第九話
僅かな蝋燭の灯りだけが光源としてある室内。耳に届くのは微かな寝息。規則正しく続くそれが、皐月の眠りが深くなったのだと伝えている。随分と寝入るまでに時間がかかっていたのが晩餐でのことからなのか、それとも自分が同じ部屋にいるからなのか。晩餐前に挙動不審になった皐月を思い出して小さく笑う。
晩餐前にこの部屋にいた時も、その前の森でも皐月はたまに挙動不審になっていた。それがどうしてなのかはよくわかっていないが、頬が赤くなっていたり、青くなっていたりして、大抵の思っていることは伝わった。
そう、皐月は思っていることの大半が顔に出る。美味しいものを口にした時も、楽しいだろう時も、悔しいだろう時も、苦しい時でもなんでもその顔から読み取れた。きっととても素直なのだろう。それは好ましくもあり、そして不安を招くものでもある。どう進めれば彼女が不利にならずに済むか。レオは天井を見上げたままぼんやり思う。
自分の胸ほどまでしかない背に、華奢な肩に細く筋肉とは無縁そうな柔らかな肢体。艶のある黒髪は、小さな体を隠すように背の中ほどで揺れていた。子供のように幼い顔つきながら成人していて、けれどこの界に来たばかりだからかなにも知らなくて稚ささえ感じるほど表情はくるくると変わる。皐月を形作るもの全ては多分とても可愛らしいものなのだと思う。
そう、レオには皐月がとても可愛らしく見えていた。
自分を見つめる潤んだ黒い瞳であるとか、困ると何度も繰り返される瞬きに揺れる睫毛だとか、考え込むと唇を尖らせているところだとか──本当に成人には思えないけれど可愛らしいと思うくらいに。もちろん欲の絡む感情ではない。
稚い、何も知らない子供のような皐月を守らなければいけないと思うのだ。それは一神官としてだけでなく、まして男だからなのでもなく、落ちものがどのようなものか知っているからなのだろうけれど。
だからこそレオは悩んでしまう。できはしないとわかっているが、皐月をこのまま王都に連れて行かない方がいいのではないか、と。
こうして自分たちがラウエンティスに泊まったことによって、旅程がずれ込んでいることはまだ伝わっていないだろう。元々帰りについては猶予があった。ずれた旅程は輿を利用することによって短縮されるのだから、気にかけるべきはそこではない。問題なのは力を得たのだとしても皐月を皐月のまま王都に連れて行って構わないのか、だ。
レオは皐月に隠していることがある。それを確実に遂げるには王都にいる王に皐月が落ちものであると知られることは避けたい。今はまだ。けれど何の対策もせずに行けば知られるまでの期間はとても短くなる。それでは困るのだ。
皐月にはなんとしてもこの界に、この国に残って欲しい。そうでなければきっとこの世界が終わるのではないかとすら思える。レオは知らず長い息を吐いた。
世界の男女比率が緩やかな隔たりを見せるようになったのは古書によれば数百年前。その頃、落ちものの数は多かった。彼らのお陰で女性の比率が上がった時もあった。けれど大抵の落ちものが男性であったからこそ、女性が減った時もあった。落ちものの存在が善し悪しなのだとレオは思っているが今は皐月の存在に縋りたい。
女性の比率が過去最低に減っているこの状況下で、皐月という女性の落ちものが現れてしまったことは国にとっては最高のことだから。
落ちものの産み落とす子は皆落ちものの性別と一致するのだから、女性の比率は僅かなりとも上がる。しかもその子孫が産むのも、比率で言えば落ちものの性別であることが多い。皐月にはなんとしても子を産んで貰いたいとは思う。けれどあの様に素直な彼女が不特定多数の子を孕み、産み落とすことに耐えられるのか。
素直で、そして人の心を汲み取ろうとする皐月が、子が欲しいだけの相手に心を開けるはずはないだろう。きっとその心は壊れてしまう。レオはまた一つ長い息を吐いて、そして起き上がる。
チラリと見た隣のベッドは緩やかに上下している。顔は見えないが、呼吸に合わせたその動きから、皐月はもう十分深い眠りについているのだと知れる。今少しこの場を離れるために動いても、彼女は目覚めないだろう。森を進んだことでの疲れもあるのだ。きっと朝までぐっすりと眠れる。あの森の小屋よりもこのベッドは寝心地がいい。疲れも取れるだろう。
森を辛そうに、けれど簡単に弱音も吐かずに歩き通した。自分よりもずっと小さく、華奢で体力などないだろう皐月が。早くここに着きたいがために行きよりも急いでいた。皐月を気にかけねばならないとわかっていても止まれなかった。レオは自分が焦っているのだと自覚がある。
