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第8話「名前の重さ」

私は書簡を開いた。


朝の相談所。開店前の静かな時間だった。


ナディアさんが持ってきた封筒は、王都からの定期便に紛れて届いたものだという。宛名は「グランメール東通り相談所 クレール殿」。


殿。


姓がない。「ベルナール」の文字はどこにもなかった。当然だ。私は無籍民なのだから。


封蝋にベルナール家の紋章が押されていた。


父からの書簡。


指先が冷たくなった。封を切るのに、少し時間がかかった。


文面は短かった。


「公爵家との縁談が破談になった。お前の断罪が影を落としている。これ以上、家に迷惑をかけるな」


それだけだった。


安否を問う言葉はなかった。


私がどこで何をしているのかを尋ねる文もなかった。


娘が追放されてから数ヶ月。最初の連絡がこれだった。


私は書簡を読み終え、折り畳み、机の引き出しにしまった。


手が震えていないことを確認した。震えていなかった。


リュックくんが出勤してきた。


「おはようございます、クレールさん。……あれ、何かありました?」


「いいえ。何も」


「でも、顔色が」


「大丈夫ですよ。今日の茶葉、新しいのを出しましょうか。マルトさんが昨日、リンデンの良い束を分けてくれたので」


リュックくんは首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。


私は茶を淹れた。いつも通りに。


午前中の相談は三件。


流民の女性が、子供の夜泣きが止まらないと相談に来た。夫が半年前に行方不明になったという。話を聞いて、マルトさんの薬草店で安眠用の茶を調合してもらうよう紹介した。


行商人の男性が、荷の盗難について話した。自警団に届けるべき案件だったので、ナディアさんに繋いだ。


三人目は若い男性で、故郷に帰りたいが帰る場所がないと言った。私は黙って聞いた。彼は一時間ほど話して、「また来ます」と言って帰った。


どの相談の間も、私はいつも通りに聞いた。


いつも通りに頷き、いつも通りに茶を出し、いつも通りに沈黙を守った。


ただ、声が低かった。


自分では気づかなかった。


閉店後。


リュックくんが帰り、私は報告書を書いていた。日が暮れる前に筆を置くと決めたルールを守っている。守っているはずだった。


けれど、ペンが動かなかった。


書簡の文面が、頭の中で繰り返されている。


「これ以上、家に迷惑をかけるな」


迷惑。


断罪の日、講堂に立っていたのは私だった。


偽りの証言で罪を着せられ、弁明の機会も与えられず、身分を剥奪されたのは私だった。


父は、あの場にいた。


何も言わなかった。


枢密院の承認があったとはいえ、伯爵家の当主として異議を申し立てる権利はあったはずだ。裁定院への訴えという手段もあった。それをしなかった。


娘を庇わなかった。


そして数ヶ月後の最初の連絡が、「迷惑をかけるな」。


怒りが来るかと思った。来なかった。


代わりに、胸の奥がしんと冷えた。前世で知っている感覚だった。期待することをやめた時の温度。


「話さなくていい。ただ、今日は俺がここにいる」


声が聞こえて、顔を上げた。


シルヴァンさんが、入口に立っていた。いつの間に来たのかわからなかった。


外套に夜気がまとわりついている。閉店後の見回りから戻ったところなのだろう。


「……いつから」


「さっき来た」


嘘だと思った。リュックくんが帰ってすぐに来たのではないか。けれど、問い詰める気力がなかった。


シルヴァンさんは奥の長椅子に座った。壁際ではなく、椅子に。最近はそうすることが増えた。


何も聞かなかった。


私が話すまで、待っている。この人はいつもそうだ。


沈黙は長かった。


窓の外が暗くなっていた。蝋燭の灯りが揺れている。


「父から、書簡が来ました」


声が出た。自分でも意外だった。


シルヴァンさんは動かなかった。ただ、視線がこちらに向いた。


「公爵家との縁談が破談になったそうです。私の断罪が原因だと。これ以上迷惑をかけるなと」


言葉にすると、冷えていた胸の奥が少しだけ熱くなった。


怒りではなかった。悲しみに近い何か。


「断罪の日、父は何も言いませんでした」


ペンを置いた。指先が白かった。知らない間に、強く握りしめていたらしい。


「庇ってほしかったわけでは——いえ、嘘です。庇ってほしかった」


