第6話「崩れる人」
前世でも、同じことがあった。
朝の光が窓から差し込んでいた。
相談所の椅子に座ったまま、私は目を開けた。
いつ眠ったのか、覚えていない。
机の上には昨夜書きかけの報告書が広がっている。インクの瓶は蓋が開いたまま。ペン先が乾いていた。
体が重い。
立ち上がろうとして、膝が折れた。
床の冷たさが頬に触れた時、ああ、と思った。
これは知っている。
前世の三十一歳の冬。面談室の椅子から滑り落ちて、そのまま動けなくなった朝と同じだ。
あの時も、前の日に何を食べたか思い出せなかった。
「クレールさん!」
声が聞こえた。遠い。
視界がぼやけている。リュックくんの声だと思ったが、確信が持てない。
「——誰か、マルトさんを!」
足音が走っていく。
私は床に横たわったまま、天井の木目を数えようとした。三本目で、意識が途切れた。
薬草の匂いで目が覚めた。
知らない天井だった。
いや、知っている。マルトさんの家の二階。以前、薬草の乾燥棚を見せてもらった時に上がった部屋だ。
窓の外は明るい。朝ではない。昼を過ぎている。
体の下に敷かれた毛布は厚く、枕元にぬるい薬草茶が置かれていた。カモミールに似た香り。鎮静用の配合だ。
「起きたかい」
マルトさんが階段を上がってきた。手には木の盆。粥と、小さなパンが載っている。
「……すみません。ご迷惑を」
「迷惑の話は後。先にこれを食べなさい」
盆が膝の上に置かれた。粥は温かく、塩味がした。一口含んで、胃が驚いたように縮んだ。
いつから固形物を食べていなかったのか。
思い出せない。昨日は——茶を三杯飲んだ。一昨日は、リュックくんが買ってきたパンを半分かじった、気がする。
「二口でいいから」
マルトさんの声は静かだった。叱責ではない。でも、甘さもない。
私は粥を二口すくい、飲み込んだ。
「あんた、前にもこうやって倒れたことがあるんだろう」
パンをちぎる手が止まった。
マルトさんは椅子に腰かけ、腕を組んでいた。
「わかるよ。慣れてる崩れ方だった。初めて倒れた人間は、もっと取り乱す。あんたは床に落ちた時、驚いてなかった」
返す言葉がなかった。
前世の記憶があるとは言えない。でも、マルトさんの言葉は正確だった。
驚かなかった。
ああ、またか、と思った。それだけだった。
「……はい。前にも、ありました」
「だろうね」
マルトさんは立ち上がり、窓を少し開けた。午後の風が入ってくる。東通りの喧騒が、遠くに聞こえる。
「人の話を聞く前に、自分の体の声を聞きなさい」
静かな声だった。
怒っているわけではない。でも、譲る気配もなかった。
「あんたがやっていることは立派だよ。でもね、倒れた人間の看板に、誰が相談に来る? あんたが元気でいることが、あの場所の土台なんだ」
胸の奥が詰まった。
わかっている。
前世でも、同じことを上司に言われた。「君が壊れたら、クライアントはどこに行くんだ」と。
わかっていて、繰り返している。
「でも、相談所を閉めたら——」
「一日閉めたくらいで潰れるなら、最初から続かないよ」
マルトさんは断言した。
反論できなかった。
夕方、リュックくんが様子を見に来た。
「クレールさん、大丈夫ですか」
「ええ。ご心配をかけてすみません」
「心配っていうか——その、僕、今日ずっと相談所にいたんです」
リュックくんは少し胸を張った。少し、だけ。
「誰も来なかったんですけど。でも、掃除はしました。茶器も洗いました。看板も磨きました」
「……ありがとう」
「明日も僕が番をします。だからクレールさんは寝てください」
言い切る口調が、半年前に雨宿りに来た少年とは違っていた。
私が何か言う前に、リュックくんは階段を駆け下りていった。マルトさんの「走るんじゃないよ」という声が追いかけていく。
翌朝。
まだ体は重かったが、粥を三口食べられた。マルトさんが「昨日より一口多い。上出来」と言った。
午後、シルヴァンさんが来た。
マルトさんの家の一階で、私は毛布を膝にかけたまま椅子に座っていた。マルトさんが「二階で寝てなさい」と言ったが、さすがに丸一日横になっていると背中が痛い。
「入るぞ」
低い声。扉が開いて、シルヴァンさんが入ってきた。
手に紙袋を下げている。中身はパンだった。まだ温かい。
「リュックが、腹が減ったと言っていた」
「リュックくんに?」
「……お前にだ」
シルヴァンさんは紙袋をテーブルに置き、壁に背をもたせかけた。椅子には座らない。いつもそうだ。この人は、相談所でも長椅子ではなく壁際に立つことが多い。
「相談所は、リュックが開けている。誰も来なかったが、茶は淹れていた。誰に出すでもなく」
少し間があった。
「……あいつなりに、やっている」
私は紙袋からパンを取り出した。小ぶりの丸パン。まだ柔らかい。
