第36話 恐怖と好奇心
#36 恐怖と好奇心
「じゃあねー」
「また明日ね!」
「気を付けてな」
リノと別れ、ブンブンと手を振っているソニア。そんな彼女を見て、ローエンは微笑んで息をついた。
「……いい子だな、あの子」
「リノちゃんは、やさしいんだよ」
「そうか」
「今日もね、ソニアのこと守ってくれたの」
「…………!」
何か危ない事でもあったのか、とローエンはドキリとしたが、その心配は次の言葉で別のものに変わった。
「今日ね、ルーシーって人にね、スラムのこときかれちゃった」
「………」
……それはそれで心配していた事だ。ソニアは特にその事にはデリケートであるから。
「…それで、どうした」
「答えなかったの。ライリー君は止めようとしてくれてたけど、ぜんぜん……」
ソニアはしゅん、として俯く。ローエンが何を言おうかと迷っていると、彼女は思い出したようにばっと顔を上げた。
「もしかしたらルーシーたち、スラムに行っちゃうかも」
「………それは………心配だな」
「どうしよう、死んじゃうかも」
今にも泣きそうな顔でソニアはローエンに言う。ローエンはしゃがみ、ソニアの頭に手を置いて笑って言う。
「………お前は優しいな。怒ってもいいんだぞ、別に」
「…二人は悪くないもの。………だって、死んじゃったらやだもん」
「……二人……って、そのルーシーって子と…ライリー?」
「うん。“ふたご”なんだって」
ソニアは涙を拭きながら頷く。本気で心配しているようだ。自分も傷ついただろうに、本当にこの子は。
「ソニア、どうするかはお前が決めろ」
「…?」
「素直に話してやるか、話してやらないのか、それとも危険だとだけ伝えるのか」
「……………うん」
ソニアは頷いた。そして、少し考えている様だった。ローエンはクス、と笑って、立ち上がった。
「さ、早く帰ろう。今日はオムライスだぞ」
「………うん」
「何だ、元気出せ。お前だけ悩んでてもどうにもならないぞ」
「…………うん、分かった」
「よし」
すっかり日は落ちていた。西の空が燃える様な赤に染まっている。二人は長く伸びた影を連れて、家へと再び歩き出した。
翌日。教室に入ったソニアは、早速ルーシーに捕まった。
「ちょっと人のいないところに行きましょ」
「…………」
その隣にライリーはいない。ソニアは黙って頷いて、ルーシーの後をついて行った。
連れて来られたのは一階の階段の裏のスペース。遠くで他の学生達が遊んでいる声が聞こえるくらいで、人の気配は他になかった。
「昨日は聞けなかったから。教えて」
腰に手を当て、ルーシーは言った。その顔に浮かんでいるのは純粋な笑み。ただただ好奇心しか感じられない。ソニアにはやはりそれが恐ろしく感じられた。悪意無き悪意。そのタチの悪さを、ソニアは本能的に感じ取っていたのだろう。
「………知ったらどうするの?」
ソニアはまずそう聞いた。
「知ってそれでおわり。ずっと気になってたの。あのカベの向こうには、何があるんだろうって」
「………」
「でも、できれば見てみたいの。パパもママも『あぶないからダメだ』って言うけど、一体何があぶないの?」
「…………ぜんぶ」
「ぜんぶ?」
「ソニアも怖かったもん。いっぱい。お父さんはどこにもいないし、お母さんも死んじゃった」
「……え?」
ルーシーは、ヴェローナとソニアが義理の親子ということすら知らない。彼女にとって、親とは当然いるものであり、いないはずのないものという認識だったからだ。“孤児”という言葉も、ルーシーは知らない。
「…………どういうこと?だってあんた」
「おとーさんもおかーさんも、本当のお父さんとお母さんじゃないの」
ソニアは自分でも何を言っているのか分からなかった。言葉を発すると共に、心がぎゅっと締め付けられるようだった。
「………本当の…じゃないって」
ルーシーは信じられないというような顔をして、首を横に振る。
「じゃああんた……ひとりぼっちなの?」
「…ひとりじゃないよ。だって、おとーさんとおかーさんがいるもん」
大切な家族だ。大切にして貰っている。だが、実は壁を作っているのはソニアの方だった。心の何処かでは、赤の他人であるという意識は消えていない。
「…さみしくはないの。でも、さみしいの」
「?」
「なんにもないから。カベの向こうには、なにもないよ」
ソニアはそう言った。ルーシーはしばらく黙っていたが、やがてつまらなさそうな顔で言う。
「ふーん……何もないんだ。そう。つまんないの」
「………!」
「あたしね、もうお家にあきてきちゃったの。だからつれていって。何もないならもんだいないでしょ」
「ちが………!そういうことじゃ」
「いいこと、あたしの“めいれい”はぜったいなの。聞かないとあんた、ひどい目にあうんだからね!」