まだ皐月が落ちものなのだと王には伝えていない。が、自分に諜報の任を受けた精霊がついていないとも限らない。王はもう知っているかもしれないし、まだ知らないかもしれない。皆が得意の風でこちらの情報を漏らさぬように策を張っているけれど、それがどこまで通用するのか。
答えの出ない思いを拭うように、レオは人の気配のする廊下へと足を向ける。そこにある四人分の気配は慣れた皆のもの。今後について話すべきことは山のようにある。まだ王都に、王に知られていないと仮定した策を、知られていた場合の策を考えねばならない。大きな音を立てないよう注意してゆっくりと扉を開けた。
「随分かかりましたね」
その声と共に空気が変わる。風の精霊の強い力。神殿という聖域の一つの中でも負けないような結界が張られたのだろうと肌で感じた。周囲に隠す気はないのだろう。レオは皐月の眠る部屋すら範囲に入れた大きなそれを張るアルバロを見つめ、そしてどこか呆れたような顔のフォルナートを見る。
「疲れていたようだけど、あの晩餐でのことで気が高ぶっていたんだろうね。何度も寝返りを打ってたよ。まあ、それでも今は深く眠っているけれど」
「彼女は幼子のように単純ですからね。私が髪を洗っても、何の危機感も抱いていないようでした。仮にも女性であるのに」
どこか忌々しげに呟くフォルナートは、声とは裏腹に楽しげだ。レオはこんな風に彼が楽しげにすることが、エリオットに関係しないところで起こるとは思っていなかった。いつだってフォルナートはエリオット至上主義なのだと知っていたから。
が、そんなことよりも聞き捨てならない言葉が聞こえて、問うていた。少しばかり声が尖っていたのは気の所為だろうけれど。
「──フォルナート、君サツキの髪を洗ったの? 湯の使い方や力の使い方だけじゃなく、そこまでしたの? 普段はエリオットにしかしてないのに? ……どんな心境の変化があったのさ」
「別にこれと言ってありませんよ。ただ彼女は危機感が薄いようなので、それを煽ろうと思ったのですが……危機感を抱くどころかすっかり寛いでいましたね」
「寛いでいた……そう、なんだ」
女性の入浴を男性が手伝うことが絶対にない、とは言わない。が、それに従事するのは大抵成人前の子供だけ。一番手間のかかる湯を沸かす作業は、精霊の扱いに長けた女性の方が上手く、洗髪などの行為とて自分でできないこともない。だから本来風呂では本当に時々で手を貸すだけの簡単な仕事しかないはずだ。尤も高貴なる女性は頭の先から足の先まで侍従に洗わせるような者もいるらしいが。
そっとエリオットに視線を流しながら、レオは思う。皐月に力の教授をするのは重要だったけれど、風呂の前に部屋でするべきだったかもしれない、と。フォルナートの言葉を耳にして、エリオットはおかしいくらいに頬を染めている。昼間よりもずっと悪化している気がする。気が重い。結婚などできないし、そんな目で見てはいけないと言ったにも関わらず、それはどこかに行っているのではないか。本当にフォルナートなどうしてこんなにもエリオットを夢見がちに育てたのだろうか。レオは肩を落とした。
「まあ、それはいいとして……朝一に出て。明日の夜遅くには王都に着けるような足の速い騎獣を三頭、輿につけてくださると神殿長がおっしゃっていた。これで予定に少し遅れる程度で戻れる」
四人を見回し告げれば平素そのままの表情でジョルジェットが呟く。
「その後は。サツキはどうなる」
ジョルジェットは真面目で堅物で、常に表情が薄い所為で冷酷だと思われることが多い。が本人はそれで表情豊かにしているつもりであるし、慣れれば何を考えているのか読み取ることもできる。それに小動物が好きだという可愛いところもある。そんな彼だからだろう、皐月の行く末が気になるのは。
「そう、だ。サツキは王の元に連れて行くのか?」
「行かねえ、だろ?」
「すぐには行かない。王にはサツキが託宣の落ちものだと告げずに、普通の落ちものとして捉えて頂くつもりだから、それを踏まえた行動をしたい」
「普通の……では彼女の存在は隠す、ということですね。まあ、できなくはないでしょう。それで? 王都に向かった後、彼女を我らの神殿に身を寄せさせるのでしょう? そこでの扱いはどうなさるのです」
エリオットとアルバロ、二人の言葉に予定しているそれを告げればフォルナートが問うてくる。
