第52話 消滅と再誕
「あっ」
ジークリンデの手から、グラスが滑って落ちた。グラスは床に当たって砕けた。
「……やっちゃった」
ため息を吐いて、彼女はしゃがむ。ガラスを拾おうと手を伸ばし、チクリとした痛みを感じて反射的に手を引っ込めた。
「痛っ……」
指先から血が出ていた。うっかり欠片で刺したらしい。
「……ついてないなぁ……もう」
ここの所体調が悪い。そのせいだろうか、とジークリンデは思う。
ふと、グラナートの事を思った。……今頃何をしているのだろう。もう一週間もしないうちにクリスマスだ。その日が待ち遠しい。彼に言いたい事がある。きっと、彼も喜んでくれるだろうと。
もう手を切らないように気を付けて欠片を拾い集めるうちに、何かざわっとしたものが胸を過ぎった。思わず手が止まる。
「…………熱でもあるのかしら」
額に手を当て、ジークリンデはため息を吐いた。キッチンの窓から空を見上げる。雲行きが怪しくなってきた。雪か、雨でも降りそうだ。
「……洗濯物」
あっ、と思い出してジークリンデは立ち上がる。欠片の片付けはまだ途中だが、洗濯物の回収の方が先だ。雨が降り出しては敵わない。
ジークリンデはベランダへと向かう。
それはただの日常の一片。そう、ただの一片だった。
そこにはピリリとした緊張が張り詰めていた。高い所にいるグラナート、否、ウィリアムはアクバールを見下ろす。アクバールはいつもの様に笑みを湛えていた。
「酷い姿だね。ワタシが指示した以外にも殺したのかい?」
「知らないよ」
「おやおや、懐かしい反応だ」
「君は何しに来たんだ、僕を止めに来たのか?」
「まぁ、ルチアーノに呼ばれたからかね」
「…………ハァ」
「何、一大事だろう」
アクバールはニコニコと笑う。それに対して、ウィリアムは苦虫を噛み潰した様な顔になる。
「……嫌な事を思い出した。思い出すのは初めてではないけれど、こんなに嫌な気持ちになったのは初めてだよ」
「ふふ、何しろここはあの場所だからねえ」
「あぁそうだよ」
「偶然というものだね。実に懐かしい」
「懐かしいもんか」
二人にしか分からない会話。ルチアーノもラファエルもリアンも、何の事か分からない。
「……ローエンはどうした」
「おや、彼の事が気になるのかい?」
「記憶を失くした訳じゃないんだよ」
「君ならそんな事は気にしないと思っていたんだが」
「……特に深い意味は無いよ。知らないならいい」
ウィリアムは鉄材の上から降りた。血の匂いを纏って、アクバールへと歩み寄って行く。
「…………あぁ、君の姿を見ていると心底胸糞が悪い」
「おやおや、ワタシを先に殺すかね?」
「出来る事ならそうしたいね」
と、アクバールの前にルチアーノが立ちはだかった。ウィリアムは立ち止まる。
「……させる訳無いって顔」
「ったりめェだろ……」
「君には僕を殺す動機がある。……けど、アクバールを庇う理由は?」
「俺達のボスだからだ」
「……ボス」
「そうだ」
「リーダーは君では?」
「…………今は違う」
「あぁ、そう」
ルチアーノの傍らに、ラファエルが立った。グラナートは彼の方はチラと見ただけで、再びルチアーノへ目を向けると、以前の様な笑みを浮かべた。
「一つ聞いていいかな」
「……何だ」
その笑みに、寒気がした。だが、ルチアーノは普通に答えた。
「僕、実はあまり父さんの事を知らないんだ。素性をね。僕が知ってるのはただ優しい、時々ドジな父さんだった。……本当はどんな人だったんだい?」
「……“白の冥王”」
「え?」
「当時裏社会で恐れられてた名だ」
「…………」
「誰もその本名を知らない。知ってたのは俺達だけ。……恐ろしく強い人だった。俺達なんか到底敵わねェくらい……。俺は、俺達は、皆んなあの人の強さに魅入られてついて行った。……恐ろしく強いが、お前が言う様に優しい人だった」
