序章
始まりの世界はただの闇だった。
那由多の時を経た闇の中、砂粒ほどの光が生まれた。
ほんの微かな光でしかなかったそれは、のちに創世神と呼び敬われる女神レリアとなった。
己が放つ微かな光のみしか存在しない闇の中、レリアは世界を照らす明かりとして、星を生み出し、月を生み出した。
静寂と微かな光だけのある世界。それは今なおある、夜と道義のものだった。
闇に近いその夜を、少しでも明るく──そう願うたび、一つ、二つと星が生まれた。月が生まれた。
幾万の星と、三つの月が生まれ出でた頃、辺りが闇ではなくなったことにレリアはようやく気づいた。そして知った。己が望んだものを、望んだように生み出すことができるのだと。
正しく己が力を理解した女神レリアは、明けることのない夜の中で己以外の存在を生み出すことにした。
それが創生の一日目である。
女神レリアはまず己と同じく、一対の眼に一つの鼻と口とを持ち、一対の手足を持つ、己とは違う存在である男神クルトを生み出した。
世界を育むために必要な己のような柔らかな体ではなく、世界を護り、導くことができる強い体を。
より遠くのものを見渡すことができるように高い背を。
レリアが思い浮かべられる中で、最も勇敢だと思われる姿を彼の者に与えた。
のちに戦いと、向上の神と呼ばれる男神クルトを生み出し、そしてクルトとともに生きるべく女神レリアは世界にも新たなものを生み出した。
微かな光しかなかった闇を払える、眩いほどの光を放てるもの────太陽。
星と月の光だけだった闇だけでなく、太陽が照らす明るい光。
程なくして世界はその二つが交互に上り、沈むことを繰り返す昼と夜とが生まれた。
昼と夜とが生まれた世界で、女神レリアは男神クルトと世界に必要な全てを生み出した。
光と闇だけではなく、豊かな大地に青く清い水を湛えた海と、その色を映した高い空。
大気を、植物を、様々な動物を生み出し、そしてそれらを慈しんだ。
世界はただ変わることなく豊かに、平穏に育まれていった。
女神レリアの愛と、その力を余すところなく与えられ、そして行使することを許された世界。
植物はより大きくなれるように己の意思を表せられるようになり、動物らは神の意思を解することができるようになった。そうしてその二つの存在は、世界の力を行使し、火を灯すことを、水を生むことを、光を、闇を総てを生み出すことができるようになった。これが精霊の始まりであり、幻獣の始まりであり、神力の始まりでもあった。
精霊、幻獣、神力──この三つの存在が確立され、世界はなおいっそう豊かになったその頃、女神レリアは子を産んだ。
産まれたのは人を癒し、世界を癒すことのできる両の手を持つ神。女神レリアと男神クルトの子であり、のちに豊穣の神と呼び敬われる子神ターディの誕生である。
女神レリアは愛し子である子神ターディを慈しみ、夫である男神クルトを愛し、生み出した世界総てを愛した。
光り輝く昼の世も、星の瞬く夜の世も、どちらも愛し、慈しみ、そして育てた。
精霊の力、神力の力、幻獣の力、そして女神の愛とで、世界は飽和してしまうほどの力を得ることができた。そんな豊かな世界に、女神レリアは己と似た姿をした存在を生み出すことにした。
植物や、動物、神々以外も潤わせることができるようになった世界。そこに己と同じく世界を、男神クルトを子神ターディを愛するであろう存在を──そう期待し。
か弱くも、眩い輝きを見せるその存在を、女神レリアは『人』と名付け、男神クルトや子神ターディと同じように愛した。故に女神レリアは世界を彼らに譲り渡し、そして営みを容易く為せるための力を与えた。
世界に溢れた力を行使できる精霊との対話できる清い心を、その力を使い、学ぶことのできる知恵を、人を、緑を、世界を愛し、慈しむことを望み、託した。
それが世界の始まりであり、女神レリアへの信仰の始まりでもあった。
女神の愛を多大に与えられた世界は、大きく三つの国となった。
三国には女神の恩恵を受けた精霊が生まれ、神力が生まれ、そしてそれを扱える者らが生まれた。
神事を司る神官を最も多く有し、女神レリアに愛された地であるレアーレ。
農耕の子神ターディに愛された、広大にして肥沃な大地を持つコルラータ。
神の力を使うことは叶わないが、最も発展を遂げた軍事国家である男神クルトを信奉するファッリ。
