第4話 ディアボロ
夕刻。ローエンは再びファイトクラブの入り口に現れた。開場時刻を過ぎ、昼間とは違って多くの男達が出入りしている。身なりからして、スラムに住んでいる人間ではない。
しばらくその様子を眺めてから、ローエンは足を踏み出した。まずは穏便に。一度楽しんでみるかと、そんな気持ちだった。
昼間は鍵の掛かっていたドアは、開け放たれている。通り抜けてすぐ、広い空間があった。大きな野太い歓声が、絶え間なく耳へ飛び込んでくる。高い指笛の音。多くの観衆の視線は、全て中心の、天井までフェンスで囲まれたリングに向けられていた。しかしその中の様子は、人垣で見えない。
「………うるせェな」
耳に小指を突っ込みながら、ローエンはそう呟いた。そのまま人混みの中を進んで、中の様子が見える所まで行く。
白いライトに照らされたリングが、暗闇の中に浮き上がっている。観衆の顔はそのライトにほのかに照らされているばかりで、後ろの方にいる客の顔は、よくよく見なければ認識出来ない。
リング上に目を戻した。リングとは言え、このフロア全体の一部のコンクリートの床を、高いフェンスで囲っているだけだ。そこへの入り口は一つ、檻のようになった道が、奥へと続いていた。
今そこには上半身裸の二人の男がいて、一人は血のこびり付いた床に、さらに新しい血を流して伏していた。彼らの手にはグローブなどない。素手での殴り合い。………そこで行われているのは、本気の殺し合いに過ぎなかった。
立っている男もまた、痣や出血が目立つが、拳を天に向けて雄叫びを上げた。それに伴って観衆も沸き上がる。奥の道から、二人男が出て来た。一人はスタッフらしく、倒れている男を引きずっていった。もう死んでる。遠目に見ても、ローエンには分かった。
「アンタ知ってるぜ?“悪魔”だろ」
「!」
不意に声を掛けられて、ローエンは振り向いた。人混みの中に、自分に向かってニヤニヤと笑っている大柄な男を見つけた。
「悪魔のローエン。殺し屋だ。何でこんな所にいる?」
「………思ったより浸透してるんだな」
隠すだけ無駄だと思ったローエンは、素直にそう言った。
「あたぼうよ、ここいらじゃあアンタの事を知らねェ奴なんかいねェよ、特にこの世界ではな」
「そうか」
「冷酷で馬鹿みてェに強くて、たった一人に色んな所が潰されてるんだ。そりゃ有名にもなるさ。あと、すげえ女たらしだってのも。ま、悪魔の中でもさしずめ“インキュバス”ってトコか!」
そう言ってガッハッハと笑う男に、ローエンはフッと笑って言う。
「…………否定はしないが、 少々言葉には気をつけた方がいいぜ、アンタ」
「……!」
ハッとして、男は口を塞ぐが、ローエンは「冗談だ」と笑う。
「俺はこれに出に来たんだ、どうすれば出られるか教えてくれ」
「…………お?そうなのか。そりゃいいな、アンタの闘いが見られるのか」
そう言って男は、リングの向こう側を指差した。リングでは既に、さっきの男の次の試合が始まっていた。
「右奥に回ると、出場者受付がある。そこに行けばいい」
「………分かった、ありがとよ」
ローエンは礼を言って、また人混みを進んだ。相変わらず騒々しい。少し苦手だった。どうせなら、女の歓声が聞きたい。そう胸中で文句を言った。
「よーうこそディアボロ!歓迎するぜ」
「………ローエンでいい」
「おぉ、そうか」
リング裏。控え室。ローエンの目の前に立っているのは、ここのオーナーであるロイ・アルジオ。歳は28だという彼は、金髪にバンダナ、服はTシャツ一枚に腰にパーカーを巻いていた。手には指無し手袋がはめられている。
(………ここで殺せば終わりだが、それじゃあ金が出ねェ)
ローエンはそう思いながら、じっとロイの顔を見た。
「ま、ここじゃあ身分はナシだ。拳が全てだからな」
ロイはそう言って掌と拳を打ち合わせた。
「あんた、相当強いと聞いてるぜ」
「……さぁね。………殺していいなら知らねェが」
