第38話 冷たい沈黙
二日後、昼。ヴェローナとローエンは二人で街に出ていた。良い天気だが、気温は低く、冷たい風が二人の頬を撫でる。ヴェローナはローエンに身を寄せて歩いていた。
「随分寒くなったものね」
「もう冬になるからな」
寒いのは嫌いだ、というローエンにヴェローナは笑って、その腕に体をさらに寄せた。
「あら、私は好きよ。こうやって歩けるもの」
「………そうだな」
大通りは寒さにも関わらず、人が多かった。すれ違う人々は皆厚着で、白く息を吐きながら通り過ぎて行く。
まだ何週間かあるというのに、街はクリスマスの飾りつけが始まっている。建ち並ぶ店に飾られた柊や、店の前のクリスマスツリーも見て、ヴェローナは言う。
「今年のクリスマスは四人かしら」
「そうだな、今年はソニアもいるし」
いつもクリスマスはローエンとヴェローナ、そしてオフェリアでしていた。だが、今年はソニアがいる。
「その日はアクバールが教会でイベントやってるから、それに行ってやってもいいんだけど」
「……あぁ、いつもどうして行かなかったの?」
「お前らと過ごす方が楽しいに決まってんだろ……」
「ま」
ヴェローナはおかしそうに笑う。
「あんたらしいって言えばあんたらしいって言うか。でも友達付き合いは大切にした方がいいわ」
「あいつは友達じゃねェし……」
「あら、そうなの?じゃあ、グラナートさんは?」
「あいつが毎年アクバールの手伝いしつつ、クリスマスのイベントに付き合ってやってたんだよ。けど今年はジークとだろ」
「確かに」
「別にあの神父は放っといても怒りゃしない」
拗ねるけど、とそう言ってローエンはにやりと笑った。意地悪ね、とヴェローナは笑って言った。
と、その時だった。
「チャオ!麗しきお姉さん」
「!」
突然、どこからともなく男が現れ、鮮やかな動きでヴェローナの手を取った。
「え、ちょ……」
男は茶髪で、綺麗な青い瞳をしていた。着ているワイシャツは第三ボタンまで開けられていて、逞しい胸筋が覗いている。年齢はローエンよりも歳上………ルチアーノと同じくらいに見える。真ん中で分けられた前髪の左側を留めている、二本の赤紫のピン留めが印象的だった。
……軽そうな見た目だ。今彼がしているのは紛れもなくナンパだ。しかも、連れがいる前で。
「俺、リアンってんだけど………こんな若造よりおじさんとデートしない?いいとこ連れて行ってあげる」
「…………」
「あ、あの……待って、私は」
「いいじゃん、どうせいつも一緒にいて飽きてんだろー?」
「………」
「ね?」
と、そこで彼は違和感を感じて、チラッとヴェローナの後方に立つローエンの方を見た。
「………ちょい、ちょいちょい、なんで兄ちゃん無反応なの?」
「ん?」
男…リアンに言われて、ローエンはようやく反応を示した。何が、というような顔をしている彼に、リアンはヴェローナの手を引いて言う。
「状況見えてる?分かってる?俺ちゃんこのコ奪っちゃうよ?」
「……で?」
「で、って、普通彼氏ならここでキレるかどうかするでしょうよ!」
呆れた様子で言うリアン。ローエンは首を傾げる。
「あんたは喧嘩しに来たのか?」
「ンんっ、違うっ、そうじゃないけどっ」
もどかしそうなリアン。間に挟まれているヴェローナは訳が分からない様子でいた。
「お前嫉妬する気持ちとかねェの⁈」
「嫉妬は余裕の無い奴がする事だ」
気障に笑うローエン。リアンはヴェローナの手を離し、悔しそうに拳を握りしめる。
「………くぅっ、なんかムカつくぜお前っ……」
「どこの馬の骨とも分からないお前なんかに、俺の女がついて行く訳ねェだろ」
追い討ちの様に言うローエン。リアンは衝撃を受けたように体を震わせると、言った。
「その自信はどこから来るんだよ……」
「まぁ、間違いなく俺の方がお前より上」
「ちょっ、リタったら」
「………お前リタって言うの?可愛い名前だな」
「…………あんたも似たようなもんだろ」
「違うし」
リアンは口を尖らせて答えた。
「……ちぇっ、ちょっとは期待してたんだけどなぁ、ディアボロさんよ」
「………!」
「そんなんじゃ彼女守れね……」
