。
「………」
「……何だよ、早く食べろよ」
ローエンの家。食卓の上の卵焼きと睨めっこしているソニアに、ローエンは頬杖をつきながらそう言った。
「……また卵…」
「あン」
「卵ばかりやだ!」
「何でだよ、卵美味いだろ」
栄養もあるし、と付け加えるローエンに、ソニアはぷくりと頰を膨らませる。
「ちがうもの食べたい」
「今はこれしかねェぞ」
「………じゃあ今はいい…」
むすっとしながら、ソニアは卵焼きをひとくち口に入れ、そして、しばらく固まるといつもの様にがっつき始めた。
(…………結局美味いんじゃねェか……)
そう思って、ふん、とローエンはため息を吐いた。
別に他にレパートリーが無い訳では無いのだが、ソニアが何が好きか分からないし、下手に作るよりはこういうものの方がいいと思ったのだ。………単純にローエンが卵料理が好きだというのもあるが。
「………じゃあ何が食べたいんだよ」
「ハンバーグ!」
「…………わぁったよ、材料買って来る」
と、買うべき材料を数えていてふと、ある事を思い出した。
「……お前昨日風呂は」
「入ってない」
「…………よくアクバールが許したな」
「入んなくても平気!」
「ダメだ、今から湯張ってやるから入れ」
「えー……」
「えーじゃない」
ローエンは立ち上がり、机に手をついて言う。
「今まで入れなかったから平気なのかもしれねェけど、衛生的にも良くねェぞ」
「………」
「臭いのは嫌だろ」
「…………臭いのきらい?」
「あぁ」
「………………分かった」
そういや連れ帰って来てからまだ一度も入れてやってないなと、気付いた。自分はシャワーを浴びてはいたが、ソニアの事は放って置きっぱなしだった。
ぐるりとソニアの後ろに回って、髪の毛先に触れた。……あまり気にしていなかったが、傷んでいる。
(………あんな環境にいたんだし、当たり前か)
「………なぁに」
ソニアが怪訝な顔をして見上げて来る。
「………別に」
湯船に湯を沸かそうと、ローエンはバスルームへと向かう。水を流しながら軽く掃除をした後、適度に温度を設定し、水が温かくなったのを確認して、栓をした。
「おとーさんも入る?」
いつの間にかすぐそこまで来ていたソニアが言った。
「何でだよ」
「一人じゃできないー!」
「………はぁ?」
「体洗って!」
「……………はぁ」
困って、ローエンは頭を掻く。……勿論そんな経験はない。
「……一緒には入らない」
「えー」
「洗うのだけは手伝ってやるから」
渋々そう答えた。流石に一緒には無理だ。しかしそれでも、彼女は少し嬉しそうだった。
「おとーさん、いたい」
風呂上がりのソニアの頭を拭いていると、彼女にそう怒られた。
「…………悪い」
「優しくして!」
「…………」
そっと力を抜くが、よく加減が分からない。立ってするのはしんどいので、ソニアの頭の高さに合うように膝をついた。
「……………こうか」
「ん」
「…………」
ローエンは難しい顔をして、手を動かす。………何せ初めてなのだ。どうすればいいかなど分からない。
「……ふう」
大体いいか、とタオルを外すと、髪が乱れてしまっていた。とりあえず手櫛で直す。初めよりはましだが、やはり毛先の傷んでいる所は治らない。
「………勿体無いな」
「ん?」
「……………いや、何でもない」
切ってやろうかと思ったがやめた。自分ですら切ったことが無いのだ。傷つけてもいけない。切るなら美容院に連れて行ってやった方がいいだろう。自分だって散髪屋に行く。
心の中でやる事リストに一つ加え、ローエンはソニアの体にタオルをかけた。
「早く服着ろ」
「……………」
行こうとすると、ソニアが何か言いたげな顔で見て来た。
「………何だよ」
「……………手伝って」
「…えぇ…………ったく」
一人で出来ないのか、と半ばうんざりしたが、ごねられても嫌なので仕方なく言う事を聞くことにした。
新しい、子供らしい服を着たソニアはローエンの前で自慢気にくるくると回る。
「見てー!」
「はいはい」
疲れたローエンは、適当にあしらって自室に引っ込もうとした。が、その服の後ろを、ソニアが手を伸ばして掴む。
「…………何」
「一緒にいて」
「……なら来い」
「うん!」
元気に答えるソニアに、ローエンはため息を吐く。やはり苦手だ。元気さに追いつけない。
気怠げに階段を上って行くと、その後ろをソニアがついて来る。部屋のベッドにダイブすると、視線を感じて顔を上げた。こっちを見ているソニアと目が合う。
「………何」
「…寝ちゃうの……?」
「…………いいだろ別に、疲れてんだよ……」
何せ仕事の後なのだ。まだ時間的にも娼館に遊びにも行けないので、寝る他無い。
再び伏せて目を閉じた途端、ぐい、と髪を引っ張られた。
「いててててて!」
