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いつもの空と君と僕

作者: JRRT
掲載日:2026/03/21

 いつもの空、いつもの屋上、いつもの自分。今、田村マルが果てしなく愛しいのは、そんな日常だ。夏空の下、ぼんやりとそんなことを思っていると、フェンスをよじ登る女子生徒が目に入った。

「ちょ、なにして…!」

マルは焦ってその子を呼び止めた。しかし構わずその子はフェンスにしがみついている。

「あ、あのさ!どうせ死ぬんならヤラせてよ!」

そう言うとその子は振り返り、

「さいッてい…」

と呟いた。自分は何を言っているんだ…と思った。気が狂っていた。その瞬間、突風がフェンスを揺らし、キシキシと耳障りな音が鳴った。マルはその子の手がフェンスから外れそうになっているのを目にしたため、駆け寄って行って、急いで手を差し出した。

「なんのつもりよ!」

少女は叫んだ。しかしマルは

「掴まれッ!」

と手を引かなかった。少し抵抗したが、少女はやがて差し出す手を掴んでフェンスの内側まで降りてきた。そこでようやく、マルはその子が同じクラスの加藤カエデであることに気がついた。

「君…確か同じクラスの…」

言いかけた時、チャイムが鳴り響いて昼休みの終わりを告げた。

「…!私いくから!」

そう言って彼女は屋上の階段を駆け下りた。彼女とは同じクラスだったがほとんど話したことがなかった。飛び降りる程悩んでいたのかと思うと、マルは胸が痛くなった。


 教室に戻るとカエデはマルのすぐ後ろに座っていて、マルはカエデの印象が薄かった理由がわかった。マルは授業中にいちいち振り向くことなどなかったからだ。放課後になると、教室に残ってだべっている子もいれば、仲間とそそくさと帰る子もいた。マルは課題が間に合わなくて教室に残っていた。ふと加藤カエデという人物が気になり、振り返る。マルはカエデが空を見つめてぼーっとしているのを見て、心臓が締め付けられるのを感じた。話しかけなければいけない気がした。

「君も残るんだね。」

返事はない。話しかけられたこと自体に気づいていない。

「嫌だった?昼休みの…」

そう言うとカエデはビクッと肩を震わせた。なんだこいつはと思われたかもしれない。いや、実際そう思われているだろう。

「な、なによ…」

なんとも言えない空気が流れた。気まずい。しかし話しかけた以上なにか要件を言わなければ。言葉が出てこなかった。

「昼休みのことは忘れて。お互いの為にそうするのが1番よ。」

カエデが言った。マルはカエデと空を交互に見ながらこう聞いた。

「君さあ、なんで死のうとしたの?」

ふたりの会話は矛盾していた。しかしその違和感は、晴れていてどこかよそよそしい空の青さにかき消されていた。カエデはしばらく黙っていたが、やがて話し出した。

「私、人が苦手だから。人のいない世界なら少しはマシかなって思っただけ。」

「なんだそれ。」

拍子抜けだった。そんな理由では、あの場にマルがいてもいなくても、やはり飛び降りることなどできていなかっただろう。

「馬鹿にすんの?あんなこと…言っておいて…」

カエデの耳が赤い。少し彼女には申し訳ないことをしすぎたのかもしれない。マルは謝ろうと思った。

「ごめん。」

「なんで、謝るのよ。」

返されてふと見上げると、カエデは席から立っていて、泣いていた。

「いや、まじでごめん。明日から話しかけないからさ、いやこんなに泣かせるとは…」

居心地悪くてマルは口早にそう告げて足早に教室を出ていった。

「…」

その様子をカエデは黙って見ていた。教室に残った僅かな生徒も帰っていき、やがて教室には加藤カエデただひとりが残った。初めてクラスの人と口を聞いたかもしれない…。カエデはなぜ自分の頬が熱いのか、まだ分からなかった。


 次の日、マルが教室に入るとカエデと目が合った。マルはあまり意識しないように席に座った。すると後ろから

「おはよう」

と聞こえた。

「おはよう?」

「なんで疑問形なのよ。」

何故昨日の出来事があった上で、話しかけて来るのだろうか。マルは困惑していた。

「まったく最近の天気は気が滅入る。」

マルは再び分からなかった。晴れている。昨日も今日も。

「最近は気持ちがいい天気だけど?」

敢えて正直に言った。カエデはそれには応えず、カバンをガサゴソしてからクッキーの入った袋を取り出した。

「これあげる。作りすぎたからエコに協力してよ。」

マルは困惑していたが、結局そのクッキーを受け取り、1枚食べた。甘い。マルは大袈裟に食レポして見せた。

「これはうまい!濃厚なバターの風味と、クッキーの食感のダブルパンチ!更には甘さ抜群のチョコがアクセントとなって独特な旋律を奏でている!まるでヴィヴァルディの《春》だ!」

