2.2 オナジヨル。
戻ったのは、街灯に火が入り始める頃だった。
先にどうぞ。と、宿の扉を開けるアリシア。
扉が閉まった瞬間、街の音が途切れた。
祝祭が決まったと浮き立っていた喧騒は、分厚い木の扉一枚で嘘のように遮断される。
木造建築の軋む音と、廊下に残る夕食の匂いだけが、現実を繋ぎ止めていた。
部屋に戻ったリンカは肩をすくめ、背負っていた剣を外す。
鞘が壁に触れて、乾いた音を立てた。それだけで胸の奥が小さく跳ねる。戦場では聞き流してきた音なのに、今はやけに大きい。
鎧を外す指先が、少しもたつく。
指が痺れているわけでも、疲労が限界なわけでもない。ただ、何をしていいのか分からなくなる瞬間が、唐突に訪れる。
――休め、と言われた。
王の声を思い出し、リンカは唇を噛む。
戦えとも、行けとも言われなかった。その事実が、まだ体に馴染まない。
やっとで下ろした鎧の床に触れる音が、思った以上に鈍く、大きく響く。
アリシアが一瞬、肩を揺らす。
出会った頃から彼女は音に敏感だった。
「……ごめん」
反射的に出た言葉だった。
何に対しての謝罪なのか、自分でも分からない。
音に対してなのか。
驚かせたことに対してなのか。
分からない。
アリシアは首を横に振る。
「構いません、それよりそろそろ夕食です。着替えましょう」
それ以上、何も言わなかった。
部屋は簡素だった。
小さな卓と、二つの椅子。
寝台が二つ並び、窓は小さい。
――前は、もう一部屋借りていた。
そんな考えが浮かんで、リンカは無理やり視線を逸らす。
数を数えたって意味はない。頭では理解している。
着替えを済ませたころ、アリシアがベッドにぽん、と手を置き、「リンカ様」と、座る事を促す。
「髪――ときますね」
ベッドへ深く座り、アリシアに頭を預ける。
その手つきは、優しく、心地良い――
暫くすると、夕食が運ばれて来た。
それは宿の主人が用意してくれたものだ。
固いパンと、温いスープ。
肉は、少しだけ。
戦場で食べていた保存食よりは、ずっとまともだ。
それなのに、喉を通るまでに時間がかかった。
固いパンの歯応えが――生きている、と。
咀嚼する度に現実を突きつけてきた。
二人は向かい合って座り、黙って食事をしている。
スプーンが器に当たる音。
咀嚼のリズム。
それだけが、部屋にある。
リンカは気づいていた。
自分が、無意識にアリシアを見ていないことに。
正確には、見られない。
彼女がそこに“生きている”という事実を直視すると、
自分が失ったものの数が、よりはっきりしてしまうから。
今はそれでいいと、蓋をした。
アリシアは黙って食べていた。
時折、リンカの器が空きかけているのを見ると、
何も言わず、パンを半分に割って差し出す。
アリシアは会話も、食べる量も、昔から少なかった。
旅の最中でも、彼女は何も言わず皿を差し出した。
そういうことを、何度も繰り返してきた。
今も――その延長線にいる。
「……ありがとう」
「はい」
それだけ。
申し訳ないと思う。こんな弱音ばかり吐く私に、まだ気を使ってくれているなんて、と。
ふと、かつての食卓を、思い出す。
ノリアはいつも賑やかで、リンカと肉を奪い合い、クラウンは酒ばっかり飲んで、アランは二人には食い過ぎだ、お前は飲み過ぎだ。と注意する。
その輪の外で、アリシアは静かに微笑んでいた。
食事をするのは戦うためだと、思っていた。
本当は、皆でいる時間が好きだっただけなのに。
あの時は固いパンでさえ、やけに美味しかった。
――あの時から、アリシアは変わっていない。
ただそこに、いてくれる。
今はその沈黙が、食事の味を薄めていく。
腹が満たされると、心の空洞が際立つ。
胃が重く、息苦しい。
食事を終えると、リンカは椅子に深く腰を預けた。
背もたれに体重をかけた瞬間、骨の奥に溜まっていた疲労が、遅れて浮かび上がってくる。
身体ではなく、頭が重い。
息を吐くと、胸の内側が微かに軋んだ。
そのときだった。
廊下の向こうから、声が聞こえた。
扉一枚隔てただけの距離。意識しなければ聞き流せる程度の音量。
「……明後日だっけ、祝賀祭」
若い男の声だった。
楽しげで、気負いがなく、ただの雑談。
「そうそう。勇者様のやつ。街を挙げて、だってさ」
「すげえよなあ。魔王討伐だぞ? 物語みたいだ」
軽い笑い声が続く。
