アザミの花言葉
実際に人を殺すつもりは無くても、殺す以上に人を虐げることを本能的に愛し、今も虐げられている人の有様をほの暗く安全な愉悦の中で観察する習性が、嬰児を含めた全ての人間に備わっている。
ノーマン・ディーバルという男は、一度見たら決して忘れられないことは事実なのだけれど、二度とは見たくないと誰彼からも嫌われる容貌をしていた。
ただ醜いのではない。
反射的に生理的嫌悪を催さずにはいられない、国でも指折りの醜男なのである。
ずんぐりむっくりの小さな体の背中は曲がっていて、長い長い髪は脂と埃に汚れて黒ずんでいて、左足を引きずって歩くその特徴的な足音さえ、聞いているだけで耐えられない程の不愉快さを人に抱かせる。
極めつけは声――豚のような、ヒキガエルの鳴き声の方が愛嬌のあるダミ声で――鼓膜から侵入するムカデのような声だと形容した者もいるくらいだった。
それでもまだ篤志家や慈善好きであるならば、世の中の人間も『人は見かけによらぬもの』と少しは好意的に思ってくれたかも知れないのだが、彼の生業は悪魔の方が慈悲深いと言われる高利貸しであった。
ノーマンが街を歩くと、母親達が走ってきて我先に子供を隠す。
店主達は慌てて看板を下ろす。
大人達は怯えた顔で家の雨戸を閉める。
そして、ノーマンの足音が我が家の戸の前で止まることが決して無いように――それだけを息を殺して神に祈るのだった。
――ドン、ドンドン!
その日。
ノーマンが戸を叩いた家には、大酒飲みの父親と、毎日その父親に殴られる娘だけが暮らしていた。
大酒飲みの父親はノーマンが来たことに気付くなり、怒りとも憎しみとも分からぬ顔をして、怯えている娘をノーマンへと突き飛ばした。
「俺の娘だ、好きにしろよ……!」
「……」
ノーマンは泣きながら震えている娘をじっと見ると、あのダミ声で、
「……付いてこい」
とだけ言って、また歩き出したのだった。
娘は街中の人間の哀れみの眼差しの中、俯いてノーマンの後ろを歩いて行った。
ノーマンの家は、高利貸しとは思えないくらいに粗末で小さな家だった。
玄関から入った娘は、これから何をされるのか想像も出来なくて、ただただ恐怖に泣いていたけれど、その彼女にノーマンは告げた。
「……逃げるなよ」
どうにか頷いたは頷いたものの、娘は逃げたかった。
それが出来なかったら、いっそ自害したかった。
しかしそれっきりノーマンは娘の方を見ようともせずに、自室に引っ込んでしまう。
どうしようもなくて、彼女が玄関の隅で震えている間に、夕暮れを追いかけて夜が来た。
「サー・ディーバル!」
艶やかな声と共に玄関から入ってきた美女に、娘はハッと顔を跳ね上げた。
足音が何もしなかったのだ。
よく見れば、美女の背中には黒い翼が生えている。
悪魔だ!
