第10話「私の名前」
グランメールの朝の鐘が鳴っていた。
東通りに朝日が差し込んでいる。
冬の手前の、乾いた光だった。石畳が白く光って、通りの向こうまで見渡せる。
私は相談所の前に立っていた。手には雑巾。看板を磨いている。
「一杯のお茶と、あなたの話を聞く場所」
木の板に刻んだ文字は、最初の頃より少しだけ薄くなっていた。何度も雨に打たれ、何度も拭いたからだ。
でも、読める。まだ十分に読める。
昨夜、返書を書いた。
王都からの正式な通達——無籍民認定の取り消しと、伯爵令嬢への身分復帰の申し出。王家の認可印が押された、重い紙。
返書は短かった。
「伯爵令嬢の身分は辞退いたします。私はグランメールの相談員クレールとして生きます」
書き終えた時、ペンを置く手は迷わなかった。
封をして、今朝ナディアさんに託した。王都への定期便に載せてもらう。
「クレールさん、おはようございます」
リュックくんが通りの向こうから走ってきた。マルトさんの店で受け取った茶葉の包みを両手に抱えている。
「おはようございます。今日は早いですね」
「マルトおばさんが、新しいリンデンが入ったからって。朝一番で取りに行ってきました」
包みをテーブルに置きながら、リュックくんは看板を見上げた。
「磨いてたんですか」
「ええ。少し薄くなっていたので」
「……クレールさん。一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
リュックくんは包みの紐を解きながら、少しだけ声を低くした。
「身分復帰の話、断ったんですよね。もったいなくないんですか」
聞いていたのだろう。ナディアさんから、あるいはマルトさんから。この町では噂が早い。
「もったいないのは、ここで積み上げたものを手放すことです」
リュックくんは目を丸くした。
それから、何かを噛みしめるように、口を結んだ。
「……僕も、そう思います」
小さな声だった。
リュックくんにとっても、この場所は「積み上げたもの」なのだ。雨宿りで入ってきた少年が、今は受付をし、記録をつけ、茶を淹れている。
「さ、開店の準備をしましょう」
「はいっ」
リュックくんは茶葉の包みを棚に運んだ。足取りが軽かった。
午前中、相談者が三人来た。
一人目は行商の女性。街道で荷を落として、通りがかりの人に助けられたが、お礼を言いそびれたという話。相談というより、誰かに聞いてほしかっただけだ。
二人目は東通りの靴職人。弟子が言うことを聞かないと嘆いていた。聞いているうちに、弟子ではなく自分の父親との関係の話になった。一時間かかった。
三人目は、顔を見たことのない若い女性だった。何も話さず、茶を二杯飲んで帰った。帰り際に「また来ます」と言った。
リュックくんが受付をし、茶を出した。記録をつけた。
私は聞いた。
いつも通りの午前だった。
昼過ぎ、エミールさんの書簡が届いた。
定期便に同封されていた薄い封筒。宰相府の封蝋ではなく、個人の封蝋だった。
中身は短かった。
報告の本文は一行。
「王太子フィリップ殿下、枢密院の決議により王位継承権を剥奪。判断力の欠如が問題視された結果」
読んだ。
感情は、動かなかった。
フィリップ殿下。あの日、講堂の壇上に立っていた人。私を「悪役令嬢」と呼び、追放を宣告した人。
聖女の言葉を疑わなかった人。
王位継承権を失った。
それは大きな出来事のはずだった。一国の王太子が継承権を剥奪されるというのは、歴史に残る事件だ。
けれど、私の中では遠い出来事だった。
この町の朝の鐘のほうが、ずっと近い。
書簡を折り畳んで、引き出しにしまった。父の書簡と、冤罪晴れの通達と、同じ引き出し。同じ仕草。三通目になった。
引き出しを閉めた。
書簡の末尾に、追伸があった。
「近くグランメールを再訪したい。今度は個人的な理由で」
エミールさんらしい一文だった。公務ではなく個人として。あの人なりの距離の詰め方だ。
返事は、また今度でいい。
閉店後。
リュックくんが帰り、マルトさんが店じまいの挨拶に顔を出して帰り、ナディアさんが通りの巡回から手を振って去っていった。
相談所に私とシルヴァンさんだけが残った。
シルヴァンさんは奥の長椅子に座っていた。膝の上に両手を置いている。いつもの姿勢だったが、今日は少しだけ背中が硬い。
蝋燭に火を灯した。夕暮れの光が窓から細く差し込んでいる。