「………っ」
ソニアは言葉を詰まらせる。その時丁度、チャイムが鳴った。
「あら、もう始まっちゃうわね。行きましょ、先生におこられるのはイヤだもの」
ルーシーはソニアを置いて、さっさと教室へと歩いて行ってしまった。一人になったソニアは、しばらくその場で動けずにいた。どうしよう、という気持ちが頭をぐるぐる回る。だが、しばらくしてハッと我に帰ると、授業に遅れてしまうと思い出し、ソニアは走って教室へ戻って行った。
放課後。ヴェローナは校門でソニアを待っていた。ゾロゾロと出て来る生徒の波。ソニアにもそろそろ友達が出来たようだし、自分の迎えももういらないかな、とそう思いながらその光景を眺めていた。と、ヴェローナはその中にソニアの姿を見つけた。
「ソニアちゃ……」
ヴェローナが手を振ろうと上げた時。彼女はソニアの手を引く存在に気が付いた。リノではない。知らない子だ。そこに男の子もついて行っているようだ。
ソニアはヴェローナの前を通り過ぎて、手を引かれるままに離れて行ってしまう。その横顔が、不安そうである事に彼女は気付いた。
「………ソニアちゃん?」
友達だろうか。三人はあっという間に走り去ってしまった。ヴェローナが呆けていると、不意に声がかかる。
「ソニアちゃんのお母さん!」
「!」
校門から出て来たのはリノだった。酷く慌てた様子でいる。
「ど、どうしたの、何?」
「た、大変なんですっ…!」
急いで走って来たのか、リノは弾んだ息でいた。
「……る、ルーシーがライリーとソニアちゃんを連れて…スラムに行くって!」
それを聞いたヴェローナは、血の気が引いた。
「………何ですって?」
「待って……もう走れないよ…」
ライリーがそう言う。既にスラム地区と市街の境の壁の近くまで来ている。
「なっさけないわねぇ、男でしょお兄ちゃんは!」
「……あぶないからやめようよ……ねぇ」
「何言ってるのよ、せっかくここまで来たのよ!おとなに見つからないように気をつけてまで来たのに!」
ルーシーが怒った様子でそう言うので、ライリーは黙ってしまう。
ソニアはオロオロとしながらもライリーと同じく逆らえずにいた。自分も怖い。だがそれ以上に、ルーシーとライリーが危険な目に遭うことが心配だった。
「さぁ行くわよ!」
壁の間には何もない。ただ通り抜ける道を抜ければ終わりである。昔は多少規制されていたが、今はそれもない。
ソニアにとっては見慣れた風景に出た。市街地と似たつくりの街並み。それはかつて、今のスラムこそが市街であったという事を示していた。寂れてはいるが、まだ市街に近い分、人の気配はある。
「………ふーん、何だか思ってたのとちがうみたい」
「……!」
「もういいだろ、帰ろうよ……」
ライリーがそう言ってルーシーの腕を引く。だが、彼女はそれを振り払うと言った。
「何言ってるのよ!このまま行くに決まってるでしょ!」
「………えぇ…」
「さぁ行くわよソニア!こんな弱虫ほっといたってかまわないわ」
「ま、待ってよルーシー!一人にしないで!」
ずかずかと歩いて行くルーシー。それに引っ張られるソニアと、慌ててついて行くライリー。ルーシーは何も感じていないようだが、ソニアは自分達に向けられた多くの視線を感じていた。
彼女達は学園の制服を着たままで、裕福な家庭の人間である事は明らかだ。そんな少年少女が、狙われないはずがない。人質に取って身代金を要求すれば、一攫千金だ。犯罪だという意識を持つ暇もないほど、ここの人間は飢えている。ソニアはそういう事を嫌という程知っている。
そんな事を思う間にも、ルーシーは二人を連れてどんどん進んで行く。このままあの教会へ連れて行こうか、とも考えた。だが、そこまでちゃんと行き着ける保証もない。子供の足では少々距離があるのだ。もう既に学園から歩いて来て疲れてしまっている。
「………これ以上はあぶないよ、帰ろう」
ソニアは恐る恐るそう言った。ルーシーが立ち止まる。そして、きっ、と眉を吊り上げて、ソニアを睨みつけて来た。
「あんたまでそういう事言うの?本当に怖がりなのね!何にもないじゃない」
「だめだよ、もっと向こうの方はあぶないんだよ!」
ソニアは思い切って、ルーシーの腕を引っ張った。
「いや!まだもどらないんだから!」
「おねがいだから帰ろうよ!」
その時だった。大きな影が三人に覆い被さった。その気配に、ソニアは固まる。見上げれば、やつれた様子の男が三人立っていた。
「……な、何よあんたたち」
ルーシーがただならぬものを感じてそう言った。
「………嬢ちゃん達、どこの子だ」
男の一人が言った。低い声。何かを求める様な目で、彼は少女達を見つめていた。
「………どこ………って」