ローエンが動いた。リアンが気付いた時には、彼とヴェローナの間にローエンが入って、リアンの右手を掴んで彼の喉元へと向けていた。その手に握られているのは、ナイフ。
「……そういうのには敏感だぞ、俺」
「………おおっとぉ……」
リアンはローエンに睨まれているのと、自分の持っているナイフが自分の喉に刺さりそうなのに冷や汗を掻く。見えなかった上に、右手は全く動かせない。自分が握っている上から握られているので、離すにも離せない。
「こいつに傷一つでもつけたら許さねェからな…」
「待って待って、俺ちゃんそんな事しないってば、俺も可愛いコの肌に傷痕残しちゃ嫌だもん」
「じゃあ」
「俺はお前と違って絶対女のコに手ェ上げたりしないの」
「!」
ローエンの人柄まで知っている様な言い方。ローエンが訝しんで目を細めると、リアンは言う。
「悪いね。お前の事試したんだ」
「………何?」
「もう何もしないから手離して、痛い痛い」
にへらと緩んだ笑みを浮かべてリアンが言うので、ローエンは気が抜けてその手を離した。ナイフの柄が痛かったのか、リアンはそれを左手で持って、右手をぶらぶらと振る。
「……えーっとね、ちょっと場所変えようか」
「………」
「路地に誘い込んでグサーッとかしないから、そんな目で見んなよぉ」
人通りの多い道。今ここで起こった事を気に留めている者はいないようだ。だが、道のど真ん中で立ち話というのは通行の邪魔というものだ。
ローエンは困った顔でヴェローナを見た。今まで呆けていた彼女は、ハッとして我に帰ると、言う。
「………分かったわ、大丈夫」
「オーケー、度胸のある嬢ちゃんは嫌いじゃない」
にっ、とリアンは笑う。
「ついて来な」
彼は踵を返すと、スタスタと歩き出す。ローエン達は顔を見合わせると、その後について行った。
狭い路地に入った。薄暗く、人の気配もない。
「よし、この辺でいいか」
前方を歩いていたリアンが立ち止まり、振り返る。ローエン達も遅れて立ち止まった。
「改めて………俺はリアン・ローガン。まぁ情報屋をやってる」
「情報屋が………何の用だ」
「実は俺もあの人にご贔屓にされててね。ほら、アクバールさん。お前もあの人に雇われてるだろ………って、おい、何で警戒するんだよ」
彼の言葉の途中で、ヴェローナを自分の後ろに下げたローエン。身構えてはいないが、冷たい目でリアンを見る。
「あいつ絡みの奴は大抵ロクな奴じゃねェ」
「あんたも含めていいのかい?」
「俺だって十分にロクでなしだ」
「はぁーん、大変だねぇ、嬢ちゃんも」
リアンに苦笑交じりに話を振られ、ヴェローナは眉を顰めて答える。
「……あなたの方がよっぽどロクでなしだわ」
「おぅ………まぁ否定はしない」
と、何故かリアンは右手の親指を立ててそう言った。
「ま、そんなワケで……前から話は聞いてたんだけっども、ちょいと会ってみたくなって」
「………前から?」
「お前より遥か昔から、俺はあの人との付き合いがあるって事さ」
ふふん、と笑うリアン。ローエンは何も面白くない。
「んで、だ。もし何か俺が必要な事があれば力になりたいと思ってさ」
「………」
情報屋か。つまりアクバールの情報源はおおよそ彼だろう。ならば、今調べようとしている事も彼に頼むのは危うい。
「……今は、いい」
「あ、そう?アクバールさんを経由するより新鮮なのがたっくさんあるけど?」
「どうせ女の話とかそういう話だろ」
「あんら、何で分かったの」
「俺と同じ臭いがする」
ため息交じりに言ったローエン。リアンは自分の腕を嗅いで首を傾げる。
「俺そんないい匂いするかな?」
「………そういう事じゃねェし」
「冗談だよ。まぁ、何?俺も女のコとの節操のない付き合いがあるように見えるって事?」
ローエンは黙って答えなかった。答えるのは何だか癪に障った。そんな彼に、リアンは苦笑してため息を吐いた。
「ま、それはいいや。とにかく今は俺ちゃんは必要ないって事」
「そういう事だ」
さっさとどっか行ってくれねェかな、と表には出さない様にそう思っていた。
と、リアンはポケットからメモ用紙とペンを出して、サラサラと何かを書いてローエンに手渡した。
「んじゃ、何かあったらココに連絡頂戴な。出来る限りの事はするよ」
