林檎がいよいよ僕のことをグーで殴った
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林檎がいよいよ僕のことをグーで殴った。なぜ僕が殴られなければならないのかを説明することもないまま。辞書に載せたいくらい典型的な、それは一方向的な暴力の実例だった。快い状況ではない。かといって反撃に繰り出すほどの度胸もないのが僕だった。せいぜいが、穏やかな物腰を気取って、批判らしき何らかの言葉をもごもごと繰り出してみるだけだ。
「林檎ちゃん、僕のほっぺに蠅でも止まってた?」
そういう僕の軟弱な態度に、林檎はいっそう気分を害したようだった。苛立ちを隠す努力を怠って、林檎はその黒髪を左右に振り、ため息を吐いた。けれどそんな時にも、口を開くのであれば、何を言うのであれ、必ずウィットを添えようとしてしまう、林檎という人間の性は健在だった。
「説明をしても理解をしない、お願いをしても協力を惜しむ、分からず屋のハエがいましたとも。図体がでかいもんで、ビンタは頬にしか当たらなかったけど」
僕の身長は168センチなので、日本人男性としては平均以下である。だがハエとしては、名誉なことに、それなりに大きいほうに属する。人間として生きるよりもハエとして生きたほうが、誇りを持って生きられるかもしれない。なんつって。
「説明なんかされてないよ、僕は。林檎ちゃんがいきなりメルヘンなことを言い出して、僕のおっぱいを揉もうとしたから逆らったら、頬にグーパンを喰らったんです。今のところ、僕は林檎ちゃんを嫌いになってしまいそうだよ」
「言ってみれば認識の祖語だ」と林檎は悩ましく頭を振ってぼやいた。「わたしは自分の家庭の事情に関するいっさいの真実を君に打ち明け、関連して、どうかわたしの家に一緒に来てもらえないかと誠心誠意君にお願いをした。そうすると君は、わたしの真剣なお願いあるいは告白を一笑に付すばかりか、そのジョークは残念ながら出来がよろしくない、と言ってのけたわけだ。わたしがちょっとした実力行使に出てもおかしないくらい、君はわたしの乙女心を踏みにじっている。あとおっぱい揉もうとしたわけじゃない」
「確かに現実認識に、少々ズレがあるみたいだ」と僕は言った。
「最大のズレはね、林檎ちゃん、君のその告白とやらが、ジョークではないものとして受け取られ得るだろうっていう、君のとんでもない予想にあるんだよ」
わかりきったことを説明するのは、こんなにも気が進まないことである。なんで大学生にもなって僕は、同級生に1+1を説明するような気分で、何かを語らなくてはならないんだろう?
「第一の謎は、君が白雪姫だという君の主張に関して。そして第二の謎は、僕が君にとって、白馬の王子様にあたる、という君の主張に関してだ」
僕の呆れたような返答にも林檎はひるまず、浄水器にかけられたみたいにまったく澄んだ目の光をもって、ふざけたことを言ってみせた。
「謎なんてない。わたしは第13代『しらゆきひめ』として、『シンデレラ』や『ねむりひめ』を出し抜き、諸侯の連合国たるメルヒェン王国における覇権を手にするのだ。そのためには『おうじさま』に選ばれた君に、こちらの世界へ来てもらわねば困る。わたしといっしょに……」