第10話 血と愛情と
十日後。朝。グラナートの家の前に、ローエンとソニア、そしてグラナートは立っていた。
「…………世話んなったな」
ローエンが言うと、グラナートは笑う。
「またいつでも来な、君が来ないとますます貧乏になってしまう」
「何か他で働けよ」
「そういう訳にも行かなくてね」
グラナートは肩を竦めると、ソニアへと目を向ける。
「ソニアちゃんもまたおいで」
「うん!」
その元気な反応を見て、ローエンは苦笑する。
「……アクバールの時とは大違いだな」
「そうなのかい?」
グラナートが興味深そうに訊く。
「こいつアクバールの事が苦手なんだ」
「へぇ、そうかい。………彼、別に悪い人じゃないんだよ?少し何考えてるのか分からない時もあるけど」
「お前の方がそう言う意味では怖いけどな」
「はっはっは……そりゃどういう意味だい」
「そういう所だよ」
笑顔のまま訊き返したグラナートにそう答え、ローエンはひらりと手を振る。
「んじゃ」
「…………気をつけて」
「おー」
「まだあまり無理したら駄目だよ!」
「わーかってんよ」
踵を返し、ローエンはソニアを連れて歩き出す。
「……グランと何してたんだ?」
ローエンはソニアにそう訊いた。
「えっとねー……遊んで貰った!」
「そうか」
「あとねー、お勉強もしたよ!」
そう言うソニアの顔は、キラキラと輝いていた。
「文字もね、読めるようになったの!書けるようにもなったの!」
「…………そうか、良かったな」
何だか心がほかほかした。ソニアの顔を見ていると、気持ちが和らいだ。………ただ、ちょっとした不安が過ぎる。
「……なぁ、お前、グランと暮らしたかったか?」
そう訊いてみた。しかし、そんな心配をよそに、ソニアは大きく首を振る。
「ううん!………あのおじさんも好きだけど、おとーさんの方が好き!」
「…………そっか」
(………面と向かって言われると、照れるもんだな)
普段誰かに「好きだ」と言われても、そこまで動揺はしない。嬉しいものは嬉しいものだが、照れる事はないし、自分から言う事にも何の恥ずかしさもない。
…………だが、ソニアに言われると、何か違った。
(……“好き”にも色々あるんだな……)
そういう事に初めて気付いた。………自分が好きだと感じたのは、同年代の女のみだった。恋……とは、少し違うと思っているが、それと近い“好き”だった。
ローエンは父親の顔を覚えていないし、母親に対して好きだと思った事は一度も無い。…………それどころか、嫌いだった。親子の愛情を、ローエンは知らない。知らなかった。………母親が一方的な愛を注いでいた事は置いておいて。
思い出してイライラし掛けたところで、ソニアがローエンの手に自分の手を伸ばして来た。小さな手が、ローエンの大きな手を握る。
「…………手ぇ繋ぐの好きだな、お前」
「うん」
ここはスラム街だ。あまり長居するのも良くない。手を繋いでいる方が安心なのは安心だ。
「さ、帰るぞ」
「はーい」
その様子を、グラナートは遠くから眺めていた。
「………本当、モテモテだねローエンは」
ふう、と彼はため息を吐き、家の中へと入って行った。
その夜。豆電球でほのかに照らされた部屋で、ローエンは寝転んだままそっと本を閉じた。子供用の絵本だ。彼の眼の前では、ソニアが安らかな顔で熟睡している。
(…………やっと寝たか)
ずっと平気そうな顔をしていたが、帰って来るとソニアはどうも、攫われた時の恐怖が蘇るようだった。
夜になるとますます、その恐怖心が膨らんで、寝付くことが出来なかった。仕方がないので、こうして読み聞かせをしていたのだ。
(………読み聞かせとかガラじゃねェけど)
はぁ、とローエンはため息を吐いた。内心恥ずかしさがあったが、その分目的が果たせた事に安堵する。
手にしていた絵本を頭上に立てかけた。体勢を変えようとした所で、ぐい、と何かに引っ張られた。
「?」
見ると、ソニアの手が自分のTシャツを掴んでしまっている。寝ていても、力が抜けていない。
(……仕方ねェな)
シングルベッドだが、ソニアの体は小さいので窮屈ではない。このままで寝てしまう事にした。
暗い中じっと文字を見ていてたので、目が疲れた。何度か瞬きして、目を閉じる。
「……う…ん」
「!」
しかしそれからすぐ、ソニアの呻き声に目を開けた。……悪い夢でも見ているのだろうか、うなされているらしい。
そっ、と、ソニアの頭を撫でた。すると、ふっと僅かにソニアの表情が緩む。その口が、ぼんやりとした寝言を呟く。
「………お母さん……」
(!)