三国に生まれ出でたその者らは女神や男神の姿を模した、人と呼ばれる存在となった。人は女神のような悠久なる命を持ってはいなかったが、それでも女神を信奉し、日々を豊かにするために生きていた。そんな彼らを助けるための力に、精霊が、神力がなったのは当然の流れだろう。
そしてまた三国は、三神それぞれを信奉していた。故に争うこともあれば、手を取り合うこともあった。それが女神が、三神が望む世界の形であることを理解していたからだった。
だが、三国がその三神の望むそれを成せない、成さない選択を取る、ただ一つの恩恵があった。
人々は皆、女神の恩恵である『落ちもの』を自国に有するために争うことを厭わなかった。それが、女神の望まないことであると知っていながら────。
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────慈愛の月、プレッツァと豊穣の月アフェットが満ちるその時に、かの地、かの者の元に『女神の落ちもの』が現れる────
その託宣が王都レアーレにもたらされたのは、つい数日前のこと。
『かの地』と目された地へと、王都レアーレを守る神殿親衛隊の優秀なる団員が少数で向かうこととなった。
女神の意を民に、王に告げる任を授かる尊き彼ら。その中で、最も王との距離の近い五人の親衛隊員の彼らが向かったのは、今はもう過去の地となった場所。
王都レアーレから見て丁度真北に位置する、古き伝承の残るラウエンティス旧神殿。かの地は神代、女神レリアがその子神ターディを産み育てたと伝わる地。女神の産屋という二つ名を持つラウエンティスは、幼子ですらその存在を知る尊き地でもある。
女神の託宣を聞き、それを神官に伝える大役を担う世界に唯一無二の神子がいることでも知られる地では新しい年の初めに必ず一つは託宣が下っていた。それもこれまで一つとして外れたことのない託宣が。それ故に時期外れではあるが、旧神殿から此度もたらされたそれにはかなりの信憑性があった。
だが、それを聞き入れる側──王は、その託宣を重要視していなかった。だからこそ、己の息のかかった者に探らせようと画策したのだろう。
神を敬いその威光を尊ぶよりも、自国を潤わすことをに重きを置く。
それは自国の民を思う王としては誠実なことなのだろう。故に王命を拝した彼らはそれに諾々と従った。胸中でどんな思いが巡ろうともそうする他なかった。憂うことは、王の前で行える行為ではなかった。
そうして、国だけを思うの王からの命を拝したのは、四名の神殿親衛隊団員と一名の古文書館員。
彼ら五人は神を尊び、敬う者の代表である神殿にその席を置きながら、女神信奉者とは言えない王との関わりを持っていた。それは神殿内でも異質な存在であり、同時に稀有な存在でもあった。故にこのような事態になれば、必ずと言っていいほど彼らは様々な地に赴かねばならなかった。
例え本心ではその命に従いたくない。そう思っていようとも、せざるえなかったのだ。
神殿と、王家との板挟みに合っている。そう言って過言ない彼らは、王家にも、神殿にも逆らうことなどできない理由がそれぞれにあった。だからこそこうして役目を果たすために行動する。
それが、彼ら自身のこれから先が変わる選択であるなど、少しも理解しないまま。
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鬱蒼とした樹々に覆われた、湖が一つあるきりの森。
以前はこの森も交通の要所ではあったがそれも昔のこと。今はもう使われなくなって久しい。
ひと気もなく、真昼でも日の差さないこの森の中は人よりも獣の数が多い。それ故に森を避け、その先にある神殿に向かう新道ができたのは先々代の王の時代。今はもうこの森を抜ける道は旧道として、ただ人の知識の中に残るのみとなっていた。
だがそれは民の中だけの認識で、神の教えを伝え、そして成す者──神殿に関わる者たちには関係のないことだった。
神殿に関わる者──神殿書記官や、神官親衛隊兵──たちは、この使われていない旧道のみを辿り、神殿へと向かうことを義務付けられている。その理由は明快なもので、この森にだけ住む幻の獣と言われるものらを手にするためだけ。ただその為だけに、己の命を賭けてまで危険の伴うこの道を進まなくてはならない。
