第6話 蟻の一穴
ジヨンは荒い息をして、階段を駆け下りる。心臓が今までになく激しく波打っている。頭が痺れそうだ。嫌な予感しかしていなかった。
「…………!」
開いていた地下牢の扉を潜り抜け、ジヨンは絶句した。鼻についたのは血と、死人の匂いだった。倒れている部下達の中に、見慣れた顔がある。つい数時間前まで、言葉を交わしていた仲間。それが今は、首筋を切られて血を流している。
「………アルテ……!シル………!」
牢の鍵は全て外され、中には誰一人いなかった。しかしそれよりも、事切れた仲間達の事で、頭の中がいっぱいだった。受け入れられない現実。…………そして、ふと気付く。
………この犯人は、どこへ行った。
「……わざわざそっちから来てくれるたぁね」
「!」
階段の方から声がした。振り向くと、ローエンがそこに立っていた。返り血がその顔と服に付いている。
「………何でそっちに」
「上がろうとしたらお前が来たから、陰に隠れてただけだ」
ふん、とローエンはそう言って、通路へ出てくる。
「……………体はもう大丈夫なのかよ」
「………心配してくれんのかい、敵だってのに」
ジヨンはそう言って笑うが、その笑みに余裕はない。
「アンタの事、そんなに嫌いじゃない」
「……何だそれ」
「けど、仕事に私情を挟むつもりもないし、そもそも俺は、ターゲットにそんな情けはかけない主義だ」
「……やっぱりロイの読み通りだったってか」
ジヨンがそう言うと、ローエンはあぁ、と笑う。
「あの人あぁ見えて鋭いんだな。………でも、アンタはあまり俺の事殺そうとしてた感じは無かったな」
「……まぁ、負かすだけで懲りてくれれば良いなっていう気持ちが、無かったといえば嘘になる」
「あそこでアンタにやられても、生きてる限りは別の手段を考えるさ」
「…………なぁ、一つ訊いて良いか」
「………何だ?」
ジヨンはローエンの目を真っ直ぐ見据え、問う。
「何で試合に参加したりなんかした」
「…………金のため」
「………は?」
「依頼人が、今回の報酬は自分で稼げって言うからよ」
深いため息を吐いて、やれやれとローエンは首を振る。
「……あ、初めから俺の事消すつもりだったから、小切手で渡されたのかな?」
「元からうちはああいう形式だよ」
「あ、そ」
まぁいいや、とローエンは首を傾げる。
「お喋りはこれくらいにして、大人しく死んでくれるかな」
「…………そんな簡単にやられる訳無いだろ……」
じり、とジヨンは一歩下がりつつ、身構えた。恐れる必要はない、と自分に言い聞かせても、あの時のゾクリとした感じが、纏わり付いて離れない。
しかしそれに負けじと、きっ、とジヨンはローエンを見据えた。その様子に気付いて、ローエンは笑う。
「………なに?敵討ちとか考えてる?」
「…………そんなんじゃねェよ」
だが、許せないのは確かだった。大切な仲間を殺された。しかしそれ以前に、今戦わなければ、生きる道は無いという事を悟っていた。リングの上とは違う。………彼は自分を殺す気でいるのだから。
決意を固め、ジヨンは動いた。いつも通り。不意打ちにはならない。だが、自分の力なら初撃は入れられる………と、ローエンまであともう少し、という所で彼の姿が揺らぎ、視界がひっくり返った。
遅れて背中と後頭部を打った痛みと、息苦しさを感じた。
「…………っ…」
「………あれ、今ので殺したつもりだったんだけどな」
ジヨンの首に右手を掛けて、ローエンはジヨンの顔を上から覗き込んでいた。
「……………放……せっ………」
「放せって言われて放す訳ないだろ、このまま殺すよ」
と、ローエンはジヨンの体を右膝で抑えた。
「………俺は別に快楽犯じゃねェのよ」
「……………嘘………吐け、……笑っ……てるクセ…に」
「…………」
と、ローエンはジヨンの言葉を無視して、ポケットからナイフを出した。首に掛かる右手に力が加わり、ジヨンは苦しそうに顔をしかめた。
「……この……っ……悪魔……め」
その言葉に、ローエンが目を細める。無言でナイフを振り上げた。
「…………何とでも言いな」
そう言い放って、ローエンは思い切りナイフを振り下ろした。
誰もいなくなったファイトクラブ。あの喧騒は嘘であったかのように、しんと静まり返っていた。
