第7話「王都の目」
「グランメールの相談所について、いくつかお聞きしたい」
その男は、朝一番に現れた。
相談所の扉が開いた時、私はリュックくんと茶器を並べている最中だった。
開店の準備はまだ終わっていない。看板も出していない。
にもかかわらず、男は迷いなく入ってきた。
仕立ての良い外套。革の手袋。旅塵はあるが、靴は磨かれている。馬車で来た人間の身なりだった。
「失礼。まだ開いていませんでしたか」
声は丁寧だったが、視線は店の中を素早く見回していた。棚の茶器。壁に貼った相談件数の月次報告。窓辺の乾燥薬草。
観察している。
「いいえ、どうぞお入りください。お茶をお出しします」
「ありがたい。旅の後なので助かります」
男は椅子に腰かけた。背筋が真っ直ぐだった。姿勢で育ちがわかる。貴族か、それに近い教育を受けた人間。
「私はエミール。宰相府の書記官です。交易実態の調査で、グランメールに参りました」
名乗りは簡潔だった。名字を省いている。けれど、宰相府の書記官という肩書きだけで十分だった。
リュックくんの顔が強張った。
私は茶を淹れながら、手を止めなかった。
「こちらが、噂の相談所ですか」
エミールさんは茶を一口含み、目を細めた。
「悪くない配合だ。カモミールに……リンデン?」
「はい。お詳しいんですね」
「母が好きでした」
短い間。それ以上は語らなかった。
私は向かいの椅子に座った。相談者と向き合う時の位置。
「それで、何をお聞きになりたいのでしょう」
「率直に伺います」
エミールさんは茶器を置いた。指先が正確にテーブルの中央を捉えている。
「あなたは、クレール・ベルナール嬢——いえ、元ベルナール嬢ですね。断罪により無籍民となった方だ」
リュックくんが息を呑む音がした。
私は表情を変えなかった。変えないように、した。
「はい」
「断罪された元貴族が、国境の自治都市で追放者を集めている。王都からはそう見えます」
「集めてはいません。話を聞いているだけです」
「結果として人が集まっている。それは同じことです」
エミールさんの口調は穏やかだったが、言葉の選び方に甘さがなかった。
「王都がこれをどう見るか、わかりますか」
わかる。
追放者の組織化。反王室活動の萌芽。そう読まれる可能性があることは、最初から覚悟していた。
「私は人の話を聞いているだけです。それが罪になるなら、この国の法をお見せください」
エミールさんの眉がわずかに動いた。
「グランメールは自治都市だ。レスタリア王国の法は直接適用されない。あなたの活動に法的な問題はない」
「では」
「政治的にはグレーだ、と申し上げている」
沈黙が落ちた。
リュックくんが私の後ろで拳を握っているのが、気配でわかった。
「リュックくん。お茶のおかわりをお願いできますか」
「……はい」
声が硬かった。けれど、動いてくれた。
エミールさんは二杯目の茶を受け取りながら、リュックくんを見た。
「君は?」
「リュックです。ここの手伝いをしています」
「元騎士見習いか。姿勢でわかる」
リュックくんの肩が跳ねた。エミールさんはそれ以上追及しなかった。
「月次報告を見せていただけますか」
「もちろんです」
私は棚から報告書の控えを取り出した。三ヶ月分。個人名は記載していない。件数と相談内容の分類だけ。
エミールさんは一枚一枚、丁寧に読んだ。
「……生活困窮、二十三件。職業相談、十五件。対人関係、九件。法的相談、三件」
数字を読み上げる声に、感情はなかった。
「法的相談の三件は?」
「追放後に残された財産の扱いについてです。グランメールの都市法に基づく助言を、自警団経由でお伝えしました。私が法的判断をしたわけではありません」
「自警団との連携は」
「月次報告制度を私から提案し、自警団長に承認いただいています」
エミールさんは報告書をテーブルに戻した。
「運営は透明だ。少なくとも、ここにある記録上は」
皮肉ではなかった。事実の確認だった。
「記録にないことは、ありません」
「そうですか」
エミールさんは立ち上がった。外套の裾を整える仕草が自然だった。
「数日、この町に滞在します。交易実態の調査が主目的ですので、また伺うかもしれません」
「いつでもどうぞ。お茶はお出しします」
「では、お言葉に甘えて」
扉が閉まった。
リュックくんが椅子に崩れ落ちた。
「怖かった……」
「よく我慢してくれました」
「クレールさんは怖くなかったんですか」