「…何言ってるのかわかんない。きもい。」

バッサリ言われてマルはえっと声を漏らす。その時チャイムが鳴った。授業が始まると2人は一言も言葉を交わさなかった。


 そして放課後。今日もカエデは空を眺めている。マルはなんとなく振り向いて言った。

「なあ、一緒に帰ろーぜ」

「え?なんで?」

「話しかけられたくて寂しそうにしてんだろ?」

カエデは図星だった。耳が赤くなる。カエデは頬に手を当てて自分を落ち着かせようとする。

「別に、い、いいけど。何も面白いことなんてないと思うよ?」

「いいんだよ。俺も暇人だし。暇人ふたりで仲良くしよーや」

マルは自分が初めて彼女になんて言ったのか、その時ふと思い出して顔を赤らめた。

「ま、まあ話ぐらいは聞いてやるよ…あんなことがあったからな。」

2人は教室を出て外を歩き出した。しかし会話は些細な世間話だった。

「あそこに新しいラーメン屋できたんだけど、食ってる最中店長がずっと睨んでくんだよな」

「それされたら味忘れちゃいそう」

内容はほんとに薄かった。それでもふたりの会話が昨日のように途切れることはなかった。

「私、家ここだから。じゃあね。」

そう言って手を振るカエデをマルは

「じゃあな。またあした。」

と見送った。


 それから2人は学校でもよく話すようになった。話す内容は相変わらず薄かった。

「あの漫画、絵が下手だけどストーリーめっちゃいいんだよな。」

「田村君は絵が上手くてストーリーが適当か、ストーリーが良くて絵が下手かどっちの漫画読みたいの?」

「俺は絵が下手でストーリーいいやつかな。」

どうでもいいような話でしか、お互いを知ることができない。内容のある話、進路先とか、そういうことは敢えて聞こうとはしなかった。そんな関係が、2人には居心地が良かったのだ。カエデと出会ったあの日から丁度1週間になる日、カエデは言った。

「ねえ、ご飯食べようよ。いつも昼ごはん食べてないでしょ?分けてあげるから屋上で食べよ?」

「いいよ。」

マルは頷いた。2人は屋上に上がった。地べたに座り、2人は他愛もない話を続けた。

「この卵焼き、私が作ったんだ。」

「結構うまいな。まるで《バッハのG線上のアリア》のようだ!」

「いちいち大袈裟なのよ!」

その時、突風が吹いてフェンスが軋んだ。その風は2人にあの日を思い出させた。

「…助けてくれてありがとうね。」

カエデが口を開いた。マルは感謝されるとは思っていなかった。

「いやでも俺、テンパって最低なこと言っちゃって…」

「ほんと最悪。でも…」

カエデは耳が熱くなった。気づけば風は落ち着いて、空は果てしなく澄み渡っていた。

「でも嬉しかった。こんな私に話しかけてくれた事はね。だから、ありがとう。」

言われてマルは自分の勘違いに気がついた。彼女は人そのものが苦手な訳ではない。人にやさしくされたことがなかったり、そういう孤独に苦しんでいたのだろう。だからそれを遠ざけようとして人との関わりを拒絶していたのかもしれない。

「あのさ、あの日俺テンパってさ。やりたいなんて言ってダサかった。ごめん。ほんとにごめん…。」

マルは泣いた。情けない自分に。カエデは笑って言った。

「あんたそんな泣き方するんだ、なんだか意外。」

しかしマルは顔をあげないまま泣き続けた。しゃくりあげる声でマルはぽつりぽつりと心の内を語り出した。

「俺さ、あの日病院行ってから学校来たんだ。」

「へーそうだったんだ。だから放課後も残って課題してたんだね」

カエデは納得してそう言った。

「まあな。それもあるけど、本当は帰りたくなかった。俺さ、実は後1ヶ月で死ぬらしいんだよな…」

一瞬、音が止んだ。僅かに聞こえていた教室の喧騒も、カエデには遠い世界のような気がした。

「えっ?」

マルはカエデが固まっても下を向いて涙を零しながら続けた。

「医者に言われた。今生きてることも奇跡なんだって。一日に大量の薬を飲んで副作用に耐える日々が続いてからの余命宣告だった。まともにものを考えられなくなって、なんで馬鹿みたいに今日まで生きてきたんだろって思ってさ…」

カエデはもう、声を出さなかった。その頬には、ひとりでに涙が伝っていた。

「ぼんやりと屋上に行こうと思ったんだ。死のうと思ったとか、そんなんじゃなくて。ただ空を眺めたかったんだよな。」

やっとマルはカエデを見た。カエデが泣いていることに気がついて、小さい声でなんで…とこぼした。カエデはマルの目を見れなかった。泣いてる自分の心を、もうマルには見られた気がしたからだ。

