第2話「最初の声」
「お茶、もう一杯いかがですか」
マルトさんがカウンター越しに急須を傾けた。薄い琥珀色の液体が、欠けた縁の陶器に注がれる。
「いただきます。ありがとうございます」
私は両手で器を受け取った。温かい。三日前から、朝になるとマルトさんが茶葉と乾燥薬草を持って隣の店から顔を出す。差し入れだと言って、代金を受け取らない。
「客は来たかい」
「まだです」
看板を出して三日。「一杯のお茶と、あなたの話を聞く場所」。木の板に炭で書いた簡素なものだ。通りを行く人が時折目を留めるが、扉を開ける者はいない。
当然だった。誰とも知れない女が、空き店舗で話を聞くと言っている。入ってくる方がおかしい。
「焦ることはないよ」
マルトさんは棚に並んだ薬草の束を指先で確かめながら言った。五十がらみの落ち着いた声だ。
「あんたの持ってきた薬草、乾燥の仕方が丁寧だね。ラベンダーもカモミールも、花穂の形が崩れてない。どこで覚えたんだい」
「独学です」
嘘ではない。前世の知識を「独学」と呼ぶなら。
マルトさんはそれ以上聞かなかった。器を片づけ、「余った茶葉があったら持ってくるよ」と言って自分の店に戻っていった。
問い詰めない人だった。それが、ありがたかった。
四日目の午後、雨が降った。
二月の冷たい雨で、東通りの石畳が黒く濡れている。人通りはほとんどなかった。私は店の奥でカウンターを拭きながら、窓の外を見ていた。
店の軒先に、誰かが立っている。
少年だった。薄い外套を羽織り、荷物は持っていない。雨宿りをしているのか、軒下に背中を預けて立っている。髪が濡れて額に張りついていた。
しばらく様子を見た。
少年はこちらを見ない。店の中に入ろうともしない。ただ、軒下で雨が止むのを待っている。
私は扉を開けた。
「中でお茶でもどうぞ」
少年がこちらを見た。警戒の色が強い目だった。十七か、十八か。頬がこけている。しばらく満足に食べていない顔だ。
「……金、ないっすけど」
「お茶にお代はいりません。温まるだけでも」
少年は数秒迷った。雨脚が強くなった。それが決め手になったのか、体を軒先から離して、のろのろと店に入ってきた。
「そちらの椅子にどうぞ」
カウンターの手前に置いた二脚の椅子のうち、入口に近い方を示した。逃げやすい側だ。前世の相談室でも、クライアントには出口に近い席を勧めた。
少年は座った。背もたれに体を預けず、浅く腰かけている。すぐに立てる姿勢。
私は棚からカモミールの乾燥花を取り出し、湯を注いだ。マルトさんが置いていってくれた茶葉を少し加える。鎮静と温めの効果がある組み合わせだ。
器を少年の前に置いた。
「熱いので、気をつけて」
少年は器を両手で包み、しばらく黙っていた。湯気が顔にかかるのを、目を細めて受けている。
私はカウンターの向かい側の椅子に座り、自分の分の茶を啜った。
何も聞かなかった。
前世で学んだことがある。人が話し始めるには、沈黙がいる。質問ではなく、安全な沈黙が。
少年は茶を半分ほど飲んだところで、器を膝の上に降ろした。
「……あんた、何してるんすか。こんな店で」
「話を聞く仕事をしています」
「話って、誰の」
「来てくださった方の」
少年は眉をひそめた。理解できない、という顔だった。
「金も取らないで話聞いて、なんの得があるんすか」
「今のところ、お茶を飲んでもらえることが得です」
少年の口元が、ほんの少し動いた。笑いかけて、やめた顔だった。
沈黙が戻った。
雨の音だけが続く。窓硝子を伝う水滴が、光を受けて細い筋を作っていた。
「僕」
少年が言った。器を見つめたまま。
「リュックっていいます。元……騎士見習い、でした」
語尾が過去形になった。
「クレールです。よろしくお願いします、リュックさん」
「さん、はいらないっす。リュックでいいです」
「では、リュックくん」
少年——リュックくんは、小さく頷いた。
そこから話が始まった。ぽつぽつと、途切れながら。
男爵家の三男として生まれたこと。騎士になりたくて、十四歳で見習いに志願したこと。
兄が家の金を横領していたこと。
発覚したとき、父が言った。「リュックが犯人だと言え。三男ならどうにでもなる」。