ぎゅ、とソニアが体を丸める。ローエンの胸にソニアの額が触れた。……少し、ローエンの胸がざわついた。
(……そうだよな)
例え現実に虐げられていたとしても、実際愛を向けられるのは、赤の他人の男よりも本当の母親の方がいいに決まっている。………きっと、そういう事をソニアはずっと夢見ていたのだ。
(…………俺はどう足掻いたって、本当の父親にはなってやれない)
何だか切ない気持ちになった。……そしてますます、自分は結婚は出来ない、とそう思ったのだ。自分はどこかで必ず線引きをしてしまう。……自分の実子を持てば、きっと……。
(……ヴェローナにゃ嘘言っちゃったかな)
はぁ、とため息を吐き、ローエンは丸まったソニアの背中へ左手を回し、背中をさすっていた。
翌日。ぱちりとローエンが目を覚ますと、夜とほぼ変わらずソニアが寝ていた。自分がいつの間に寝てしまったのか、分からない。…………手がソニアの背中にあるので、きっとあのまま寝てしまったのだろう。
ローエンが体を起こすと、ソニアがうーんと呻いた。そして薄っすらと目が開く。
「…………おはよ」
ローエンはそう声を掛けた。
「……うにゅ」
ごしごしとソニアが目を擦る。そしてむくりと体を起こした。まだ少しこくりこくりとしている。
「…………眠いならまだ寝てていいんだぞ」
ローエンが苦笑しながら言うと、ソニアは首を振る。
「ん、起きる」
「……偉いな」
ソニアがすとんと床に降りる。ローエンも後に続く。
「今日の朝ごはんはー?」
「んー……何にすっかな。何がいい?」
「おとーさんに任せる!」
「何だよそれ」
卵以外にしよう、とそう思いながらローエンは階段を降りた。
昼頃、家のチャイムが鳴った。それに反応して、ソニアがびくりと震えた。大丈夫だよ、とローエンはソニアにそう言って、玄関に出た。
「………どちら様……って、ヴェローナ」
「はぁい、遊びに来ちゃった」
ドアの前に、普段着のヴェローナが笑顔で立っていた。
「……まだ昼間………」
「失礼ね、噂の娘ちゃんに会いに来たんじゃない」
もう、とヴェローナは頰を膨らませる。
「…………連絡くらい先にくれ、もしかしたらいないかもしれないだろ」
「あら、今日仕事?」
「……そうじゃなくて…………」
あぁ、説明するのも面倒だ、とローエンはため息を吐いて、とりあえずヴェローナを家の中へと招き入れた。
「…………誰?」
リビングで、机の陰からソニアが顔をのぞかせていた。
「あら、可愛いじゃない」
「………ソニア、ヴェローナだ」
「……べろーな?」
「ソニアちゃんっていうの?」
「そう」
ローエンはヴェローナに頷き、そしてソニアに「怖くないぞ」と言って、こっちに呼んだ。おずおずと、ソニアは机の陰から出て来る。
「よろしくね、ソニアちゃん」
ヴェローナが笑ってそう言うと、ソニアはローエンと彼女の顔を交互に見た。
「………二人は“こいびと”なの?」
「あら」
「そんなんじゃない。……友達だ」
ローエンはそう否定する。
(……どこで覚えたんだその言葉)
「ふうん」
「はっきり言うじゃないの」
ヴェローナが不満気に腕を組んだ。
「まったく、子供の前じゃ真面目ぶるんだから」
「………俺はいつもこんなモンだろ」
「何言ってるのよ、いつももっと……こう」
「……………今は、やめてくれ」
ローエンは首を振る。ヴェローナがため息を吐く。
「……まぁ、そういうリタも嫌いじゃないわよ」
「…………なんだよそれ」
と、ソニアが首を傾げる。
「………りた?誰?」
その反応を見て、ヴェローナは驚いた顔でローエンを見た。
「呆れた!自分の名前教えてないの⁈」
「フルネームは必要ないだろ」
「何でよ」
「…………名前じゃ呼ばれねェし……」
「え?」
「おとーさん?が?りた?」
ソニアが首を傾げると、ヴェローナは思わず噴き出す。
「おっ、おとーさんっ!あんたそんな風に呼ばれてるの!」
「笑うな!………何がおかしいんだよ」
