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第9話「真実の声」

あの日の講堂の声が、まだ耳の奥に残っている。


エミールさんの書簡が届いたのは、秋の終わりの朝だった。


相談所の開店準備をしている最中に、ナディアさんが封筒を持ってきた。宰相府の封蝋。宛名は「グランメール東通り相談所 クレール殿」。


前回のエミールさんの書簡と同じ筆跡だった。


「王都からだよ。急ぎっぽい」


ナディアさんはそれだけ言って、通りに戻った。


私は封を切った。


文面は、簡潔だった。


「宰相の指示により、聖女付き侍女長マティルダの身辺調査が行われた。調査の結果、マティルダは聖女エルヴィラの指示のもと、クレール・ベルナール嬢による毒殺未遂の目撃証言を捏造していたことを自白した」


文字を目で追いながら、指先の感覚がなくなっていくのがわかった。


「マティルダは偽証罪により拘束。鉱山送りが確定。聖女エルヴィラは国王陛下および神殿長の合議により聖女の位を剥奪され、幽閉処分となった」


書簡を持つ手が震えた。


読み返した。もう一度、読み返した。


文字は変わらなかった。


冤罪が、晴れた。


断罪の根拠だった証言が嘘だったと、公式に認められた。


私を追放した理由そのものが、消えた。


椅子に座ったまま、動けなかった。


泣くのかと思った。けれど涙は出なかった。代わりに、深く息を吐いた。肺の底に溜まっていた何かが、ゆっくりと抜けていくような感覚だった。


「クレールさん?」


リュックくんの声がした。受付の椅子から立ち上がって、こちらを覗き込んでいる。


「顔色、悪いですけど……何かあったんですか」


「いいえ。いい知らせです」


声が掠れていた。


「いい知らせ、なんです」


書簡をテーブルに置いた。リュックくんに見せるべきか迷った。けれど、隠す理由がなかった。


リュックくんは書簡を読み、目を見開いた。


「これ——冤罪だったって、認められたんですか」


「はい」


「じゃあ、クレールさんは——」


「無実です。最初から」


リュックくんの目が赤くなった。私より先に泣きそうな顔をしていた。


「よかった。よかったです、クレールさん」


「ありがとう、リュックくん」


私は笑った。笑えた。それだけで十分だった。


午後、マルトさんが茶葉を届けに来た時に、書簡の内容を伝えた。


マルトさんは黙って聞き、一つ頷いた。


「そうかい。よかったね」


それだけだった。


それだけで、十分だった。


マルトさんは棚の茶葉を整えながら、背中越しに言った。


「で、王都に戻るのかい」


「いいえ」


即答だった。考える必要がなかった。


「私の居場所は、ここにあります」


マルトさんの手が一瞬止まった。それから、いつもの調子で茶葉の瓶を棚に戻した。


「そうかい。なら、来週の仕入れ、多めに頼んでおくよ」


それが、マルトさんなりの答えだった。


日が暮れた。


リュックくんが帰り、相談所に私とシルヴァンさんだけが残った。


シルヴァンさんは書簡の内容を知っている。午後、リュックくんが興奮気味に話したからだ。あの子は秘密を抱えるのが苦手だ。


シルヴァンさんはあの時、何も言わなかった。ただ頷いただけだった。


今、奥の長椅子に座っている。蝋燭の灯りが横顔を照らしている。


沈黙が続いていた。


いつもの沈黙とは違った。何かを決めようとしている人間の沈黙だった。前世で、相談者が最も重い言葉を口にする直前に見せる、あの間合い。


「シルヴァンさん」


「……ああ」


「何か、話したいことがありますか」


問いかけではなく、確認だった。この人が今夜ここに残っている理由を、私はもう知っていた。


シルヴァンさんは両手を膝の上で組んだ。指先に力が入っていた。


長い沈黙があった。


蝋燭の炎が一度揺れた。


「俺の名前は、ローランだ」


低い声だった。


「ローラン・ヴァルデン。ヴァルデン帝国の、元・第一皇子」


空気が変わった。


相談所の中の温度が、一瞬で下がったように感じた。


「五年前に皇位を弟に譲った。放棄証書に署名がある。撤回はできない。今の俺に皇族の身分はない」


シルヴァンさんは——ローランさんは、私を見ていなかった。自分の手を見ていた。


「母が、暗殺された。犯人を追った。黒幕は帝国元老院の重鎮だった。告発すれば帝国は内戦になる。だから——弟を皇帝にして、俺は消えた」