一口かじった。小麦の甘さが口に広がって、目の奥が熱くなった。
こんなことで泣きそうになるのは、たぶん、まだ体が弱っているからだ。
「シルヴァンさん」
「ああ」
「相談所のこと、お願いしてもいいですか」
言葉にするのが、こんなに難しいとは思わなかった。
人に頼ること。
助けてほしいと言うこと。
前世で、一度もできなかったこと。
「リュックくんだけでは、もし相談者が来た時に対応が難しいかもしれません。シルヴァンさんがいてくだされば——」
「必要なら、俺がいる」
言い終わる前だった。
シルヴァンさんは壁にもたれたまま、こちらを見ていなかった。窓の外を見ていた。
でも声は、はっきり聞こえた。
「必要なら、というのは撤回する。いる」
短い沈黙があった。
「お前が戻るまで、あそこは閉めない」
喉が詰まった。
ありがとう、と言おうとした。声が出なかった。代わりに頷いた。何度も頷いた。
シルヴァンさんは、それ以上何も言わなかった。
二日後、私は相談所に戻った。
扉を開けると、床が磨かれていた。茶器が棚に整然と並んでいた。窓硝子に曇りがなかった。
リュックくんが受付の椅子から飛び上がった。
「クレールさん! もう大丈夫なんですか」
「ええ。おかげさまで」
「あの、報告があるんですけど——昨日、一人来ました。相談者。行商のおじさんで、荷物が盗まれたって」
「どう対応しましたか」
「えっと、話を聞きました。それで、お茶を出しました。それだけなんですけど……」
「それだけで、いいんです」
リュックくんは目を丸くし、それから笑った。
奥の長椅子には、シルヴァンさんが座っていた。珍しい。壁際ではなく、椅子に。
テーブルには茶器がふたつ。片方はリュックくんの分で、もう片方は——シルヴァンさん自身が淹れたものらしい。茶葉の量が多すぎて、かなり濃い色をしている。
「……淹れ方、今度教えますね」
「頼む」
短い返事。でも、口の端がわずかに動いた気がした。
その日の夕方、私はマルトさんの助言を受けて、運営の形を変えた。
相談の受付は一日五人まで。
週に一日、相談所を閉める日を設ける。
リュックくんは受付と記録を担当する。
シルヴァンさんは——本人の言葉を借りれば「いるだけ」だが、彼がいるだけで相談所の空気が安定することを、私はもう知っていた。
「私一人の場所じゃなくなったんですね」
声に出してみると、その言葉は思ったより軽かった。
怖くなかった。
前世では、誰かに任せることが怖かった。自分がやらなければ、と思い続けて、最後に体が動かなくなった。
今は違う。
違うと、思いたかった。
閉店後。
リュックくんが帰り、私は報告書の続きを書いていた。今日からは、日が暮れる前に筆を置くと決めている。
シルヴァンさんがまだ残っていた。椅子の脚のぐらつきを確かめている。
「シルヴァンさん」
「ああ」
「ありがとうございました。この二日間」
「礼はリュックに言ってやれ。あいつは毎朝、開店の一刻前に来ていた」
「リュックくんにも言います。でも、あなたにも」
シルヴァンさんは椅子の脚から手を離し、立ち上がった。
こちらを見た。
それから、視線をわずかに逸らした。
「……茶を、もう一杯もらえるか」
「はい。今日は薄めに淹れますね」
私は茶葉を量りながら、背中にシルヴァンさんの視線を感じていた。
振り返らなかった。振り返ったら、たぶん、この人の耳が赤いことに気づいてしまう。
でも——。
棚から茶器を取る時、窓硝子にシルヴァンさんの姿が映った。
やっぱり、耳が赤かった。
私はそれを見なかったことにして、お湯を注いだ。
帰り道、リュックくんがナディアさんに何か話しているのが見えた。
「シルヴァンさん、クレールさんにお茶頼む時だけ声が変わるんすよ。気づいてます?」
「あたしに言うな。本人に言え」
「無理っすよ!」
風が、リュックくんの声を運んできた。
私は聞こえなかったふりをして、相談所の扉を閉めた。
翌朝、ナディアさんが相談所に顔を出した。
「ちょっといいかい」
いつもの調子だったが、表情が少し硬い。
「王都から書記官が来る。宰相府の人間だ。交易実態の調査とか言ってるけど、あんたの相談所も見られるかもしれない」
紙を一枚、テーブルに置いた。自警団長宛の通達の写しだった。
「気をつけな、クレールさん。王都の目は、この町のルールじゃ動かない」
ナディアさんは言い残して、通りへ戻っていった。
私は通達の文面を読み返した。
宰相府。書記官。交易実態調査。
文字は丁寧だったが、行間に別の意図がある気がした。
窓の外で、シルヴァンさんが薪を割る音がしていた。
規則正しく、淀みなく。
その音を聞きながら、私は通達を畳み、引き出しにしまった。