だからこそ神官の多くは剣を極め、武術を極めることを定められている。尤も神官は市井の者と違い神力を行使することができるので、そこまで武力を極める者は稀であったが。
そんな神殿付きの親衛隊零番隊隊長にして、神殿の一等書記官をも務める、自他ともに認める有能な男は内心でため息を吐く。彼は疲れていた。託宣の真実を見極めるこの強行軍に。
たった数日前に彼が通ったばかりの道には、枝葉がまた伸びてきていた。この数日の間、誰一人としてこの道を通っていないのだろう。そんな思案しながら道を塞ぐ枝を剣先で切り落とし足を進める。
向かうのは森の中ほどにある、湖の畔。そこには神殿の者だけが使うことのできる──否、神殿の者しか使わない寂れた小屋がある。そこに彼らが向かう目的は夜明かしをするために。
昼日中であっても暗い森は、夜になればほんの数歩先の枝の形すら曖昧になるほどに暗くなる。その所為で目的地までの距離感が掴めなくなるのか、彼が苛立ちかける頃、樹々が拓け空が望めるようになった。
濃紺の夜空を映す、同じく濃紺の湖。広く深いその湖畔に沿うように樹々があるからか、この場だけは空を覆うような枝葉はない。そのお陰か森の中のような閉塞感はなく、降り注ぐ月の光と星の輝きがよく見えた。
星々と共に夜空にあるのは三つの月。明るく、神々しい光を放つそのうちの二つが、ほぼ丸く満ちている。
十年に一度しか起こらない、二つの月が同時に満ちる時。それが此度の女神の託宣にあった日のことであり、先日のことでもあった。今日はもうその片方が完全な丸ではないはずだったが、それでも月の輝きは美しい。過ぎてしまった託宣の日が今日なのではないか、そう思うほどに。
数瞬何かを期待するようにして月を眺めた彼は、その思案に終止を打つように月の位置を確認した。
着かず離れず間隔を開け並ぶ月。東端に位置するアフェットは中天を越え、僅かだが西に傾いている。今のこの時期であれば、夜半を越えた辺りだろう。予定していた時間に辿り着けたことに安堵しながら、彼は背後を振り返った。
枝葉を避けるように、僅かに身を屈め歩くのはこの地までの道程を共に進んだ者たち。
この道を進むことに、そして下された王命に思うところのある彼らの顔は一様に不満げであった。彼とてそれに激しく同意したいが、それでもそう簡単に同意することはできない。自分の身分がそれを許さないことを、誰よりも彼自身が理解していたから。
「今日はここで休んで、明日の朝一番に王都に戻ろう」
問いに声は返らないが、微かに首肯するのを見た。
強行軍であったこの王命。親衛隊兵団と言えど疲れを感じないわけはない。無言を貫く彼らに再度の声かけをしないまま、古びた小屋へと向かう。
数代前の親衛隊兵団隊長が一人で作った、と実しやかに囁かれているのは広さはあるが粗末な丸太小屋。くたびれた感はあるが、倒壊してしまう心配はないほどしっかりとしている。
そんな小屋の調度は粗末なベットが五台と、丸い大きな机が一つと丸椅子が五つあるきりで、それ以外に家具はない。窓にカーテンすらない。休むために必要なものしか置かれていないことが特徴とも言えるが、少なくとも厨はあって然るべきだろうと、彼が思ってしまうのは空腹だからだろうか。己の腹をそっと撫ぜてから、彼は小屋の戸を開いた。
彼ら以外に神殿から送られた者がいないからか、小屋の中は三日前以降使われた形跡はない。だがそのお陰もあってか室内に目立つ汚れはなく、その場で旅装を解き、休むことができそうだった。
「案の定収穫はなし……だったね」
下ろしたばかりの荷を解きながら、ため息混じりにそう零せば即座に声が返る。
「わかっていたことだろう?」
「まあ、確かにそうなんだけどね。だけど、今度こそはって期待はしてしまうだろう?」
「まあな。期待したからこうしてあそこに行ったわけだしな」
端的に、且つ突き放すようなその声は各々が思っていたことだ。
事実彼も、彼らも期待し、そして今度こそはと思ったからこそ、この地に来た。王命が下ったことは確かだが、そうでなかったとしても彼らはきっとこの地に来ていただろう。それほどに、託宣の告げた『女神の落ちもの』はこの地に住まう者にとっては必要なものだ──そう、知っていたから。
『託宣が真実であるかをその目で調べ、もしも真実その者が現れたならばその心根を見極めろ。わが国にそぐわない者であれば──』