ルチアーノは少し、悲しそうだった。そして、彼は右耳の後ろの蝶々結びを解いた。はらりと、眼帯が外れる。
「!」
隠されていた右目には、瞳がなかった。白目だけだ。いや、そもそも本物ではないのだ。義眼だ。
「……醜いだろ、俺のコレは怪我とかそんなじゃねェンだ。生まれつき。初めっから俺には右目が無かった。……お陰で周りからは気味悪がられてた。誰も友達にゃなっちゃくンねェ。親にも見放されて。……そこへだ。あの人は俺を拾ってくれた」
ルチアーノは眼帯をつけ直す。そして、再び口を開いた。
「分かるか。俺らは皆んな、そうやってあの人に救われたンだ。裏社会じゃ“冥王”だなんて恐れられちゃいたが、俺達にとっては光だった。それをだ、お前は突然俺達から奪った」
ルチアーノの独白。ここまでの事はラファエルも初めて聞いた。それを聞くリアンも、また己のアルヴァーロという人間との思い出を思い返していた。懐かしい、というより今は悔しさが勝っていた。
「……どうしてだ。お前はアルヴァーロさんの実の息子だろ。一番その光を近くで浴びていた人間だろ。それなのに、どうして」
悲痛な心の叫びが、静かな声に乗る。しかし、それはウィリアムには届かない。彼は、可笑しそうに笑うと言い放った。
「…………僕は光なんて知らない」
「!」
「言っただろ、僕は父さんの事なんかほとんどよく知らないんだ。だから、殺したって何も思わなかった。他の家族だってね。もう思い出せやしないんだよ、顔も。笑わせるな、父さんは僕らに本当の姿なんかこれっぽっちも見せなかった」
「お前は……‼︎どうして家族を殺したんだ‼︎」
「ただの興味だよ」
「‼︎」
冷たい言葉に、ルチアーノは言葉を失った。血の気が引いて行く様だった。しかし、それは津波の前の波の引きに似ている。
「身近な人が死ぬってどんなだろうって……アハハ、あぁ、唯一覚えてるよ。僕に刺された時の父さんの顔だけは……鮮明に」
「……‼︎」
「心底驚いてたなぁ、あぁ、あの時僕は何て思ってたんだろう。……落胆かな。案外普通だったなぁって」
「てめェ……!」
「……羨ましいよ。人の為にそんなに怒れるんだ。僕には出来ない。僕は空っぽだ。真っ白なんだ」
そう。その名は白。赤ではない。白の冥王と同じように、白の名を継ぐ白の死神。それは偶然か運命か。
「…………お前が……“白”を語るな‼︎」
押し返す感情の波が、ルチアーノを襲う。銃を構えた。引き金を引く寸前、ルチアーノは感じた。それは死の予感。ウィリアムの目が笑う。刃が閃いた。弾がウィリアムを貫くより早く、刃が己の首を刎ねる。そんな予感がした。
だが、ルチアーノの目の前に突如、黒い影が割って入った。
「…………あ」
時が一瞬、止まる。死の白を、黒が堰き止めた。それは彼が誰よりも愛していた……。
「……ラファエル」
ルチアーノは何かにグンと引っ張られた。思わぬ出来事に体が追いつかず、すっ転んだ。すぐに起き上がり、見れば二つの刃がラファエルの腹と、そして胸を刺し貫いていた。血を吐いたラファエルは、ゆっくりとルチアーノを見た。
「…………ルチアーノ……さ…」
「……ラファエル‼︎」
ウィリアムが刃を引き抜き、退がった。ラファエルががくりと倒れる。リアンは衝撃のあまり声が出ない。いつの間にか、アクバールは離れて遠巻きにそれをただ無表情で見ていた。
ルチアーノは思わずラファエルへと駆け寄った。上体を抱き上げると、彼は虚ろげな目をしていた。
「ラファエル!」
「……あぁ、無事……ですね……良かった……」
「馬鹿野郎……何やってんだ……」
