第1話「追放の朝」
朝靄のなかを、鐘が鳴っていた。
低く、遠く、壁に反射して輪郭を失った音が、馬車の幌を通り抜けてくる。レスタリア王都の鐘とは違う。あちらは高く澄んで、どこか威圧的だった。この鐘は、ただ朝を告げているだけだ。
馬車が止まった。
御者が幌の隙間から顔を覗かせた。日に焼けた中年の男で、七日間の道中、必要なこと以外は一言も話さなかった。追放者を乗せる仕事に慣れているのだろう。
「グランメールだ。降りな」
私は膝の上の革鞄を抱えて立ち上がった。
中身は替えの下着が一組、木櫛、それから乾燥させた薬草の束がひとつ。断罪のとき身につけていたものだけが、今の全財産だった。
石畳に足をつく。
靴底を通して朝の冷気が伝わってきた。二月の空気は乾いて、息が白い。馬車はすぐに向きを変え、来た道を戻っていった。
振り返らなかった。
目の前に広がるのは、幅の広い通りだった。両側に石造りの建物が並び、一階部分が店舗になっている。看板が出ている店と、板を打ちつけて閉じている店が、交互に続いていた。
まだ早朝のせいか、人通りは少ない。荷車を引く老人がひとり、こちらを一瞥して通り過ぎた。
七日前の朝も、こんなふうに冷えていた。
王立学園の講堂。卒業式の壇上。
フィリップ殿下の声が、広い空間に響いた。
「クレール・ベルナール。聖女エルヴィラ様への毒殺未遂の罪により、お前の身分を剥奪する」
講堂に詰めかけた学生と来賓の視線が、一斉にこちらに集まった。
私は壇上の右端に立たされていた。両脇に衛兵がひとりずつ。腕は掴まれていなかったが、逃げられる状態でもなかった。
聖女エルヴィラ様は殿下の隣に立ち、目を伏せていた。白い指を胸の前で組み、唇をかすかに震わせていた。完璧な被害者の姿だった。
「弁明はあるか」
殿下がそう言ったとき、私は客席を見た。
父がいた。
ベルナール伯爵は三列目の端に座り、膝の上で拳を握っていた。目が合った。父は視線を逸らした。
弁明。
毒殺の証拠とされたのは、聖女付き侍女長マティルダの証言だった。「クレール・ベルナール嬢が、聖女様の食事に粉末を混入するのを目撃した」。
していない。
けれど、否定しても証言は覆らなかった。枢密院はすでに承認を出していた。この場は手続きの最終段階にすぎない。弁明に意味はなかった。
「ありません」
私はそう答えた。
声は思ったより平坦だった。前世で、理不尽な解雇通告を受けたクライアントの隣に何度も座った。あのとき学んだことがある。怒りは後から来る。その場では、ただ体が冷えるだけだ。
衛兵に連れられて講堂を出たとき、背後で拍手が聞こえた。
通りの先に、広場が見えた。
石造りの噴水があり、その周囲にいくつかの屋台が準備を始めている。パンの焼ける匂いが風に乗ってきた。
腹が鳴った。
七日間、御者が分けてくれた干し肉と硬いパンだけで過ごしていた。温かいものは一口も口にしていない。
まずは宿を探さなければならなかった。
広場に面した建物のひとつに「ヴォルフ商会」の看板が掛かっていた。商会と宿屋を兼ねているらしく、入口の横に「宿泊可」の札が出ている。
扉を開けた。
カウンターの奥に、恰幅のいい男が座っていた。五十がらみ。上等な布地の上着を着ている。帳簿から顔を上げた目が、私の身なりを上から下まで確認した。
革鞄ひとつ。旅で汚れた外套。貴族の衣装ではない。断罪の際に身につけていた平服のまま、七日間着替えていない。
「一泊いくらですか」
「銀貨三枚」
相場を知らないと思われている。王都の安宿でも銀貨一枚が上限だった。国境の自治都市で銀貨三枚は法外だ。
だが、それを指摘する根拠がない。私はこの町の相場を知らない。そして、無籍民には交渉力がない。
「手持ちが足りません。失礼しました」
頭を下げて店を出た。
背後で、鼻で笑う気配がした。
広場のベンチに座った。
日が高くなり、人通りが増えてきた。荷車、馬、子供の声。行き交う人々は忙しそうで、誰もこちらを気に留めない。それがありがたかった。
鞄の中の薬草を確認した。ラベンダーに似た紫の花穂と、カモミールに近い白い小花。前世の知識で効能がわかるものだけを、学園の薬草園から断罪前日に摘んでおいた。持ち出し禁止の品ではなかったから、これは盗みではない。
ただ、これだけでは何もできない。
乾燥薬草の束を手のひらに載せた。軽い。こんなに軽いものが、今の私の全てだった。
日が傾き始めた。
宿はない。金もない。この町に知り合いはいない。夜はベンチで過ごすしかなかった。外套の襟を立てた。二月の夜は冷える。凍えることはないだろうが、眠れるかはわからない。
それでも、屋根のある牢よりはましだと思った。空が見える。それだけで十分だった。
「あんた、朝からずっとそこにいるね」
声をかけられたのは、日が沈みかけた頃だった。
見上げると、短い赤髪の女が立っていた。腰に短剣を帯び、革の胸当てをつけている。自警団の制服だった。
「ナディア。自警団の副団長をやってる」
名乗り方が簡潔だった。警戒はしているが、敵意はない。目がまっすぐこちらを見ている。
「クレールと申します」
立ち上がり、軽く頭を下げた。貴族式の礼ではなく、平民同士のそれを選んだ。