「面倒くせえ、どうせ市街の奴だろ。捕まえよう」
「そうだな、少なからず金は搾り取れるだろ……」
「!」
男の大きな薄汚れた手が、ルーシーに伸びて来た。彼女は恐怖のあまり声も出ない。ライリーも男達に圧倒されて動けない。ルーシーの腕が掴まれた、その時。
「いっ!なっ、何しやがるこのガキ!」
ソニアが男の手に噛み付いた。反射的に男はルーシーを放す。勢いで後ろに転け、はっと我に帰ったルーシーは思わず叫ぶ。
「………ソニア!」
「ちっ、クソガキが!」
「あぅっ!」
ソニアは男に振り払われ、地面を転がった。それを見て、他のうちの一人が言う。
「おいやめろ、殺すなよ」
「……別にいいだろ、殺したって向こうにゃ分かりゃしねぇんだ」
頭に血が上った様子の男は、ソニアにゆっくりと近付く。と、不意に今まで動けずにいたライリーが男の腕に必死にしがみついた。
「やっ、やめてくれ!友達なんだ!」
「うっせぇ!すっこんでろガキ!」
ぶん、と男が腕を振っただけで、ライリーは振り払われて尻餅をつく。男はそんな少年には目もくれず、再びゆっくりとソニアの方を向く。そして、彼が一歩踏み出した時だった。
突然、何かが飛んで来てその男を吹っ飛ばした。
「こ、今度は何なのよぅ…」
「………!」
不安そうにライリーに身を寄せるルーシーに対し、ソニアは顔を輝かせた。黒のコートに身を包んだその姿は、これ以上なく頼もしいものだったからだ。
「無事か、お前ら」
そこにいたのはローエンだった。彼は変装用の伊達眼鏡を外すと、ズボンの後ろポケットに入れた。
「………おとーさん!」
「……えっ」
「………なっ、何だお前っ」
狼狽える男達。彼らにローエンは、暗い笑みを浮かべて言った。
「……うちの娘達に何やってんだ?あ?」
「………おっ、お前っ………“ディアボ…」
「馬鹿っ、逃げるぞ、殺される!」
ローエンの正体に気付いた彼らは、先に吹っ飛ばされて気絶していた男を引きずり、慌てて逃げて行った。
ふう、と息を吐いてローエンは振り向く。
「……怪我は」
衝撃で肋骨が痛んだのか、その表情には少々苦痛が見えた。
「ちょっとすりむいたけど、大丈夫!」
すっかり元気が出たソニアはそう言って笑う。そうか、とローエンは笑って答えた。そして、ルーシーとライリーの前でしゃがむと、言った。
「…………お前らは」
「……あたしはなんともないの。けど、お兄ちゃんが…」
「ぼくも大丈夫だよ、心配しないでルーシー」
ライリーはそう言って強張った笑みを浮かべた。ローエンの表情が、いつの間にか厳しいものに変わっていたからだ。
「そうか。怪我が無いなら良かった。けどな、俺は大人として、お前らを叱らなくちゃならない」
「………ごめんなさい」
ルーシーは素直にそう謝った。
「ソニアのことはおこらないで、あたしがわるいの」
「大体のことはヴェローナから聞いた。リノって子が知らせてくれたんだそうだ。俺が来なけりゃどうなってたか分かるか?」
「………」
ルーシーは恐ろしさに答えられなかった、ライリーも再び恐怖を思い出したらしく、押し黙っていた。
その様子を見て、ローエンはふっ、と笑う。そして立ち上がると言った。
「まぁ、これに懲りたらもうこんな所来るな。君達みたいな良い子の来る所じゃあねェんだよ」
「………ソニアはわるい子?」
「……そういう事じゃねっけども…」
ソニアの指摘にローエンはぎくりとしてそう答えた。そして彼が何か言う前に、ルーシーが言った。
「助けてくれてありがとう、でも、一つおねがいがあるの」
「ん?」
「このこと、パパとママに言わないで。先生にも」
ルーシーは今にも泣きそうな顔をしていた。ローエンはしばらく考えて、立ち上がる。
「分かった。じゃあ今あったことは無しにしよう。君達はスラムに来なかった。俺も助けに来てない。君達は何も見てない。………スラムに行ったらダメだって事だけを知ってる」
にっこりと笑って言うローエン。そのなんとも言えぬ威圧感に、二人はこくこくと頷いた。
「言わないわ、ぜったい」
ルーシーもライリーも、ローエンが思い切り一人の男を蹴りで吹っ飛ばしたのを見ている。しかも、男がその一撃で気絶した事も。
「そうか、良かった」
ローエンの笑みが優しいものに変わった。途端に、ルーシーの顔がくしゃりと歪む。あっ、とローエンが思った時には、既に彼女は泣き出していた。
緊張が解けたのだろう、今まで押さえ込まれていた恐怖が溢れ出した。
ローエンはわんわん泣くルーシーにうんざりした顔を見せ、そして額を抑えた。
「………これだからガキは嫌いなんだって……」
彼女達には嫌われはしなかったが、やはり面倒臭いものは面倒臭いなと、そう思うローエンだった。
#36 END