「いいぜ?ルールは“武器を使わない事”だけだ。他は何もなし。何でもありだ」
「………ふぅん」
ふと、ローエンは室内を見回した。気付けば、室内にいる五人の男達が皆、自分の方を見ていた。
「…………あいつらも出場者か?」
ロイにそう訊くと、彼は頷いた。
「そうさ。常連の奴もいれば、初めての奴もいる。こいつらだけじゃない、たくさん来る」
「…………そうか」
「………そうだな、折角だし勝ち抜きにするか。その方が面白い」
「…何戦やるんだ?」
「頃合いを見て、幹部のジヨンを出す。そいつに勝ったら…百万ユル出す」
(………金も十分、幹部も一人殺せるチャンスか…)
「あぁそうだ、ジヨンは殺してくれるなよ、そしたら賞金はナシだ」
「…………はぁ」
(………チッ、駄目か)
そりゃそうだよな、と思いつつ、ローエンは口を開く。
「…俺、手加減苦手なんだ、もしかするとうっかりってのもあり得なくもない」
「そこはお前、腕の見せ所さ」
「…………へいへい」
それとも、自分が勝つなどと思ってもいないのだろうか、とそんな事を考えた。
「ボス、試合終わりましたぜ」
と、通用口から無精髭を生やした東洋人らしい顔立ちの男が顔を出した。後ろで無造作に束ねられた黒髪と、左耳の二つのピアス。幹部のジヨン・リーである事は一目で判った。その後ろでは、さっきリング上にいた男が戻って来ていた。
「おう、そうか。………よし、ローエン、上と靴脱げ」
「…………それもルールなのか?」
「そうさ」
「………」
言われてみれば、ここにいる男達は皆上半身裸で、裸足である。
ふん、と一つため息を吐いて、ローエンはワイシャツを脱いだ。程良く引き締まった体。それを見て、ほう、とロイは顎を撫でる。
「思ってたより細いな」
「俺は体自慢じゃねェから、無駄な筋肉はいらねェんだよ」
「…………へぇ、そうかい」
(………第一俺の体は野郎の為の体じゃねェっての)
ローエンはそう心の中で毒づいた。
「よし、じゃあすぐ入れ。………相手は…」
「決まってないんなら、俺がするぜ」
と、そう言ったのは、さっき戻って来た男だった。
「いいのか?疲れてるだろ」
ローエンが言うと、いいやと男は笑う。
「疲れるどころか調子出てんだ、負けねェよ、ぶちのめしてやる」
「…………そりゃどうかな」
ローエンは靴を脱いで、通用口へと歩いて行った。その後ろをその男が付いて来る。
『皆の衆!喜びやがれ‼︎今日はスペシャルなゲストが来てくれたぜぇ‼︎』
リングに近付くと、そんなアナウンスが聞こえて来た。
『このスラムでその名を知らねェ奴は潜りかただの馬鹿さ‼︎世にも恐ろしい悪魔の名を冠するその男‼︎チャレンジャーァ、リタ・ローゥエンンンン‼︎』
出た瞬間に歓声が降りかかって来て、ローエンは顔を顰めた。それと一つ、気になった事があって呟く。
「………何で俺のファーストネーム……」
『対するは‼︎このファイトクラブ屈指の闘士!今まで狩った闘士は数知れず!ブラッドリィィィ・ウィンゲートォォ‼︎』
「ぶっ飛ばしちまえー!」
「ブラッドリー!」
歓声を受けて、ブラッドリーは笑う。
「……ディアボロにそぐわない名前だな、リタちゃん」
「…………勝手に言ってろ」
ローエンはこめかみをヒクつかせてそう言った。名前で弄られるのが一番嫌いだ。だから、親しい者以外にはフルネームを告げていなかったはずなのに。
「…………世間の情報網が恐ろしいね」
『レディー、ファイッ‼︎』
ゴングが鳴った。ブラッドリーが構える一方で、ローエンはごく自然体でいる。
「……どうした?構えろよ」
「…………かかって来いよ」
「あ?」
「俺から行くと殺しちまう」
ローエンが真顔でそう言うと、ブラッドリーのこめかみに青筋が浮かんだ。
「………クソッ………舐めやがって‼︎」
ブラッドリーが地を蹴った。しかしその後、何が起こったのか、ちゃんと視認した者はいない。