「あ、あんたの事だから名前で呼ばせてるのかと」
「………言ったって聞かねェから」
「そう」
ヴェローナは笑いを堪え、横目でローエンを見ていた。
「…………おとーさん、ろえ…ろーえんじゃなかった?」
ソニアは混乱しているようだった。ふう、とため息を吐いて、ローエンはしゃがんでソニアに言う。
「……リタ・ローエン。…………ローエンはファミリーネームの方」
「………りたが名前?」
「そーだよ」
また一つ、ローエンは大きなため息を吐いた。これならまだ、「おとーさん」と呼ばれる方がマシだ。
「……リタ、あなたねえ、どうしてそこまで嫌がるのよ」
「……………嫌なんだよ」
「その理由を聞いてるんじゃない」
「女っぽいだろ…」
「別に、カッコいい響きじゃない」
「…………そういう問題じゃねェんだ」
「?」
ヴェローナは首を傾げる。何か隠し事をしているのは明らかだった。…………だが。
「……まぁいいわ。理由を説明するのも嫌なのね」
「…………」
「秘密くらい誰だって、一つや二つあるわよ」
さて、とヴェローナはソニアの方を向くと、目があった。やけにまじまじと見てくるので、彼女は訊き返す。
「なあに?」
「……きれいな人」
「あら、ありがと。ソニアちゃんも可愛いわね」
「ソニア可愛い?」
「そうよ」
ヴェローナが頷くと、ソニアは表情を明るくした。
「おねえさん好き!」
「良かったな気に入られて」
ローエンはヴェローナにそう言って、キッチンへと向かう。
「昼飯まだか」
「えぇ」
「………丁度良かったな、これからしようと思ってたんだ。食ってけ」
「あらぁ、嬉しい」
わざとらしく手を合わせ、喜ぶヴェローナに、ローエンはじとっとした目を向ける。
「…………初めから狙ってたんだろ」
「まぁね」
と、ヴェローナは悪戯っ子のようにウインクして見せた。
「相変わらず料理の腕は一流よね……今度教えて欲しいわ」
食器を片付けるローエンに、ヴェローナは机から言った。
「お前には向いてない」
「もう」
「レシピ通りに作ってもあんな不味く出来るのは相当だぞ」
「さ、砂糖と塩間違えただけじゃない」
「………大問題だぞ」
一度、ローエンの為にヴェローナが料理を作ってくれたのだが、とてつもなく不味かったのだ。それ以来、ローエンはヴェローナに料理を作らせようとしない。
「……リタ、その服オフェリアに貰ってた奴よね」
ヴェローナがローエンの着ているパーカーを見て言う。
「…………そうだけど」
「なかなか似合ってるじゃない」
「そうかな?……まぁ、パーカーはあまり好きな方じゃないけど、着ないとオフェリアちゃんに悪いしね」
そう言って、ローエンは肩を竦める。
「おねえさん、名前の文字これであってる?」
「ん?」
ソニアが得意げにヴェローナの向かい側から紙を見せて来るので、彼女は覗き込んだ。
「……惜しいわね、BじゃなくてV」
そう、名前の先頭の文字を指して言うと、ソニアは難しそうな顔をして首を傾げる。
「………うー……“べ”?」
「“ヴェ”よ」
「……ゔぇ…」
「…………まぁそんな感じよ。……何に使うの?」
疑問に思ってヴェローナがそう訊くと、代わりにローエンが答える。
「そいつ文字覚え始めたところなんだ」
「へぇ、そうなの」
「いろんな人の名前が書けるのが楽しいんだろ」
よいしょ、とローエンはソニアの隣に座った。
「グランに教えて貰ったらしくてな」
「おとーさんも教えてくれたもん!」
ソニアがそう言うと、ヴェローナは笑う。
「ソニアちゃん、リタの事大好きなのね」
「うん!」
ソニアは嬉しそうに笑うと、ローエンに言う。
「りた、ってこう書くの?」
「…………RじゃなくてL」
「……なんか難しい」
「発音的に分かるだろ」
「わかんない!」
「いつか分かるようになる」
ローエンはため息を吐くと、ヴェローナに目を向ける。
「…………なんか言いたげだな」
「……いや、ね、思ったより父親してるなぁって…」