そんな理不尽な王の命に従ったのも、彼らだけはこの世界の行き着く先に気づいていたから。だからこそ期待していた。叶わないかもしれないとは思いながらも『落ちもの』が現れてくれるのではないか、と。
互いにそれがわかっていたからか、諦めにも似た空気を醸しながらしばし無言で荷を解いた。
王都レアーレから徒歩で五日、騎獣で二日かかるという地。親衛隊員だからこそそれだけの速さで着ける地へと、彼らは徒歩で三日という強行軍で向かった。その結果、何の収穫も得られなかった。
久しくなかった女神の託宣が外れた、と報告せねばならないことが彼らの手を鈍らせる。王の女神への信仰が薄いことは知っていたが、それがまた加速度的に増すのだろうことが彼らの心に暗雲をもたらす。
疲れを表向きの理由に、これまでよりも時間をかけた荷物解きが終わる頃、ポツリと零れた言葉。
「全く……どうしてこうなっちまったんだかな」
開け放した窓の先にある、二つの丸い月と細くなった月とを見つめながらのその言葉。それがこの王命の結果にだけ向けられたものではないことを、彼も、彼らも知っていた。五人の中で、誰よりも先にその危険性に気づいたのは彼であったから。
存外責任感の強い質である彼を慮ってか、誰もが口を閉ざす中、彼だけが口を開いた。
「仕方ないさ。女神は僕らを愛してくれてはいるけれど、男神クルトのように同性への加護を多く与える──それは初めからわかっていたことだったんだ。逆に今まで気づかなかったことの方がおかしかったくらいだよ」
「確かにな。確かに女神が女を慈しんで、より多くの加護を与えていることはわかっている。わかってた。けどな、それでも同等でなけりゃなんの意味もないだろうが」
「じゃあそれを直接女神に言ってみたらいい。もちろん言えるなら、だがな」
「そうですね、それでもっと女性を増やして欲しい、とでも願ってみたらいいのではないですか? もちろん貴殿にそれが願えるならですが」
言外に無理であろう、と匂わすその言葉。苛立ちながら言い返す彼は責任感が強くもあるが、悲しいほどに短気でもあった。
「……女神に直接会えるのは女だけ、しかも龍と契約できた中のほんの一部だけだろうが! 今更俺は女にはなれんし、なりたいとも思わん! それにこれ以上女が増えて欲しいなど微塵も思わん!」
「知ってるよ、君が女性が苦手なことはね。でも君が気づいた。それがここに僕らがいる理由になるし、王命が下った理由だろう? ……そろそろ休もう。明日の日の出にはここを出なきゃ、予定した日に王都に戻れないからね」
声を荒らげる彼に、ただ事実だけを返しそっとため息を吐く。もうこの話題を続けても実りはない。話を打ち切るためには、各々が感じているだろう疲れを理由にするしかなかった。
「はっ! そんな予定なんざ守る必要ねえだろ。どうせ成さなかったとしか言えねえんだからよ」
「うむ、それに報告はこの行軍よりも過酷なものになりそうなのだから、多少ゆっくりしてもいいのではないか? 鋭気を養うのも我々の務めだろう?」
「そうですね。今回の『託宣』はかなり詳細でしたから、王以外の皆は期待していましたし……確かに報告は過酷な任務になりそうですね。御愁傷様です、隊長」
「他人事だねえ、ホントに。それにしてもさ、どうして空振りすることにあんなに詳細な言葉が出たんだろうね。僕としては『託宣』の不成就よりのそっちの方が気になるよ」
「確かにな。だが俺たちはそんな不成就なものにでも従わなければいけないんだ。ここで何をどう言ったところで、あの時の誓いは覆らないんだから、諦めるしかないだろう。俺たちが『託宣』に振り回されることは」
「託宣に振り回されることは別に構わないんだ。ただ、僕らはこのままではきっと──」
言いかけた言葉を遮るように、小屋の中に変化が起きた。
窓の外の月と、灯した蝋燭以外にこれと言った明かりのなかった室内。
細い炎が揺らめく。
風はなく、ここにいる五人以外の気配はない。同様に獣の気配もない。だが何かがある。何かが起ころうとしている──そう彼らが思ったその時、蝋燭の細い炎があり得ないほどの光を放った。
それはまるで真昼の空に浮かぶ太陽のような眩さ。
驚きから目を閉じた彼らの元に、彼らの望んだ『落ちもの』が落とされた。