ナディアの目が一瞬、私の所作を観察した。頭の下げ方、背筋の伸び方。平民にしては整いすぎていることに気づいただろう。
「ヴォルフのとこで断られたか」
「宿泊料が手持ちに合いませんでした」
「銀貨三枚って言われただろ。あいつはいつもああだよ。相手を見て値段を変える」
ナディアは腕を組んだ。
「追放者かい」
隠す意味はなかった。
「はい」
「この町には多いよ。あんたで今月三人目だ」
ナディアはしばらく黙った。広場の噴水を見ていた。それから、こちらに向き直った。
「自警団の詰所の裏に空き倉庫がある。今は使ってないから、一時的に寝泊まりするくらいなら構わない。ただし、揉め事を起こしたら即追い出す」
施しだった。
その言葉が、喉の奥に引っかかった。前世で何度も見た。支援を受ける側の人間が、最初に感じるのは感謝ではない。自分はそこまで落ちたのか、という自覚だ。
けれど、断る理由もなかった。
「ありがとうございます。何かお返しできることがあれば、おっしゃってください」
「返せるもんがあるなら、最初からベンチで寝ようとはしてないだろ」
ナディアは笑った。からっとした、乾いた笑い方だった。
倉庫は狭かったが、壁と屋根があった。
木箱がいくつか積まれ、古い毛布が二枚、棚の上に畳んであった。ナディアが「好きに使っていい」と言い残して去った後、私は毛布を一枚敷き、一枚を被って横になった。
天井の板の隙間から、星がひとつ見えた。
目を閉じると、前世の記憶が浮かんだ。
産業カウンセラーとして七年間、企業の相談室に座っていた。メンタル不調の社員、パワハラの被害者、復職に不安を抱える休職者。話を聞いた。ひたすら聞いた。
三十二歳の冬に、自分が倒れた。
過労だった。聞くことはできた。自分のことを話すことができなかった。誰かに「助けて」と言う方法を、私は知らなかった。
目が覚めたら、この世界にいた。伯爵家の赤ん坊として。
二十三年が経ち、また一人で横になっている。場所が変わっただけだと思った。
いや、違う。
前世では、倒れた場所が終着点だった。ここは、始まりだ。少なくとも、そう決めることはできる。
翌朝、日の出とともに起きた。
毛布を畳み、床を掃いた。木箱を壁際に寄せ、入口の埃を払った。自分が使った場所は自分で整える。それは前世でも、この世界でも変わらない。
ナディアが朝の巡回のついでに顔を出した。
掃除された倉庫を見て、少し驚いた顔をした。
「きれいにしたね」
「お借りしている場所ですから」
ナディアは腕を組み、入口の柱に背を預けた。
「で、あんたこれからどうするんだい」
私は少し考えた。
手元にあるのは、薬草の知識と、人の話を聞く技術。どちらもこの世界では資格も証明書もない。ただの自己申告だ。
けれど、資格がなくても、目の前にいる人の話を聞くことはできる。
「この町で、人の話を聞く仕事はできるでしょうか」
ナディアの眉が上がった。
「話を聞く仕事?」
「困っている方の相談に乗る場所を作りたいんです。追放された方、行き場のない方。この町にそういう方が増えているなら、話を聞く人間がいてもいいのではないかと」
ナディアはしばらく黙った。
それから、首を傾けた。
「需要はあるかもね。ただ、ここじゃあ誰もあんたを知らない。信用はゼロからだよ」
「わかっています」
「……広場の東通りに、空き店舗がいくつかある。元パン屋の物件なら、自警団預かりで家賃は安い。見に行くかい」
私は頷いた。
東通りは、広場から一本入った細い路地だった。
石畳は割れている箇所が多く、建物の壁には蔦が這っている。繁華街から外れた、静かな通りだった。
三軒目の空き店舗の前で、ナディアが足を止めた。
木の扉に「貸店舗」の紙が貼ってある。窓硝子は曇っているが、割れてはいない。中を覗くと、カウンターと棚が残っていた。パン窯の跡が奥の壁にある。
「前の持ち主が夜逃げしてね。自警団で管理してる。家賃は月に銅貨二十枚。払えるようになってからでいい」
銅貨二十枚。銀貨一枚にも満たない。
「お借りします」
ナディアが鍵を渡してくれた。鉄製の、古びた鍵だった。
「揉め事を起こさない。町の迷惑にならない。それだけ守ってくれればいい」
「はい」
ナディアが去った後、私は店の中に入った。
埃っぽかった。蜘蛛の巣が棚の隅に張っている。けれど、壁は頑丈で、雨漏りの跡はない。窓を開けると、冷たい風が通り抜けた。
カウンターの上を手で拭いた。
ここに、椅子を二つ置こう。向かい合わせに。
小さな看板を出す。文字は簡潔でいい。
「一杯のお茶と、あなたの話を聞く場所」
それだけで十分だ。
鞄から薬草の束を取り出し、棚に置いた。紫の花穂が、埃っぽい店内でかすかに香った。
手が震えていることに気がついた。
寒さではなかった。
ここから始める。何もない場所で、何もない自分が、誰かの声を聞く。それだけを、もう一度やる。
窓の外を見た。
東通りの向こうに、空き店舗がいくつか並んでいる。板を打ちつけた窓、剥がれかけた看板。この通りには、閉じた場所が多い。
けれど、ひとつだけ開いている店があった。隣の建物だ。窓辺に、乾燥した薬草の束が吊るされている。
看板には「マルトの薬草店」と書かれていた。