怖かった。
手が震えていた。茶を淹れている間、ずっと。リュックくんには見えない角度だったから、気づかれなかっただけだ。
「大丈夫ですよ」
嘘ではない。でも、全部本当でもない。
三日後の夕方、エミールさんが再び来た。
今度は調査の話ではなかった。
「一つ、個人的に聞きたいことがある」
閉店後だった。リュックくんは帰り、シルヴァンさんは奥で椅子の脚を削っている。
「あなたの断罪は、聖女エルヴィラ様の告発に基づくものだった」
「はい」
「毒殺未遂の証拠は、侍女長マティルダの目撃証言のみ。物証は提出されていない」
心臓が冷たくなった。
この人は、断罪の記録を読んでいる。
「……おっしゃる通りです」
「目撃証言が一名、物証なし。それで枢密院が事前承認を出した。手続きは合法だが、証拠構造としては脆弱だ」
エミールさんは茶器を両手で包んでいた。ぬるくなった茶を見つめている。
「なぜ、弁明しなかったのですか」
「させてもらえませんでした」
言ってから、自分の声が平坦だったことに気づいた。
怒りはもう、どこかに行ってしまった。いつからだろう。この町で暮らし始めてから、断罪の日の記憶が遠くなった。
遠くなっただけで、消えてはいない。
「そうですか」
エミールさんは立ち上がった。
「報告書は、事実を書きます。この相談所が追放者の自助ネットワークであること、治安上の脅威が認められないこと、国境地域の安定化に寄与していること」
「ありがとうございます」
「礼には及びません。事実を書くだけです」
扉に手をかけて、エミールさんは振り返った。
「——宰相宛の私信に、一筆添えます。断罪の証拠構造について、検証の余地があると」
息が止まった。
「それは、あなたのお立場に」
「影響する可能性はあります」
エミールさんは一瞬、目を伏せた。
「ですが、不審な証拠で人が一人追放されているなら、それを報告するのは書記官の職分です」
扉が閉まった。
奥から、シルヴァンさんが出てきた。椅子の脚を削る手を止めていた。いつから聞いていたのかはわからない。
「……聞いていましたか」
「途中からだ」
シルヴァンさんは壁にもたれた。腕を組んでいる。
沈黙が長かった。
「シルヴァンさん」
「ああ」
「私の過去が、ここにいる人たちに迷惑をかけるかもしれません」
声が震えた。
今日は、もう隠せなかった。
エミールさんの前では平静を保てた。リュックくんの前でも。でも、この人の前では——崩れる。
前世でも今世でも、結局私は、自分のことになると脆い。
「王都が動いたら、この相談所は目をつけられる。リュックくんやナディアさんにまで——」
「逃げたいなら、俺が道を作る」
短い声だった。
シルヴァンさんはまっすぐこちらを見ていた。
「帝国側に抜ける道がある。俺の知っている商人に頼めば、三日でグランメールを出られる」
具体的だった。嘘ではないとわかる。
この人は本当に、私が望めば道を作るのだろう。
「でも、お前は逃げないだろう」
私は目を逸らせなかった。
「……はい」
「知ってる」
シルヴァンさんの声は静かだった。
「だから、俺はここにいる」
腕を解いて、シルヴァンさんは奥の作業場に戻っていった。
椅子の脚を削る音が、再び聞こえ始めた。
規則正しく、穏やかに。
その夜、相談所の灯りを消す前に、リュックくんから聞いた話を思い出した。
「そういえば、ヴォルフ商会、最近お客が減ってるって噂ですよ。東通りの人たちがみんなマルトさんの店に流れてるらしくて」
リュックくんは何気なく言っていた。
ヴォルフ商会。グランメールに着いた最初の夜、銀貨三枚の宿泊料を突きつけた商会。
因果なものだ、と思った。
けれどそれ以上は考えなかった。
灯りを吹き消して、私は扉の鍵を閉めた。
翌朝、ナディアさんが来て言った。
「エミールって書記官、昨日の夕方に早馬を出した。王都宛の書簡だろう。あたしの耳には中身まではわからないけどね」
ナディアさんは腕を組んだ。
「あの男、敵か味方か、まだ判断がつかない。気をつけな」
「はい」
「——でも、悪い目はしてなかったよ。あたしの勘だけどね」
ナディアさんは手を振って、通りへ戻っていった。
窓の外では、シルヴァンさんが薪を割っていた。
エミールさんの書簡が王都に届く頃、何が起きるのか。
わからない。
でも、逃げないと決めた。
私は看板を出し、茶を淹れ、椅子を並べた。
今日も、誰かの声を聞く準備をする。それだけだ。