「……僕が身代わりにされたんす。兄貴の横領の」
リュックくんの指が、器の縁を強く握った。
「除隊されて。家にも戻れなくて。どこにも行くとこなくて、ここまで来ました」
声が震えていた。怒りと、それ以上の何か。自分が切り捨てられたことへの、整理のつかない感情。
私は黙って聴いた。
相槌は打った。頷いた。けれど、意見は言わなかった。「ひどい話だ」とも「あなたは悪くない」とも。
前世の訓練が体に染みついている。最初のセッションで助言はしない。まず、全部出してもらう。評価も判断も挟まない。ただ、ここにいる。
リュックくんはそれに気づいたらしい。話し終えた後、器を置いて、こちらを見た。
「なんで何も言わないんすか」
目が赤かった。泣いてはいない。けれど、限界に近い目だった。
「あなたの話は、あなたのものだから」
私はそう答えた。
リュックくんの顔が歪んだ。何かが決壊したように、両手で顔を覆った。
声は出さなかった。肩だけが震えていた。
私は席を立たず、そのままそこにいた。器の中の茶はもう冷めている。雨音が、少年の沈黙を包んでいた。
どれくらい経ったか。
リュックくんが顔を上げた。目の周りが赤く腫れていた。
「……明日も、来ていいっすか」
「もちろん。お茶を用意して待っています」
リュックくんは立ち上がり、頭を下げた。深く、腰を折って。男爵家で教わった礼だったのかもしれない。ぎこちなかったけれど、丁寧だった。
「ありがとう、ございました」
雨の中に出ていく背中を見送った。
外套が濡れて重そうだった。けれど、来たときより少しだけ、背筋が伸びているように見えた。
扉を閉めた。
椅子に座り直して、冷めた茶を飲んだ。
ああ。
この味を、私は知っている。
仕事をした後の、静かな充足。前世の相談室で、クライアントが帰った後に一人で飲むコーヒーの味と同じだった。
けれど、同時に別の記憶も浮かんだ。
三十二歳の冬。相談件数が月に四十を超えた頃。昼食を取る時間がなくなった頃。同僚に「大丈夫?」と聞かれて、「大丈夫です」と答え続けた頃。
あの頃も、充足感はあった。誰かの役に立っている、と思えることが嬉しかった。
その充足が、いつの間にか義務になった。休めなくなった。自分が止まったら、あの人たちはどうなる。そう思い始めたら、もう止まれなかった。
器を置いた。
同じ轍を踏むわけにはいかない。今世では、立ち止まる術を持たなければ。
けれど、その方法を、私はまだ知らない。
翌朝、開店の準備をしていると、リュックくんが来た。
昨日より少し早い時間だった。外套は乾いている。顔色は相変わらず悪いが、目に昨日の暗さはない。
「あの」
入口で立ったまま、リュックくんは言った。
「手伝いたいんです。掃除でも、荷物運びでも。その……ここにいさせてもらえるなら」
私は少し考えた。
手伝いは助かる。だが、彼に「仕事」として何かを頼むには、まだこの場所に払える対価がない。
「お給料はまだ出せません」
「いらないっす。飯と、ここにいていい理由があれば」
ここにいていい理由。
その言葉が、胸に刺さった。彼が欲しいのは金ではない。「ここにいてもいい」という許可だった。
「では、お願いします。まず、窓の掃除から」
リュックくんの顔が明るくなった。明るく、というのは正確ではない。暗さが一段薄くなった、という方が近い。
「はいっす」
雑巾を手渡すと、リュックくんはすぐに窓に取りかかった。ぎこちない手つきだった。男爵家の三男が掃除をした経験は多くないのだろう。けれど、力だけは入っていた。
私はカウンターで茶の準備をしながら、窓を拭くリュックくんの背中を見ていた。
相談所に、最初の「常連」ができた。
昼過ぎ、リュックくんが窓を拭き終えた頃。
入口の前を、一人の男が通り過ぎた。
黒い髪。背が高い。外套の襟を立てて、東通りの奥へ歩いていく。
一瞬だけ、男の視線が看板に向いた。「一杯のお茶と、あなたの話を聞く場所」。
読んだのか、読まなかったのか。男はそのまま歩き去った。
「あの人、誰っすかね」
リュックくんが雑巾を絞りながら言った。
「さあ。通りがかりの方でしょう」
窓の外に目を戻した。男の背中はもう見えなかった。