血が流れ、ラファエルの体が軽くなり、冷たくなって行くのをルチアーノは感じていた。じんと、頭が痺れている様だった。
「……今まで……ありがとうございました…………」
息も絶え絶えに、ラファエルは言葉を紡ぐ。そして、彼は今まで一度も見せた事のなかった、柔らかな笑みを浮かべた。
「ルチアーノ……さんは……僕の光でしたよ……」
「……っ!」
「僕は……あなたについて行けて……本当に……よかっ…」
スゥ、とラファエルの目から生気が抜けた。ルチアーノはまだ、その現実を受け入れられずにいた。どこか夢の中にいる様だった。そして、自責の念が胸を締め付ける。
「……どいつもこいつも、人の為に命をかける」
「!」
不意に、ウィリアムの声がルチアーノの意識を現実に戻した。すぐそこに、冷たい目の死神が立っている。
「馬鹿みたいじゃないか」
「…………お前は……許さない……」
「それは昔からだろう」
そしてウィリアムは、離れたところの廃材に寄りかかるアクバールへと目を向けた。
「君も冷たいものだね。いつもの偽善者ぶりはどこへ行ったんだい」
「偽善者とは失敬な。これでもきちんとワタシは心を痛めているのだよ」
「……どうだか」
ハッ、とウィリアムは鼻で笑う。人の命を重んじない死神の心にも、アクバールの態度は気に入らなかった。アレは明確な闇だ。隠しもしない、開けっぴろげになっている闇だ。そういう所が、気に入らなかった。
「さて、仕切り直しだルチアーノ。……そんな壊れた盾は捨て置いて、己の身一つで戦え」
「……何だと」
カチンと来た。怒りの篭った目を向けるルチアーノに、ウィリアムは冷ややかな目を向けた。
「君は少し優し過ぎるんじゃないか、殺し屋にしてはね。もっと冷徹になれよ、君は人間臭すぎていけない」
「……お前はアルヴァーロさんとは似ても似つかないな」
「……前は、そっくりだと言ってくれた覚えがあるのだけどね」
「それはお前じゃない」
「…………」
不意に、ウィリアムはクスッと笑った。
「あぁ、そうだとも。……あれは偽の僕さ。ただの被り物だったとも。そこの神父に作られたね」
アハハハと、彼は心の底から笑う。滑稽に思えて仕方がなかった。自分は今まで何をしていたんだ、と。下らない、下らない、下らない…………
「グラン‼︎」
「!」
不意に倉庫の入り口から飛んで来た声が、ウィリアムの笑い声を断ち切った。声の主は入り口の明かりの中に立っている。それは、息を弾ませたローエンだった。
「……やぁ。遅かったじゃないか。もう帰ったのかと」
普通のトーンで声を掛けるウィリアム。しかし、一方でローエンは怒った声で言った。
「お前……ふざけるなよ」
「ふざける?何を」
「お前の名前は、“グラナート・カテドラル”だからな‼︎」
「!」
「……俺は、そいつしか知んねェよ」
ローエンは中へと歩いて来る。途中にいるアクバールやリアン、ルチアーノ達には目もくれず、真っ直ぐにウィリアム……いや、彼にとってはグラナートへ、歩いて行く。
「…………酷い格好だな。思ってた以上だ」
「そんな話をしに来たのかい」
「……嫌な予感はしてたんだよ」
「何がだい」
「グラナート」
ローエンは力強く、言い放った。
「俺はお前の味方はすると言ったが、俺の知らない奴の味方をするとは言ってない」
「僕は僕だよ、ローエン。僕はどうなったって君の味方だって、言っただろう」
「……俺は、言ってない」
「…………僕を裏切るのかい、ローエン」
その声は、寂しそうだった。ローエンは負けず、強い意志の篭った目で言う。
「ちゃんと答えろ。お前は誰だ」
「……僕は僕だよ」
「グラナート」
「違う」
「じゃあ何だ!」
グラナートは、困ったような顔をした。
「……それは僕の本当の名前じゃないと、言ったろう?」