「なんで俺、君にこんなこと言っちゃったんだろ…。」

ははっと無理やり笑ってみるが、顔はくしゃっと歪むだけだった。

「頂戴。」

「え?」

「その1ヶ月、私にちょうだい。」

「何言って…」

「私と最高の1ヶ月を送ろうよ。遊び倒そう。満足いくまで、ずっとずっと一緒にいようよ!いや、一緒に居てほしい…2人は…最高だからさ…」

マルはカエデを見た。その時にはカエデもマルを見ていた。空は晴れ渡り、しかしいつもの見飽きた青さではなかった。涼しげな秋の予感を感じさせる、そんな蒼だった。


 それから数日間、曜日も忘れて2人は遊び倒した。学校は休みがちになったが、ときどき行くようにはした。カラオケに行ったり、遊園地に行ったりもした。また、ある日は海でビーチバレーをして2人とも砂だらけになって笑いあったこともあった。お互いの事をまだ知らない。でもどこか居心地が良くて、互いの存在を肯定しあえるのであった。

そんなある日、朝からカエデはマルの家の前に立ってマルの支度が整うのを待っていた。しかし出てきたのはマルの母親だった。

「あの、マル今日はしんどいみたいだから、またあしたにしてくれないかしら。」

「…そうなんですね。すみません、失礼します。」

そう言って帰ろうとしたカエデを、玄関のさらに奥からマルが呼び止めた。

「待って!なんか元気出てきたから、行ってくるわ母ちゃん。」

そう言ってマルは用意を済ませてカエデに言った。

「カフェいこーぜ!」

「えっと、いいの?」

カエデはマルのお母さんを見て心配そうにした。お母さんは微笑んで、

「まあいいわよ。ちゃんと水分取るのよ?」

そう言ってマルの背中に手を乗せて撫でた。

「母ちゃん、行ってくるわ」

「いってらっしゃい。」

「カエデ、いこ!」

「うん…!」

2人は街に新しくできたカフェに来た。カフェは人が少なすぎず多すぎず、広々としていた。

「いいところだね。」

カエデは満足そうに言った。マルはモカチーノに夢中になりながら応える。

「だろ?今日から毎日にでも来たいぜ!」

マルの言葉に深い意味はなかったが、カエデの表情は強ばってしまった。時にマル本人よりも、マルのお母さんやカエデの方が、戸惑いを覚えるのだ。

「毎日来よーね」

カエデは真顔で言った。カエデは笑顔で言ったつもりだった。カップを握る手が、震えていた。

「…おう!」

マルは明るく返事した。2人は一息つくと、散歩をして外の空気を味わうことに決めた。外はもう秋だった。夏の真ん中に2人は出会い、移ろう季節の中、山は紅葉を迎えていた。公園の木々も、例外ではなかった。

「気持ちいい風だね。秋晴れってやつ?」

カエデは空を見上げてそう言った。

「こういうのが毎日続いたらいいのに…」

誰にも聞こえない声で、カエデは呟いた。そうだ。マルにまだ、伝えられてない。カエデの内に秘めた思いを、今マルに伝えるのだ。

「マル?」

カエデが振り向くと、そこには地面に倒れ込むマルの姿があった。

「ちょっと!マル大丈夫なの!?」

カエデは叫んで駆け寄る。カエデは携帯を取り出して、救急車を呼んだ。

「もしもし、みどり公園で倒れてて、マル…あの…友達が…!」

カエデの目には涙が浮かんでいた。そのあとの記憶はカエデには無い。救急車が到着するまでマルの手を握っていた。何度も何度も、神様にお願いした。カエデの流した涙が、マルの頬に落ちて溶けた。まだ、まだそのときでは無い。なぜならまだ、カエデはマルに…。