ローエンは一人、暗がりの中を歩く。残るロイを探して、地下から上がって来た所である。
リング正面に来た所で、ローエンは立ち止まった。ぼうっと浮かび上がる影。こちらに歩いて来る。足音だけが、その空間に響いた。
「…………随分と派手にやってくれたみたいだな」
淡々とした声で、ロイがそう言った。しばらくして、立ち止まる。やっと顔が見えるくらいの距離だ。
「大事な商売道具は逃すわ、部下は殺すわ……お陰でこっちは大損害だよ」
「………もう終わりだ」
ローエンも淡々とそう返した。と、ロイがその手を震わせる。
「………………何でだよ…、何で邪魔すんだよ‼︎」
広い空間に、ロイの叫びが反響した。
「………少なくとも……お前にゃ関係ねェだろ………!」
「俺じゃない」
「…………は?」
「邪魔したいのは、俺じゃない」
ローエンはため息を吐いてそう言う。
「とある偽善者が、アンタらみたいなのを消したいだけ。俺は力のないそいつの代わりに動いてるだけ」
「……何だよ…………それ」
ロイは引きつった笑みを浮かべて、呟くように言った。
「…………じゃあ何だよ、俺らは偽善に消されるのか」
「……そうさ」
「……冗談じゃねェぞ」
ギッと、鋭い目がローエンに向けられる。それをやはり彼は淡々として、受け止める。
「…………本当、冗談みたいな話だな」
フッ、と笑ったローエン。が、次の瞬間には表情を切り替え、殴りかかって来たロイの攻撃を、左腕で受け止めた。
すぐさま反撃に出る。右拳を腹に向けて、突き上げるように繰り出す。ロイが下がって避けた。ローエンの顔を狙った拳を首を曲げて避けると、蹴りを繰り出すが、また避けられる。間髪入れずに、ローエンは左拳をロイの腹へと繰り出した。彼は避けられず、そしてローエンは続けざまに右膝蹴りをその横腹へ叩き込んだ。
「………がっ!」
ゴロゴロと床を転がり、ロイはリングのフェンスの前で止まった。脇腹を抑えて起き上がろうとしたが、その前にローエンに胸倉を掴まれ、立たされて、フェンスに抑え付けられた。
「…………くっ……ふっ……はははは、何だよ、お前強いな…………」
ロイは無理矢理笑ってそう言った。一方で、ローエンはただ無表情でいる。
「……正直甘く見てたぜ…………たかが一人に何が……出来るんだってよ…………」
「………情報不足だな」
ふん、と興味なさげにローエンはそう答えた。
「……………なぁ……何者なんだよ……本当にただの殺し屋なのかよ……」
「…………」
「なぁ‼︎答えてくれよ‼︎俺達は何に殺さ」
ロイの言葉は途中で途切れた。代わりにグシャ、と潰れるような音がした。ピピッ、と細かい返り血が、ローエンを汚す。左下へと振り下ろした右手。その手を体の前へ持って来て見つめ、呟く。
「………ただの人間だよ、俺だって」
足元に血が流れて来た。そして不意に、額の痛みを思い出した。
「………………痛ててて……」
幸い浅かったのか、それ程出血はしていないらしい。しかし、傷に触れた手にはまだ血がついた。
「………早く帰ろ」
今は何時だろうか、と時計を見ようとしたものの、ここからは見えない。地下なので外の明かりも入らない。だから外の明るさも分からなかったが、体感的にもう十一時前だろうと思った。
出口に向かおうとして、ふと足を止め、ロイに目を向けた。
うつ伏せで、虚ろに開いた片目だけが見えていた。
「………悪く思うなよ」
はぁ、とローエンは深いため息を吐く。そして今度は足を止める事なく、出口へと向かって行った。
翌日。ファイトクラブの入り口には規制線が張られている。中では街の警察が捜査をしていた。
「………ったく、何でこんな所に飛ばされなきゃいけないんですか」
眼鏡の青年が、地下牢へと続く階段を降りながらそう言った。それに対して、共にいるポニーテールの若い女性が答える。
「仕方ないですよ、他はアザリアの街中だけで手一杯なんですから」
「………元気そうですね、セリンさん」
「元気なんかじゃありません。……あとアニーでいいです。同い年でしょ」
「………じゃあ僕もエリオットでいいです」
二人は新米の警察官である。同じ班に所属して初めての任務がここなのである。