ローエンは無言で受け取り、中身も見ずに折り畳んでポケットに入れた。
「………邪魔して悪かったね」
「……じゃあな」
「あ、嬢ちゃん、今度俺とどう?」
リアンがヴェローナにそう言うと、ヴェローナは営業スマイルで答えた。
「お店に来てくれたら、良いわよ」
「おっ、そうか、今度行く行く」
ニコニコと笑って答えるリアン。コイツにヴェローナと関係持たれるのは嫌だな、とそんな事を思いながら、ローエンはヴェローナを連れて踵を返した。
と、不意にトーンの変わった声が背中に届いた。
「……ウィリアムによろしく言っといてくれ」
「!」
背後で、リアンが暗く笑った様な気がした。だが、ローエンが振り向いた時にはもう、そこには誰もいなかった。
「…………“ウィリアム”……?」
…って、誰だ。そんな名前の人間は知らない。
しかし、その疑問に答えてくれる者は、その場には誰もいないのだった。
ヴェローナと別れ。夕方。
ローエンは単身、アクバールの元を訪れていた。
「どうしたんだね、一人で。今日は呼んでいないだろう」
「………呼ばれなきゃ来ちゃダメか」
「いいや?そんな事は無いがね。グラナートやソニアちゃんがいるならともかく、用もないのにたった一人で来るのは珍しいと思ってね」
「用ならある」
「………何だね」
真剣な面持ちのローエンに、アクバールも思わずいつもの笑顔を消した。
「……“ウィリアム”って誰だ」
「………!」
一瞬、アクバールの顔が凍りついたように見えた。その変化を見逃さず、ローエンは問い詰める。
「知ってるんだな」
「……どこでその名を?」
強張った声で、アクバールが訊き返す。
「リアンっていう情報屋に会った。お前が贔屓にしてるっていう」
「………あぁ、彼か」
余計な事を、と小声で呟き、アクバールは元の表情に戻って続けた。
「死んだ男の名だとも。もういない」
「……『よろしく』って言ってたぞ」
「………馬鹿な奴だね、存在しない人間にどうやって伝えろというのか」
呆れた様子で言うアクバール。視線がローエンから逸れる。それを逃すまいと、ローエンは語気を強めて言う。
「俺が、知ってるみたいな言い方だった」
「……」
「でも、俺はそんな名前の奴は知らない」
アクバールの視線が戻って来た。これ以上は踏み込むなと、そう言う目だった。だが、ローエンは引き下がらない。
「誰なんだよ、お前、何を隠してんだ」
「……君には関係のない事だよ、これは、ワタシと彼らの問題だ」
「……………!」
「駒は駒らしく、ただ主に従いたまえ。それが君の役目だ。前にも言っただろう、あまり深く踏み込まない方が身の為だと」
冷たい言い方。いつもとは違う。ローエンの頭の中で警鐘が鳴る。目の前に、黒々とした奈落が口を開けているような気がした。
いつもは笑っている、ただ胡散臭さが漂っているだけの神父の目が、今は突き刺さるような冷徹さを持っていた。自分が本気で掛かれば何ともない様な相手に、気圧されている。一歩、二歩と後退して、回れ右してローエンは逃げ出した。
一人残され、アクバールはため息交じりに呟く。
「………君には関係のない事だが、君はきっと事を知ればワタシから離れるだろうね」
しんとした教会。ステンドグラスは静かに明るく、対する入り口からは西陽が差している。目の前に落ちる茜色。陰の中で、ふっと神父は嗤う。
「君の“隣人”は、ワタシではないから」
数々の因果。彼はそれに巻き込まれてしまっただけだ。ただの街の青年が、偶々この“偽善者”に目をつけられ、偶々“偽善者”に仕立て上げられた。そういう運命だったのだとしても、実に奇妙で、歪である。
世は理不尽で出来ている。理不尽に生まれ、理不尽に巻き込まれ、理不尽に死んでいく。そういう世界に生きている。そういう世界を、この神父は嫌という程知っている。
また、自分がその理不尽さの中心にいる事も、重々に承知していた。だが、“一人”ではない。
「……そうだろう、ウィリアム。初めに足を突っ込んだのはワタシの方だ」
彼は入り口へと歩み寄り、茜色の空を見上げる。『そんな事など知るか』とでも言う様に、空はただ静かに雲を流していた。
#38 END