娘は驚いた。
ただ、こんなにも美しい女性を見たのは初めてだった娘は、驚いた後は見とれていた。
「……来たか、メイカーリア」
ノーマンが自室からのっそりと姿を現した。
「『来たか』じゃありませんわ、サー・ディーバル!貴方はまた人間ごときを助けるおつもりですか!」
メイカーリアという美女はノーマンに詰め寄ると、ハグをして、それから涙をこぼした。
「貴方のその慈しみが報われる日は、此の世に人間のある限り決して来ないのですよ……」
まるで己の娘を励ますようにメイカーリアの肩を優しく叩いて、ノーマンは答えた。
「知っている……。それでも……だ。それが私の、人生なのだ……」
「……分かりましたわ。――そこの娘御、名前は何と言うのです?」
我に返った娘は、美女に問われるがままに、
「は、はい!シッスルです!」
と叫ぶように答えた。
「そう、シッスル……薊の花ね。貴方にはこれから私達の従僕として生きて貰います。その代わりに、人間らしい生活を約束しましょう」
美女はそのまま裏口を開けて、ノーマンを見つめて祈るように呟いた。
「どうか貴方の魂に、永久の安らぎがあらんことを……」
シッスルの目が夜の暗闇に慣れると――裏口のすぐ側には六頭立ての真っ黒な馬が引き、黒ずくめの御者が乗り、何の明かりも付いていない大きな馬車が止められていたのだった。
「……」
二人が乗った途端に馬車は動き始める。
メイカーリアはシッスルを上から下まで見た後で、溜息をついた。
「サー・ディーバルがこの国でどれ程悪し様に言われているかは、私達もよく知っています。貴方もその噂を信じているのでしょう?」
「……違うんですか?」
ええ、とメイカーリアは言ってから、甘い香りのする果実をシッスルに手渡した。
安堵と同時に酷い空腹を感じたシッスルは、思わず、その甘くみずみずしい果物をぺろりと平らげてしまった。
その姿を微笑んで見つめながら、メイカーリアは言う。
「サー・ディーバルは……元々は私達の世界『ヘルヘイム』に迷い込んだ、ただの人間でした。希にあるのです、不運な事故で結界をすり抜けた人間がこちら側に来てしまうことが。
けれど、彼ほど高潔で立派な人間はいなかった。今まで人間に偏見を持っていた私達も、彼の存在で認識をあらためました」
――シッスルは目を見開いて、話に聞き入っていた。
「私達の女王さえも、彼が生きている間は人間を苦しめることは止めようと――そうおっしゃったのです。
今思えば女王はサー・ディーバルに最初で最後の恋をしていたのでしょうね。
それでも彼は故郷が恋しかったらしく、私達の懇願も叶わず……人間の国へと帰っていきました」
メイカーリアはそこで深い溜息をついた。
「それほどまでの思いで故郷に帰ったのに、人間はサー・ディーバルを冷遇しました。
『ヘルヘイム』に滞在していた時、生まれ付いての人間であるにも関わらず――私達の食べ物を食べ、飲み物を飲んでいた彼は、人間の基準では醜い、悍ましいと嫌われる容貌に変わり果てていたのです」
「!」
思わずシッスルは己の手を見たが、既に変化した後であった。
その手を優しく包み込んで、メイカーリアは囁く。
「もう心配は要りませんよ、シッスル。
殴られず、叩かれず、己の名誉と尊厳を毀損されず、優しい心と温かな思いやりを侮辱されず、成すべきことをきちんと務めるならば穏やかに、平和に生きていける。
『ヘルヘイム』の女王が『人間らしい生活』をシッスルにも約束します」
「私は、人間では無くなるのですか……?」
不思議と恐怖や困惑は無かったが、少しの哀愁と未練はシッスルの中に残っていた。
「いいえ、人間の心にある闇を払っただけです。ご覧なさい、あの人間達の心の闇を……」
馬車はいつの間にか夜空の中を飛んでいたらしい。
空から街を見下ろしたシッスルは、ノーマン・ディーバルの小さな家を包囲する松明の大群と、その先頭で喚き散らしている――酒浸りのかつての父親の姿を見た。
「サー・ディーバルは貴方のような不幸な娘達を集めてくるから、私達に己の代わりに幸せにしてやって欲しいと頼みました。戻ろうと思えばいつだって『ヘルヘイム』に戻れるのに……彼は孤独と差別の中、何十年もただ一人耐え忍ぶことを選んだのです。
それこそが人間の真の尊厳だから、と……」
「――」
シッスルは思わずメイカーリアを見つめた。
メイカーリアは激しく泣いていた。
「実際に殺すつもりは無くても、殺す以上に誰かを、何かを虐げることを本能的に愛し、今も虐げられている者の有様をほの暗く安全な愉悦の中で観察する習性を、全ての人間が闇を持ってしまっているのよ。
……ああ、彼だけが……ノーマンだけが……私達の……私の……最後の……善意……いいえ、良心だったわ……!」
数日後、悪魔の国『ヘルヘイム』から放たれた大量の魔物達が世界中を襲った。