「シルヴァンさん」
「ああ」
「今日、身分復帰を断りました」
「聞いた。リュックが言っていた」
あの子は本当に秘密を守れない。でも、今回は構わなかった。
「後悔は」
「ありません」
即答した。シルヴァンさんの視線がこちらに向いた。
沈黙があった。
シルヴァンさんが立ち上がった。長椅子から離れ、窓辺に歩いた。夕暮れの光が横顔を照らした。
それから、振り返った。
まっすぐ、こちらを見た。
「ローランとしてではなく、シルヴァンとして——」
声が低かった。いつもより、少しだけ。
「お前の隣にいたい」
静かな言葉だった。
飾りがなかった。この人らしかった。
短くて、不器用で、けれど一語も余分がない。
胸の奥で、名前のつかなかった温かさが、ようやく形を持った。
ああ、と思った。
これが、そうなのだ。
私は少し笑った。笑えた。
「では、明日も来てください」
シルヴァンさんの目がわずかに揺れた。
「お茶、出しますから」
それは告白の返事としては、あまりにも普通の言葉だった。
でも、シルヴァンさんは——少しだけ、唇の端を持ち上げた。
笑った、と言っていいのかわからない。けれど、今まで見た中で一番柔らかい表情だった。
「ああ。行く」
短い返事。
それだけでよかった。
翌朝。
相談所の前に、人が並んでいた。
三人。朝一番から相談に来てくれる人が、増えている。
リュックくんが受付の椅子に座り、最初の一人の名前を記録帳に書いている。
「おはようございます。今日の一番目の方ですね。少々お待ちください」
声が落ち着いていた。半年前、雨宿りに来た少年とは違う声だった。
マルトさんが隣の薬草店から顔を出して、茶葉の追加を棚に並べてくれた。
「今日は冷えるから、生姜を少し足してもいいかもね」
「ありがとうございます。試してみます」
シルヴァンさんが、奥から椅子を運んできた。
相談者が増えたから、椅子が足りない。先週、新しく二脚作った。脚のぐらつきはない。この人が作ったものは、いつも頑丈だ。
椅子をテーブルの横に置いて、シルヴァンさんは壁際に立った。
いつもの場所。いつもの姿勢。
けれど、昨日と同じ場所に立っているこの人の意味が、昨日とは変わっている。
私はそれを知っていて、シルヴァンさんもそれを知っている。
それでいい。
最初の相談者が、椅子に座った。
中年の女性だった。手が荒れていた。洗濯の仕事をしている人だろう。
「おはようございます。今日はどうされましたか」
いつもの言葉。いつもの声。
女性は少し躊躇って、それから話し始めた。
私は聞いた。
頷いて、復唱して、黙って。
前世から持ってきた、たった一つの技術。この世界で、この町で、この場所で使えるもの。
窓の外では、東通りの朝が動き始めている。
マルトさんの店に客が入る。ナディアさんが通りの向こうで自警団員と話している。リュックくんが二番目の相談者にお茶を出している。
日常だった。
私が選んだ、日常だった。
二人目の相談者が帰った後、少しだけ時間が空いた。
茶器を洗いながら、窓の外を見た。
シルヴァンさんが、三番目の相談者のために椅子の位置を直していた。その手が、ふと止まった。
こちらを見た。
目が合った。
シルヴァンさんの手が、そっと伸びた。
私の肩に触れた。
指先だけの、軽い接触だった。一瞬だった。
それだけだった。
私は振り返り、微笑んだ。
シルヴァンさんは何も言わず、椅子の位置に戻った。
たったそれだけの。
けれどそれが、この物語の中でたった一度の、二人の触れ合いだった。
それで十分だった。
三番目の相談者を迎え入れる前に、少しだけ空を見上げた。
グランメールの空は、今日も広かった。
王都の空がどうだったか、もう思い出せない。講堂の天井がどんな木目だったかも。断罪の日の光の角度も。
覚えているのは、この町に来た朝の空気と、ナディアさんが差し出した倉庫の鍵と、リュックくんが初めて泣いた午後と、マルトさんの粥の塩味と、シルヴァンさんの淹れた濃すぎる茶の色。
追放された先で開いた窓口が、私の世界になった。
グランメールの朝の鐘が、また鳴っている。
「三番目の方、どうぞお入りください」
私は椅子に座り、茶を注ぎ、顔を上げた。
「今日はどうされましたか」
(完)
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