初めから落ちものが現れた時にどうするかは考えていた。レオの中だけのことではあったが、託宣の存在ではないとすれば王の興味はさして強くならないはず。女神が託宣にしてまで気にかけるからこそ王はそれを欲し、害したいと言う。ただ王自身がレリアを認めたくないというその思いから。ならば皐月をレリアの加護を得た落ちものだと、全属性の加護を得た特別なのだと知らせることは得策でもなんでもない。
落ちものとしての皐月は、王が認めずともこの国にとって何をおいても守らなければならない存在である。それをレオは理解していた。だからこそ偽りでもなんでも口にできる。皐月という落ちものがこの国に存在してくれるのならばなんでもできる。皐月を守るためでもあるそれは、レオにとって大前提となる策だった。
それというのも落ちものは七日、心静かに暮らさせなければいけないと伝わっているから。それは落ちものという存在を知る者皆が、理由など知らぬまま理解していること。今回はそれを絶対に失敗するわけにはいかないのだ、と知っている。真実がどのようなものであるのかも同時に。
「神殿にいても隠れていられるならば知れることはない、とは思うんだ。サツキはこちらの予想以上に加護を得られたからね。だけど理由も話さず隠れていてくれなんて言えないだろう? だから見習い神官とするのがいいんじゃないかと思っているんだけれど……どう思う?」
「見習いか。悪くはないと思うが」
「しかし見習いなど女性にさせるべきではないと思うのだが……。力仕事もある上、早朝から夜遅くまで従事せねばならないだろう? それに他の見習いと集団で動かねばならない……サツキには荷が勝ちすぎている気がするのだが」
「そう、ですね。見習いですと確かに高貴なる方々から隠すことは可能でしょうが、彼女の体が持ちませんよ。森を行くだけで息を切らす程度の体力しかないのですから。それに見習いは簡単に辞めることができないでしょう? 揉めることになりますよ」
エリオットやフォルナートの言葉は確かに懸念事項としてあった。
見習いにするのは簡単だ。年齢問わず身寄りのなり者は優先的になれる。しかも簡単な書類一枚を書けば。性別については公文書偽造を少しばかりすることになるが、彼女を登録することはできるのだが、その後が問題なのだ。
見習いとなれば、簡単に神殿から抜け出せなくなる。登録が誓願をしたと同等の意味を持ってしまうから。皐月の未来が神官となることに決定してしまう。いくら守りたいからと言って、子を産み育てて欲しい皐月を神殿に留め置くのでは本末転倒だ。
「そう、なんだよ。隠すには最適で、でも将来的には最悪。けれど他に皐月がいて違和感のない役はないだろう?」
「いや? そんなこたねえだろ」
顔を付き合わせてレオとフォルナート、エリオットが考え込んでいればアルバロの軽い声がする。壁の一点のみを見つめたままのアルバロだ。
結界を張る時は、必ず己の目に精霊の姿を映さなければいけない。それが定石であり、もっとも強固なものが作れる。他の者ならば口を開くのも難しいほど集中しなければならないそれを、片手間とは言えないが会話しながらできるのはアルバロだけ。基本属性で風のみしか扱えない分、使い手としての技量は王都でも上から数えた方が早い。滅多に使わない所為であまり知られてはいないが。
「なにか策があるということかい?」
「策っつーか、別に見習い侍従にしときゃいんじゃね? 無理に見習い神官にするよか簡単だし、あいつちっこいし、ガキっぽいだろ? 成人の女にも見えねえんだし、ガキだと思わしときゃ後々楽だろ」
「見習い、じじゅう……」
「それらしい服でも着せて、髪も括っておきゃそこらの子供と変わらねえだろ」
「小さいと言ってもあなたとそう変わらぬ背ではないですか。まあ、彼女の身長程度ならば少し育った子供とも見えますし、あのように危機感のないところは年をより幼く見せてくれますから……悪くはない策でしょう」
レオにとっては盲点とも言える意見。
侍従とは、神殿に属する元貴族の子弟が持つことが許された存在。貴族であったが故に身の回りのことを自分の手でする経験がなかった。故にそれを代行する者、という役割で置かれるため侍従は神殿での契約がいらない。主人との間だけが必要で、神殿には何人増えると伝えるだけでいい。侍従にかかる費用は主人持ちであるためにこのような措置で済む。神殿側からすれば、神官にはならないからこそ、いつ増えようが辞めようが気にされることはないということなのだ。