青年の名はエリオット・アーチボルト。女性の方は、アナスタシア・セリンという。二人共同期で、21歳である。
地下牢へ降りて、まず二人は思わず鼻を覆った。異様な臭いがする。………死臭だ。
「………な、何ですかこれ」
「オルグレン班長の言った通りですね」
鼻を片手で覆いながらも、アナスタシアは写真を手に、確認する。
「………幹部の三人ですね。間違いなく」
「早く班長に知らせに行きましょう」
「その必要はねェよ」
「!」
「俺ならここにおる」
死臭の中に煙草臭さが混じった。二人が振り向くと、そこには中年の男がいた。長い黒髪を後ろで低めに束ねている。服は二人とは違う裾の長い制服で、その腰には黒い鞘の刀が提がっていた。
「………なんや、えらいよぉさん殺られとんや………」
彼は気怠そうな目をして、その様子を眺めた。
「………班長、上はもう宜しいのですか?」
「ロイ・アルジオ、死因は脳挫傷。………詳しい事はまぁ後々やな」
ダミヤ・オルグレン。エリオットとアナスタシアの上司である。その口調や提げている刀から、変わり者扱いされてはいるが、実力は確かであるし、まだ出会って日が浅いものの、二人は彼の事は信頼出来ると感じている。
「んで、こっちはやっぱ幹部三人か」
「そうですね」
アナスタシアが答える。ダミヤは平然と二人の間を通り過ぎ、立ち止まって奥まで見渡した。
「………ジヨン・リー、アルテスタ・フランジール、シルヴェスタ・オルコット。………三人とも頸部を切られた事による失血死……やろなぁ。……凶器は小型ナイフ」
と、手袋をした手でジヨンの近くに落ちていたナイフを拾い上げた。
「…………アルジオのと手口はちゃうな」
「……一体誰がこんな事」
「…悪魔の仕業やろ」
「えっ?」
「あ、悪魔………ですか?そんなものこの世には……」
「何でやねん、ただの人間や。……なんや知らんのか」
「………えっと………」
「……知りません」
二人が首を傾げると、ダミヤはため息を吐く。
「この辺り……スラムでよう動いとる殺し屋や。もう名前も顔も割れとる」
「えっ、じゃあ捕まえればいいじゃないですか」
エリオットがそう言うと、ダミヤは首を振る。
「………止めといた方がええと思うけどな。大体、ここもそんな、ええトコや無かったみたいやし………」
ダミヤに釣られて、エリオットとアナスタシアは通路の奥まで続く牢を見渡した。
「……何捕まえてた思う」
「………え?…えーっと」
「………人や。………このスラム街の」
「えっ⁈」
「“エスケープ・チャレンジ”とかいう、巫山戯た見世物してたみたいやな」
と、ダミヤはポケットから折り畳まれたポスターを出し、エリオットに渡した。
「………何ですかこれ、趣味の悪い」
「やと思うやろ。………やし、まぁ、こうなってもしゃあないとは思うけどな…………」
はぁ、とダミヤは後頭部を掻き、また一つため息を吐く。
「そもそもこんなトコ、法もあって無いようなものやし、放っといてもどうも無いと思うんやけど………そろそろ上も黙ってられへんなったんかな」
「………」
「………」
「非人道的なモンは、殺すんでなくて、捕まえな、って」
そして彼は、二人を見る。
「俺らの他に、正義を語る様な奴がいるのが多分、気に食わんのとちゃうかな」
「……正義、ですか」
「まぁ、悪魔にその気があるんかどうかは知らんけど」
くぁ、と欠伸をしてダミヤはまた二人の間を通り過ぎ、そして振り向く。
「………すまんな二人共、配属されて早々にこんなトコ飛ばされて。俺がはみ出しモンなせいや」
なっはっは、と笑うダミヤに、二人は顔を見合わせる。彼が笑うのを初めて見たのだ。
「………え、ええと、別に……」
「嫌やったら俺から言うたるわ、他んトコ入れてやって下さいーて」
「だっ、大丈夫です‼︎私達ついて行きますから!」
アナスタシアが思わずそう言う。「そ、そうです」と、エリオットも遅れて言う。それを聞いて、ダミヤはにっかりと笑った。
「………えらい頼もしなぁ、んじゃ頼むで、セリンにアーチボルト」
引き上げるで、とダミヤは二人に背中越しに指示した。そして腰の刀の柄に手を掛けて、静かに暗闇を睨んだ。
「……………さてさて、お手柔らかに………やで」
#6 END