気付けばブラッドリーが後ろに吹っ飛んでいて、ローエンの右膝が上がっている。背中から着地したブラッドリーは、ピクピクと全身を痙攣させて、それ以外は動かない。
『………な、何が起こったんだあぁぁっ⁈』
場は一瞬静まり返り、そして徐々に、彼らを新たな興奮が満たして行く。
「う、うおおぉぉ!あのブラッドリーをぶっ飛ばした!」
「すげェ!なんか良く分からなかったけどすげェ!」
瞬く間に喧騒が戻って来た。ローエンは左手をズボンのポケットに入れたまま、右手首を振りながら、足を下ろした。
「………仕事でもねェのに殺すのはやめとくか」
ローエンの殺しの特徴は一撃必殺、必要以上には甚振らず、確実にそこを攻撃すれば死ぬという位置を把握している。故に殺さず、気絶のみで済む位置も力加減も知っている。
今のはただ、殴りかかって来たブラッドリーの右拳を右手で下に払い、下がった顎に膝蹴りを入れただけだ。つまり彼は脳震盪を起こして気絶しただけである。少しすれば目覚めるだろうが、勝負を決するには十分だろう。
担架に乗せられて運ばれて行くブラッドリーを見送る中、実況の興奮した声が場に響く。
『流石だぜぇディアボロ‼︎殺さずとも一撃必殺‼︎さぁ誰だ?次のチャレンジャー!』
「任せとけ、その綺麗な顔めちゃくちゃにしてやるよ」
そう言いながら、次の男が出て来た。ローエンよりも遥かに大きな、がっしりとした男。その手はローエンの頭を握り潰せてしまいそうな程に大きい。
「………こりゃまたデカいのが」
見上げて、ローエンは笑う。しかし引き下がる事はない。
『コイツは見ものだぜ‼︎“デストロイヤー”グレッグ!その拳で幾度も相手を粉砕して来たがっ⁈』
「近くで見るとますます細いな、へし折っちまうぞ!」
グレッグの鋭いパンチがローエンへと襲いかかる。が、その攻撃は空を切る。相手が突然視界から消え、グレッグは戸惑う。そして、ハッとして振り向いたその顔面に、フェンスに張り付いていたローエンの跳び蹴りが入った。
「‼︎」
『おおーっ⁈これはぁっ⁈』
ローエンが着地した直後、ぐらりとグレッグの巨体が倒れた。気絶しているのをチラリと見て確認し、ローエンは一つため息を吐いた。
(…………頑丈そうなのは図体だけかよ)
『またもや一撃いぃー⁈やるな‼︎』
(まだ二つ、この調子で行くか)
ふん、と通路を見ると、次の相手がそこにいた。
『…………20人抜きだぜぇ⁈信じられるか野郎共!疲れた様子も全くねェ!ここまで無傷!無敵か奴は⁈』
「………いつも一人で何人殺ってると思ってるんだよ」
はぁ、とため息を吐いて首を鳴らし、ローエンは視線を天井の方へ向ける。実況の声、コイツも幹部の一人だろうか。ジヨンはさっき見た。声が違う。残るはアルテスタとシルヴェスタだが、写真の顔とこの声の調子を考えると…………。
(………アルテスタか)
屈強そうな、金髪をオールバックにした男。………一方でシルヴェスタは前髪だけ赤い白髪で、無口そうな顔をしていた。幹部なのなら、間違いなくアルテスタだ。
『さぁ〜次のチャレンジャー………お?おっと?これは‼︎』
「!」
実況の変化に、思わず通路の方に視線を向けると。
「…………お待たせ、えーと、リタちゃん?」
通路のフェンスにもたれかかり、ジヨンがニ、と笑って言った。
「………それ俺の十八番のセリフなんだけどな」
ローエンはそう言って苦笑する。
「あ、そうなの?」
ジヨンはスタスタと歩いて来る。体格はローエンとそう変わらない。
「まぁよろしく。手加減はしない………って、する必要も無いっか」
『遂に登場だぜ!我らがキャプテン、ジヨン・リィィィ‼︎』
わぁっと、群衆から一層大きな歓声が湧き上がった。
「………随分な人気だな」
「知ってる?俺ここじゃあ負けた事ないの」
腰に手を当て、ジヨンはそう言う。ローエンは笑い返す。
「あ、そ」