「クリスマスは」
「!」
「クリスマスは、どうするんだよ」
ローエンの言葉に、グラナートはハッとした、その隙を突いて、ローエンは続ける。
「ジークは、お前を待ってる」
「……ジーク」
「ジークが待ってるのは、グラナート、お前なんだよ」
ポロポロと、死神の中で何かが崩れ落ちて行く。あぁ、そんな、馬鹿な。そんなはずは。
「…………“ウィリアム”は、もうとっくにいない」
彼は、フードを下ろした。その目から、もう邪悪な光は消えていた。
「な。グラン」
「……あぁ」
二人は、入り口の方へと目を向けた。姿が増えている。見覚えのない男女が二人。一人は少年らしき姿と、もう一人は女だった。
「でも……僕は自分の過去にケジメをつけなきゃならない」
「分かってる」
「一緒に、戦ってくれるかい?」
グラナートは、ローエンへと手を伸ばす。対してローエンは、その手を取った。
「勿論。当たり前だろ」
二人は相対する。敵意を向ける三人の影に。
「……あぁ、何と。君は本当に生まれ変わった訳か」
その一番奥に、アクバールが立つ。彼は残念そうに、白手袋をした手で顎を撫でた。
「……ありがとうアクバール。僕は君のお陰で変わった」
「君に礼を言われるなんて気持ち悪い。これなら悪態を吐かれている方が余程マシだね」
「君も大概僕に悪態を吐く」
「……君とは良い友人だと思っていたのだが、違った様だ」
「僕は昔から君の事が大嫌いだよ」
にこやかに、グラナートは言う。柔らかな、邪の無い笑みだった。それを見て、ローエンは苦笑する。
「君もそっちにつくのかねローエン」
「ん?あぁ、約束したし」
アクバールに言われ、ローエンはそう答える。
「そうか、残念だ」
アクバールはただそう言って、引き止める事もしなかった。
ルチアーノが立ち上がる。動かなくなったラファエルを抱き上げて、リアンの横に座らせた。
「…………お前はまだ持つな。ラファエルの隣にいろ」
「……あいよ」
リアンはぼうっとした頭で答えた。動けそうにはなかった。自分も死ぬのか、とラファエルを見てそう思った。
「ウィリアムだろうがグラナートだろうがどうだっていい、俺はお前を許さない」
ルチアーノは、グラナートを見据えてそう言った。グラナートは頷く。
「いいよ。僕だって許してもらおうだなんて思ってない」
「決着だ。ここで、終わらせる」
ルチアーノは冷静になっていた。ローエンの乱入により、頭に登っていた血が引いた。カッとなって勝てる様な相手では無い。それは、あの瞬間に分かった。
「テオドラとハルは退がってろ」
「えー、僕もやりたいなぁ」
「…………」
後ろの男女はそれぞれの反応を見せる。
「……ハル?」
その名に、ローエンは反応した。どこかで聞いた……そうだ、警察のスパイ。
「君一人で二人相手するつもりかい」
グラナートがルチアーノに言う。言われて、ルチアーノは「あっ」となった。
「もー、ルチアーノは気負い過ぎなんだよ」
と、ハルがぴょんと前に出て来る。
「という事でお兄ちゃん、僕の相手してね」
「……そいつお前より歳下だぞ」
「あれっ、そっか」
「歳上⁈」
ローエンが驚いて言うと、ハルは頷く。
「これでも28歳だよ。大きくなれなかったのはたまたま」
「お前……警察にいた奴だよな」
「ん?…………あぁ、そっかぁ」
ふふふ、とハルは笑って言う。
「オルグレンさんを唆した悪い子は君かぁ」
「!」
彼は強い、とそう確信した。見た目に惑わされてはいけない。あれは、まさに悪魔だ。
「さぁて、じゃあ遊ぼう‼︎お兄ーさん」
グラナートはルチアーノと、ローエンはハルと、それぞれ相対する。因縁の戦い、その火蓋が、今こそ切って落とされた。
#52 END