そんな侍従の見習いであれば確かに誰の気を引くこともないだろう。が、見習いは一桁から十代前半までの子供の仕事で、成人しても侍従を続けるならば正式な契約をするもの。だからこそ、レオは皐月を侍従にするという案を思いつけなかった。皐月は成人している、ということが念頭にありすぎて。
けれど性別だけでなく年も偽れば何の問題もない、とアルバロが言う。レオもそれで問題ないとは思う。むしろ良い案であるとすら思う。が、まだ問題全てが解決したわけでもない。最大の難問が残っている。
「見習いは見習いでも侍従、ですか……確かにそうですね。彼女が成人しているからと除外していましたが、確かに侍従であれば主人の裁量で雇い入れることができますからね。多少の偽造は必要ですがごく簡単なことですし、これで構わないのではないですか?」
「──それはいい、んだけど……誰のところに置く? 言い出したアルバロ? ジェットの侍従はもういるから危険だし、できないだろう? そうするとエリオット付きにして、フォルナートの部下にするかい?」
レオが最大の難問だと思うのは、誰が主人となるか、である。
衣食住を見ることになる主人。つまりは仕事以外の時間四六時中近くにいることになる。女性である皐月と。それはとても大きな弊害を持っている。
異性であること自体もそうだが、異性であるが故に恋をしないとも限らない。誓願をして神官となっていても、成人男子としての欲がなくなったわけではない。今は皐月を落ちものとして好ましいと思っているだけの自分たちが、エリオットのように挙動不審にならない保証はない。愛情や恋情を抱かないか、言葉は悪いが欲情しないかはわからない。性的な魅力が皐月にある、とは今のところレオも思えないが、長く共にいればそれがどうなるかわからないことは世の常だ。
なんてことを考えてしまうレオは、女性に慣れてはいるが恋をしたことも愛したこともなければ誰かに欲情したこともない。真っ新だ、とは言わないが。
「レオでいいのじゃないか? 俺は元より、エリオット付きは危険だ。アルバロの資格はないわけではないが簡単でもない。残るはレオだけだろう」
「──僕のところも危険がないわけじゃないんだけど……」
少しばかり事情が他とは異なるジョルジェットはこともなげに言う。が、自分に火の粉がかからないからなのではないか、とレオは疑ってしまう。
もし事情がないのならば多分ジョルジェットの元に皐月を置くのが一番だとレオは思う。なにせジョルジェットは身の回りのことを全てこなせる上に小動物が好きなのだから、皐月は無理をすることなく務められるだろう。が、小動物が好きだからこそ危険もあるかもしれない。
けれどそれは誰のところに置いても同じかもしれない。自分然り、ジョルジェット然り。エリオットは元よりアルバロやフォルナートも皐月を特別と思わない可能性があると同時に、思う可能性もある。むしろ思ってしまう可能性の方が高いのではないか、とすら思うのはここにいる皆が近しい存在に女性が少ないからなのだろう。
つらつらと自分が逃れられないかと考えてみても、正解と言えるものは浮かばない。というよりも自分が長として、任務と認識すればいいのだろう。不安は多大に残るが、エリオットのそばに置くにはまだ危険すぎる。エリオットの身内に対しても、彼の心の問題に対しても。
「わかった。僕が主人としてサツキの面倒を見ることにする。だけどサツキの役目としては僕らの隊の見習い侍従とするよ。昼も夜も僕らの誰かの目が届くところにいてもらわないとだからね」
なんだかものすごく失敗をした気がする。皐月の身を守るためには必要なことで、当たり前にしなければいけないこと。これが正解だと思うのに、どうしてか答えのわからない不安が浮かぶ。レオは小さく息を吐きながら皆を見回した。
こちらを見つめ頷く三人と、どこかからかうような顔をしたアルバロ。隊長の苦労はこんな形でも襲ってくるのだな──と肩を落としながら解散を告げる。
結界が解かれ、各々が部屋に戻るのを見送った後、どうやってこの決定したことを皐月に告げようか、と考えながら部屋に戻る。変わらず皐月は眠っているが、レオにとってはそれは救いにならない。
ああ、本当にどうしよう。元々眠る気は薄かったが、今夜は眠れないだろう。そっと息を吐きながら、せめて体は休めよう、とベッドに横になる。明日からが全ての始まり、気を引き締めなければいけないのだから、余計なことは考えぬようにしよう。皐月の規則的な寝息を聞きながら、レオはそっと目を閉じた。