声は平坦だった。感情を押し殺しているのではなく、何度も自分の中で反芻した言葉を、ようやく外に出しているという響きだった。


「母を守れなかった。正義を貫けなかった。その二つが、俺の中にある」


手の組み方が変わった。指が白くなるほど、握り込んでいた。


「お前に嘘をついていた。名前も、国も、過去も。全部」


ようやく、こちらを見た。


「嘘をつき続けた時点で、俺にはお前の隣にいる資格がない」


その目を、私は知っていた。


前世の相談室で何度も見た目だった。自分を罰することでしか均衡を保てない人間の目。許されたいのではなく、許されないことを確認しようとしている目。


でも、私は今、カウンセラーではない。


「資格があるかどうかは、あなたが決めることじゃありません」


声が出た。震えていなかった。


「私が決めます」


シルヴァンさんの——ローランさんの目が揺れた。


「あなたは嘘をついていた。それは事実です。名前も、出自も、隠していた」


蝋燭の灯りの中で、私はこの人の顔をまっすぐ見た。


「でも、あなたがこの相談所でしたことは嘘じゃなかった。椅子を直してくれたこと。茶を淹れてくれたこと。私が倒れた時に、ここを守ってくれたこと。リュックくんを止めてくれたこと」


一つずつ、数えた。


「あの夜、私の話を黙って聞いてくれたこと」


声が少し揺れた。でも、止めなかった。


「全部、本当だったでしょう」


ローランさんは答えなかった。答えられないのだと、わかった。


「それでも、ここにいていいのか」


掠れた声だった。


「あなたは最初から、ここにいました。名前が変わっても、それは変わりません」


沈黙が落ちた。


長い沈黙だった。


ローランさんは目を伏せ、それから、深く息を吐いた。肩の線が変わった。張り詰めていたものが、少しだけ緩んだのが見えた。


「……シルヴァンで、いい」


小さな声だった。


「ローランは捨てた名前だ。シルヴァンは——ここで得た名前だから」


「はい。シルヴァンさん」


いつもと同じ呼び方。いつもと同じ声。


でも、その名前の重さが変わったことを、私たちはどちらも知っていた。


相談所の灯りを消す前。


シルヴァンさんが扉に手をかけた。


「明日も来る」


「はい。お茶、出します」


短いやりとり。いつもと同じ。


でも、シルヴァンさんが扉を閉める直前に振り返った横顔が、今日はどこか柔らかかった。


扉が閉まった。


一人になった相談所で、私は椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。


この人の手は、いつも誰かのために動いていた。


椅子を直す時。薪を割る時。リュックくんを引き止めた時。私にパンを持ってきた時。


今は——。


その手が、私のために差し出されている。


胸の奥が温かかった。名前のつかない温かさだった。


いや——名前はある。


ただ、今はまだ、声に出さない。


書簡の末尾に、もう一行あった。


読み飛ばしていたわけではない。順番があっただけだ。


「なお、侍女長マティルダの偽証罪確定に伴い、鉱山送りの処分が本日付で執行された」


マティルダ。


あの日、講堂で証言台に立った女性。私の顔を見ずに、聖女の言葉を読み上げた女性。


鉱山送り。


重い処分だった。


同情はなかった。憎しみもなかった。ただ、そうなったのだ、と思った。


偽りの言葉で人を追い落とした人間が、偽りの代償を受けた。それだけのことだった。


書簡を折り畳んで、引き出しにしまった。


父の書簡と同じ引き出し。同じ仕草。


でも、手は震えていなかった。


翌朝。


王都からもう一通、書簡が届いた。


正式な通達だった。


「クレール・ベルナールの無籍民認定を取り消す。併せて、伯爵令嬢としての身分復帰を申し出る」


王家の認可印が押されていた。


私はその通達を読み、テーブルに置いた。


窓の外では、シルヴァンさんが薪を割っている。リュックくんがマルトさんの店から茶葉の包みを抱えて走ってくる。ナディアさんが通りの向こうで自警団員に指示を出している。


東通りの朝。いつもの朝。


「どうするか」は、もう決まっていた。


けれど、返事を書くのは明日にしよう。


今日はまず、茶を淹れる。

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