がば、と顔を上げると、ソニアが手を後ろへ引っ込めた。
「何すんだよ!」
「遊んで!」
「嫌だ!一人で遊べ!」
「一人じゃ出来ないもん!」
「…………じゃあ寝ろ!」
「眠くない!」
「………あぁぁもう」
何で子供との言い合いに負けるんだと、思わず頭を抱える。……しかしよくよく考えてみれば、今この状況で悪いのは自分の方なのである。
そう結論が出たので、仕方なくローエンは体を起こした。
「…………で、何がしたいんだよ」
「………何がある?」
「…………」
何がしたいのか分からずに言ってたのかよ、とうんざりして頭を掻く。子供の好きな遊びなど………いや、かつては自分だって子供だったのだ。
しかしローエンは、自分が子供の時何をしていたかを考えようとして、やめた。思ってみればまともな思い出などない。十二歳を過ぎてからは毎日喧嘩ばかりしていた。……それ以前の事は思い出したくもない。
「……おとーさん?」
ソニアの声で、ハッと我に帰った。ゆっくりとソニアに視線を戻す。
「…………あー…そうだな、トランプでもするか」
「とらんぷ?」
「……何だ、知らねェの?」
「うん!」
「…………はぁ」
ローエンはベッドから一旦降りて、机からトランプの箱を出して来て、元の場所に座った。箱からカードを出して手の中で広げていると、ソニアが隣に座った。
「これがトランプ」
「……とらんぷ」
「基本的なのは………まぁババ抜きかな。同じ数字のを二枚ずつ揃えて出してくんだけど………」
ちら、とソニアを見ると、何やら険しい顔をしていた。
「………何だ、難しいか?」
そう訊くと、ソニアは手を伸ばして、トランプの角を指す。
「……………これなぁに?」
「………“2”」
「に?」
「一、二の“2”………」
と、そこでローエンの中に一つの嫌な予感が駆け抜けた。
「…………あのさ」
「…うん」
「もしかして、文字読めねェのか」
「うん」
「…………」
はぁー、と思わず掠れた長いため息が出た。
考えていなかった。教育も受けられた訳がない。字を覚える余裕など無かったかもしれない。普通に言葉が通じるだけで満足していた。
「……自分の名前も書けないのか?」
「うん」
「…………そうか」
ローエンはまた立ち上がる。そして机の前の椅子に座り、ソニアの方へ振り向いた。…………少し考えてから、手招きして自分の膝の上へ誘った。
「なぁに?」
ひょい、とソニアが乗って来て、机の上を覗いた。
「“T.H.O.N.I.A”……これがお前の名前」
と、メモに書いて見せる。
「………ソニアの?」
「そう。俺は“L.O.H.E.N”」
「ろえん」
「だからローエンだってば………」
「ろー…」
「ローエン」
「ろーえん!」
「………少し違う気がするけどまぁいいか」
ふう、とローエンは頭を掻いた。そして順に文字を書いて行く。
「A.B.C.D.E.F.G.H.I.J.K.L.M.N.O.P.Q.R.S.T.U.V.W.X.Y.Z。これが全部な」
「…………うん?」
「…まぁ、すぐには覚えられねェか」
どうしたら良いかな、とローエンは頭を悩ませる。上手な教え方など分からない。…………アクバールなら出来るだろうか……。と、ふとそんな事を思った。彼は確か、貧しい子供達に勉強を教えたりしていたはずだ。
「使うのが一番だからな………まぁまずは文字だけでも覚えた方がいいな」
「……えーびーしー?」
「そう」
ソニアはローエンのメモを手に取ると、まじまじと見つめた。
「……ソニア、ろーえん」
「…………あぁ」
「あのおじさんは?」
「アクバール?」
「うん」
ローエンはソニアの手からメモを取ると、自分の名前の下に“Acberl”と書き足した。
「こう」
「………ふうん」
再びソニアはメモを手に取った。そして、ローエンの顔を見上げて言う。
「これ持ってていい?」
「…………別に構わないが……覚えるのなら本でも買ってや……」
「これでいいの!」
「……そうか」
何だか良く分からないが、ソニアはそれが気に入ったらしい。じっとそれを見つめてぶつぶつ言っていた。
そんなに熱心になるなら本でも買って来てやろうか、と思い立った。ついでに昼と夕飯の食材も買いに行きたい。
「………俺ちょっと買い物行って来るけど、待ってるか?」
「うん」
「そうか」
ひょい、と一度ソニアを抱き上げて自分は立ち、ソニアは座らせる。
「待ってろ」
「うん」
ソニアはローエンを見てそう答えると、またメモの方に視線を戻してしまった。ふう、とため息を吐くと、ローエンは下へと降りて行った。
部屋の時計を見る。11時。12時には戻ろう。そう決めて、コートを着て外へ出た。
#7 END
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