喉が詰まった。


前世でも、こういう話を人にしたことはなかった。聞く側だった。いつも。


「断罪が終わって、講堂を出る時、父の顔を見ました。目が合いませんでした。合わせてくれなかった」


声が震えていた。隠せなかった。もう隠す必要がなかった。


「この町に来て、初めて息ができました。ナディアさんが倉庫を貸してくれた時。リュックくんが毎日来てくれるようになった時。マルトさんが叱ってくれた時」


蝋燭の炎が揺れた。風が入ったのか、それとも私の息が乱れたのか。


「シルヴァンさんが、お茶を飲みに来てくれた時」


シルヴァンさんは何も言わなかった。


ただ、長椅子に座ったまま、私の声を受け止めていた。


長い沈黙があった。


私は涙を拭った。泣いていたことに、拭ってから気づいた。


「すみません。聞いてもらう側は、慣れていなくて」


「謝るな」


低い声だった。短かったが、硬さはなかった。


シルヴァンさんは立ち上がり、窓辺に歩いた。外を見ていた。何を見ているのかはわからない。


「俺にも、話さなければならないことがある」


背中が言った。


「だが、今はまだ——」


言葉が途切れた。


私は待った。


待つことなら、できる。それが私の仕事だった。でも今は、仕事ではなく——この人の言葉を聞きたいと、思った。


シルヴァンさんは振り返らなかった。


「……すまない。もう少し、時間をくれ」


「待ちます」


答えは、考えるより先に出た。


「あなたが話してくれる時を、待ちます」


シルヴァンさんの肩が、わずかに下がった。力が抜けたように見えた。


その夜、シルヴァンさんは先に帰った。


私は相談所の灯りを消して、鍵を閉めた。


空を見上げると、月が出ていた。


薄い雲の合間に、白い光が落ちている。


シルヴァンさんは今頃、同じ月を見ているだろうか。


あの人が何を抱えているのか、私はまだ知らない。「大事な人を守れなかった」「自分には国がない」。断片だけが手元にある。


けれど、今日、私はこの人に話を聞いてもらった。


聞く側だった私が、聞いてもらう側になった。


それは——怖かった。


でも、あの長椅子に座って黙って聞いてくれたあの人の沈黙は、私が誰かに差し出してきた沈黙と同じものだった。


同じことができる人が、いた。


翌日。


リュックくんが朝の掃除をしながら、何気なく言った。


「そういえば、シルヴァンさんの剣の型って、帝国式じゃないですかね」


手が止まった。


「帝国式?」


「僕、騎士見習いだった時に教わったんです。レスタリア式と帝国式では、構えが違う。シルヴァンさんが薪を割る時の足の開き方、あれは帝国式の基礎構えに近い気がして」


リュックくんは気づいていないのだろう。自分が言ったことの重さに。


帝国式。


ヴァルデン帝国の剣術。


シルヴァンさんは、名前以外何も明かしていない。国も、過去も、身分も。


でも足の開き方は嘘をつかない。体に染みついた型は、言葉より正直だ。


「リュックくん」


「はい?」


「それは、シルヴァンさんには言わないでおいてください」


「え、なんでですか」


「この人が話してくれるまで、待ちたいから」


リュックくんは目を瞬いた。それから、少し考えるような顔をして、頷いた。


「わかりました。言いません」


引き出しの中に、父の書簡がある。


読み返すつもりはなかった。捨てるつもりもなかった。


ただ、そこにある。


あの日の講堂と同じように、父の沈黙がそこにある。


けれど、私はもうあの講堂にはいない。


東通りの朝の光の中で、私は看板を出した。


茶を淹れ、椅子を並べ、窓を開けた。


今日もまた、誰かが来る。誰かの声を聞く。


そして——いつか、シルヴァンさんの声を聞く。


そのために、待つ。


同じ頃、王都では。


ナディアさんがエミールさんの後任として届いた週次報告の中に、一行の噂が書かれていた。


「ベルナール伯爵、社交界にて「娘を見捨てた男」との評判が広まり、複数の家から距離を置かれている模様」


ナディアさんはその報告を私に見せなかった。


後になって知った時、ナディアさんは「見せる必要がなかったからね」と言った。


その判断は、正しかったと思う。


あの時の私には、父の評判よりも、目の前の茶器と、隣にいる人たちの声のほうが、ずっと大事だったから。

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