「どこがだよ」
「ほら、リタってば子供が大嫌いだったじゃない、だからもっと、冷たくしてるんじゃないかって心配してたのよ」
「………最初は放り出すつもりだったけどな」
「ちょっと」
「今はそんな事考えてない」
ローエンは頬杖をついて、そっぽを向く。
「……俺はどう頑張ったって本当の父親にはなってやれないけど…………こいつが今これで満足してるなら、俺もそれでいいんだ」
「………リタ?」
「何だか悪い気はしねェんだ。面倒臭くても、痛くても。…不思議とな」
恥ずかしそうに笑うリタに。しかし、ヴェローナは彼をじとっとした目で見て、言う。
「…………痛くても、って、あなたどこか怪我したのね」
「あ……いや」
勘のいい奴だな、とローエンが思っていると、ヴェローナが、バッと立ち上がる。
「一週間近く連絡つかないと思ってたら!やっぱり!」
「グランに携帯没収されてたんだよ………お前達に会えねェようにする為に……」
「何かあったんじゃないかって心配してたのに!」
「……何かはあったんだけどな」
「馬鹿!」
ヴェローナの剣幕に、ローエンは身を引き、首を縮める。
ローエンは口喧嘩になると弱い。
「もうだいぶ治ったし…………元気だよ、大丈夫」
「そういう事じゃ無いでしょお…………」
今にも泣きそうな顔をしているヴェローナに、ローエンは戸惑う。
「どこ怪我したのよ!」
「……肋骨何本かと頭………でもそんなしょっちゅうするモンでもねェし心配いら……」
「馬鹿ね、一回のが命取りになる事もあるのよ!死ぬのは一度きりなんだから‼︎」
「………………」
確かに今回死にかけたのは事実なので、ローエンは何も言い返せない。場所がもっと悪ければ、アクバールやグラナートの助けは間に合わなかったかもしれない。
「…………泣くなよ、皆んなを遺して死ねる訳無いだろ」
「そんな事言われたって私は騙されないから‼︎」
「………………ヴェローナ……」
手強い奴め、とローエンは心中舌打ちした。大抵の女はこれで落ち着く事が多いのだが。
「……でも許すわよ」
ボソッっと言って、ヴェローナはすとんと椅子に座りなおした。
「………え?」
「どうせ、ソニアちゃんを助ける為だったんでしょ。………あんたそういうとこ全くブレないわね」
「……何?どういう………」
「仮にも女の子が危険に晒されてるのに、放って置けるわけ無いわよね」
「……………お前察し良すぎじゃないか」
「何年の付き合いだと思ってるの」
ふん、とヴェローナはため息を吐き、続ける。
「あなたがもし、その子の事助けに行ってなくて無事だったっていうなら、私があなたを殺してたわよ」
「………怖い事言うなよ」
「これからも!…………ソニアちゃんを不幸にしたら、私が絶対に許さないから」
怖い顔をしてそう言うヴェローナ。………その様子を見て、ローエンはピンと来た。
「……………お前、もしかして嫉妬してるのか」
「!…………してない!」
「してるだろ」
「してないったら!」
慌てるヴェローナに、ローエンは面白そうに笑う。
「可愛いとこあるな、心配しなくてもお前とソニアは別だ」
「わ、分かってるわよ‼︎」
「喧嘩しに来たんじゃねェだろ、折角だからソニアと遊んでやってくれ」
と、ローエンはソニアを指差す。
「………あなたは?」
「寝る」
「どうして」
「病み上がりなモンでね」
また都合のいい時だけそんな事言い訳にして、とヴェローナは心中文句を言ったが、確かにソニアと遊んでみたい気もしていたので、口には出さなかった。
「……そうね。いい?ソニアちゃん」
「うん!」
「んじゃあとよろしく」
さっさとローエンは上に引っ込んで行ってしまった。残された二人は、顔を見合わせる。
「…………さて、何しましょうか」
ヴェローナがそう言うと、ソニアは笑って言った。
「とらんぷ!」
#10 END
読んで頂きありがとうございます。感想などいただければ幸いです。