「神様…どうか私からマルを引き剥がさないでください…」


 病院。知らない天井だ。いや、よく見れば見覚えがある。家の近くの病院だった。そしてマルは隣に誰かいる気がした。見るとそれはマルのお母さんだった。

「あんた起きたんだね?」

「母ちゃん俺…」

「あんたやっぱ無理したから、熱中症でぶっ倒れたんやって。アホな子やなぁ…」

マルにはお母さんが涙をこらえているのがわかった。

「母ちゃん俺病気で入院したんだろ?余計な嘘つくなよ…」

胸の痛みを覚えていた。

「母ちゃん、俺もうやばいんだろ?」

マルのお母さんはしばらく黙っていた。しかしついに口を開いた。

「ゆっくり寝てなよ」

マルは、そう言ってくれた事に少しほっとした。病室のドアが開く。

「すみませんおばさん、差し入れ持ってきました…っ!」

起きたマルに驚くカエデ。手にはぶどうの入った籠が握られていた。

「カエデちゃん、マル起きたわよ。」

そう言ってマルのお母さんは部屋から出ていった。2人に気を使ったのだろう。

「カエデ、ありがとな、救急車呼んでくれて。助かったよ。命の恩人だ。」

「…大げさね。ぶどう食べたかったらここに置いとくからね。」

ぶどうひと房、病室の机に置いてカエデはマルに向き直った。長閑な表情だった。

「体調は?どっか苦しいとかない?」

「気分爽快だよ。隣に君がいるからかもな…」

言ってからマルはまた変なことを口走ってしまったと顔を赤くした。

「ッ…ばかね。」

カエデは耳を赤くしながら言った。病室には静寂が訪れた。カエデはその静寂を噛み締めながら話し出した。

「あんたと会うまで、私は自分自身が嫌いだった。人と上手く分かり合えないと思ってた。中学で虐められてて、高校になったら友達ができると思ってた。でもそんな過去を引きずったままの私に、友達なんてできなかった…」

マルは天井を見つめながら黙って聞いていた。

「漠然とした孤独感が拭えないまま、1年、2年って時間は進んでさ。私だけが取り残された、そう思った。もう、終わりにしたいと思った。」

マルはぶどうを1粒取って食べた。

「ん、うまい。ショパンの…《Farewell》だね」

とかなんとか呟いた。カエデは呆れて、もう、とため息を漏らした。しかし、そのお陰でいつもの空気になれた。カエデは息をついてから話を続けた。

「マルがあまりにもおかしいこと言うから、私は飛び降りれなくなってさ。でもそれ以降、私は孤独が怖くなくなった。隣にマルが居てくれたからだよ。」

「…恥ずかしいな。」

マルは声がか細く震えていた。涙が頬に垂れた。

「だからさ、ありがとね、マル。」

カエデは涙を流していた。2人は何となく、これが最後になるかもしれないと察していた。

「カエデ」

名前を呼ばれたカエデは涙を服の袖で拭って向き直った。輝く瞳は真っ直ぐに、マルを見ていた。

「なに?」

空は、無限に蒼く広がっている。病室の白と、そのコントラストが美しく2人を演出した。

「好きだ。」

静かな病室にその言葉だけが響く。時計の音、窓の影、静謐…。

「私も、好きだよ。」

カエデは静かにマルの額に手を置き、その手の上から自分の唇を静かに乗せた。その時、開いた窓から落ち葉が入ってきてマルの腹に乗って揺れた。それはマルへの、秋のささやかな贈り物だった。


 「カエデさん、似合ってるわよ」

「ほんとですか、ありがとうございます!」

藤井先輩は優しい。看護学生の時からよく面倒を見てくれていたベテラン看護師だ。しかし結局この病院に戻ってくるとは、なんという縁の巡り合わせだろうか。

「もう研修生でもないから、ビシバシ行くわよ。さあ40秒で支度しな!」

ラピュタのオマージュだ。こういう愉快な言い回しはあの人を思い出す。結局あの人と話せたのはあの日が最後だった。あれから2日後、彼は遠いところに旅立ってしまったのだ。もっと一緒にいて欲しかった。たまには喧嘩とかもしたかった。もっともっと…。数年経った今でも、彼がくれた日々やその温かみは、私の中で燃え続けていた。


エピローグ

 今日は朝から病院だ。正直もう行きたくない。行ったとしても平凡な日常は何も変わらないんだから。そう思っていた。

「結構病気が進行していて、大抵の患者さんだと1ヶ月後には…」

その時、平凡だった日常が崩れた。マルは言い知れぬ深い悲しみが母ちゃんから伝わって来て、何も言えなかった。死ぬのが怖かった。死んだあとどこに行くのだろう。そんなことを考えてしまう。だってもう、すぐそこに終わりが見えているのだから。不安で不安でたまらなかった。学校に行っても上の空で、休んだ授業の復習をやる気にもなれなかった。昼休みになっても、ただぼんやりと教室に座っていた。窓から入ってきた風が、置いてあった教科書のページを素早くめくっていくのを見ていると、夏空に呼ばれた気がした。ぼーっと階段を上がり、屋上に出るとただ晴れ渡った空が広がっていた。マルは思った。この代わり映えのない平凡な世界こそが美しいということに、ある部分では気づいていて、またある部分では目を逸らしていたのかもしれない…と。いつもの空、いつもの屋上、いつもの自分。今、田村マルが果てしなく愛しいのは、そんな日常だ。


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