「お前みたいなのは久し振りに見たよ、面白い闘いしてくれるね。…………殺さないのは何で?」
「仕事じゃないから」
「………何それ、美学みたいなもの?」
「そんなんじゃねェよ、てかお話ししに来たのか?」
「……………あ、もう行っていいの?」
にこ、と笑ってジヨンが首を傾げた。直後、僅かな空気の動きを感じて、気付けばローエンは背中をフェンスに打ち付けていた。
「………っ!」
「…………あれ、反応しきれてないのに防いだの?凄いね」
無意識に出た両腕の痛みと、ジヨンの足が出ている事から、蹴りを受けたのがやっと分かった。
「……ここで、一発で決めれたら格好良かったのになぁ」
ジヨンが頭をぽりぽりと掻く。
『流石はキャプテン‼︎あいつに一撃入れたぜ‼︎』
歓声の中に、「ジヨン!ジヨン!」というコールが混ざっている。フェンスにもたれ掛かっていた体を起こし、ローエンは彼に問う。
「………あんた東洋人なの?」
「そうさ、珍しいかい?」
「…………まぁ、初めて見たな」
そう言いつつ、両腕を軽く振った。痛みがおおよそ抜けたところで、右足を半歩下げ、戦闘態勢に入る。
「………おや、今まで構えすらしなかったのに。本気になったの?」
「…………手ェ抜いてる暇無さそうだからな」
「へぇ、嬉しいねぇ」
と、ジヨンは悠々と両腕を広げる。
「今のは挨拶代り。そっちから来なよ」
「………手加減は苦手なんだ」
「そう、俺もだけど」
にこ、と笑ったジヨンに向かって、ローエンは地を蹴った。
『おおっ⁈ディアボロが仕掛けたぞっ⁈』
右、左と続けて出された拳を、ジヨンは首を捻って軽く避ける。さらに上段蹴りをもしゃがんで避けると、彼はローエンの顎に向かって掌底打ちを繰り出した。間一髪、ローエンはそれを躱すと、ジヨンの脇腹に蹴りを叩き込んだ。
「‼︎」
ジヨンの体が吹っ飛んで、地面に墜落した。
「……いってて………。………っ!」
体を起こしたジヨンは、すぐ目の前に拳を構えたローエンが迫っていることに気が付いて、慌てて左に転がった。
「ちょっ…」
間髪入れずに、ローエンは蹴りを繰り出す。右足がジヨンの顎の右側を打つ。彼は仰向けに昏倒した。
『おぉ〜っ⁈ジヨン‼︎頑張りやがれ‼︎』
「………もう終わりかよ」
僅かに息を荒らげたローエンは、一歩彼の元へ踏み出す。
「………………ちったぁ楽しそうに闘いな」
意識を取り戻したジヨンが、仰向けのままそう言った。それに対して、ローエンはくすりと笑った。
「………俺が楽しいのは、女のコとの戯びだけ」
「……………若いって羨ましいねぇ」
よいしょ、とジヨンが体を起こした。
『まだ立ち上がる‼︎立ち上がるぞ!負けるな‼︎』
「……まぁ、こうして応援してくれる人がいるからいいか」
立ち上がったジヨンはふらついていた。脳震盪の影響は軽くはない。普通ならあと数分は気絶したままだ。
「大人しくやられたフリでもしておけば良いのに……」
「若造に情けをかけられるつもりは無いよ?」
今度はジヨンから仕掛けた。ローエンはしっかりとその姿を目で捉えた。余裕を持って、その疾い拳を躱した。避けられるなどと思っていなかったのか、ジヨンが前に体勢を崩した。
「………楽しいか?」
一瞬だけ、辺りの歓声が聞こえなくなって、ジヨンの耳にその一言だけが届いた。ゾクリとした。スローな世界で、ローエンの深い闇色の瞳と目があった。次の瞬間、腹に強い衝撃を受け、ジヨンの意識は闇に落ちた。
『な、なななな、何てこったァァァ⁈ジヨンが敗れたぜ⁈』
うおおおおと、ワンテンポ遅れて周囲が湧いた。しかしその中でローエンはただ、ぐったりとしたまま回収されて行くジヨンを見送り、そしてこんな事を考えていた。
(…………仕事はこれから、か)
#4 END
次回更新は12月14日の予定です。
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