靴底が床を擦る音。歩きながら話しているらしい。
リンカは、反射的に呼吸を止めた。
「でもさ、実際どんな人なんだろな」
「そりゃあ、強いんだろ。怖いくらい」
「いや、意外と優しいかもよ? 英雄ってさ」
英雄。
その言葉が、胸の内で音を立てた。
会話は続く。
酒の話、露店の話、祝賀会の日は宿が混むだろうという話。
どれも、どうでもいい。
どうでもいいはずなのに、耳から離れない。
リンカは卓の上に視線を落とす。
空になった器。乾いたパン屑。
手を伸ばせば触れられる距離にある現実が、やけに遠い。
「……楽しみだな」
最後にそう言って、足音は遠ざかっていった。
廊下が静かになる。
残ったのは、耳鳴りにも似た沈黙だった。
リンカは、ようやく息を吐いた。
吐いたはずなのに、胸の奥が詰まったままだ。
顔を上げると、アリシアがこちらを見ていた。
いつから見ていたのかは、分からない。
彼女は何も言わない。
表情も、ほとんど変わらない。
ただ、ほんのわずかに眉が寄っている。
それだけ。
リンカは視線を逸らした。
「……ごめん」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
アリシアは首を横に振る。
否定でも肯定でもない、静かな仕草。
それ以上、何も言わなかった。
沈黙が戻る。
だが、さっきまでとは違っていた。
祝賀の話題は消えたはずなのに、
部屋の中には、まだ拍手の残響のようなものが漂っている。
リンカはそれを振り払うように、背もたれから体を起こした。
立ち上がる理由は、特にない。
ただ、座っているのが、少しだけ耐えられなかった。
「ねえ」
「……もう眠れそう?」
リンカの問いに、アリシアは少しだけ考えてから答える。
「眠れなくても、横にはなれます」
優しい声だった。
それが、胸に刺さる。
「……ごめん」
また、謝っていた。
アリシアは何も言わない。
否定もしない。
ただ、リンカの様子を見ている。それが分かる距離にいるのに、視線は重くない。触れられない程度の近さを、正確に保っている。
それが、かえって辛かった。
灯りを落とし、二人はそれぞれ寝台に横になる。
布越しに、隣の呼吸が分かる距離。
今日一日を、頭の中でなぞる。
街を歩いたこと。
店先で足を止めたこと。
誰かと並んで、目的もなく時間を使ったこと。
――あれは、デートだったのだろうか。
そう考えた瞬間、否定が浮かぶ。
そんな資格はない。
英雄だとか、勇者だとか、その前に。
自分はもう、何かを楽しんでいい人間じゃない。
小さく息を吐く。
吐いた分だけ、胸が軽くなるはずだった。
だが実際には、重さが増すだけだった。
暗闇の中で、リンカは目を閉じた。
――すぐに、夢が来た。
血の匂い。
鉄の味。
剣を振るう感触が、掌に蘇る。
叫び声。
泣き声。
怒号。
誰のものか、分からない。
いや、分かっている。
分かりたくないだけだ。
リンカは夢の中で立ち尽くしていた。
足元には、倒れた仲間たち。
顔は見えない。
それでも、名前は浮かぶ。
呼ぼうとして、声が出ない。
代わりに、誰かが言った。
――哀れだな。
はっと、目を開く。
天井が、そこにあった。
現実だ。
息が荒い。
胸が、苦しい。
汗が寝衣を濡らし、冷たく張り付いた。
喉から音が漏れそうになって、リンカは歯を食いしばる。
――起こしたくない。
そう思った瞬間、布が揺れた。
アリシアが静かに起き上がっている。
「……大丈夫ですか」
囁くような声。
リンカは首を横に振った。
言葉にすると、壊れてしまいそうだった。
アリシアは、リンカの寝台の縁に腰を下ろす。
触れない。
触れないけれど、そこにいる。
それだけで、呼吸が少しだけ落ち着く。
沈黙が流れる。
長い、長い沈黙。
やがて、リンカは小さく呟いた。
「……明後日、祝賀祭だね」
「はい」
「……嫌だな」
それは、本音だった。
アリシアは少しだけ目を伏せる。
「……そうですね」
同意でも、否定でもない。
それが、今の二人にとっての限界だった。
外では、夜風が吹いている。
遠くで、誰かの笑い声がした。
世界は、何事もなかったかのように回っている。
リンカは目を閉じる。
眠りに落ちるのが、怖かった。
目を覚ますのも、怖かった。
それでも、時間は進む。
祝賀祭まで、あと一日。
何も決まらないまま、
二人は同じ部屋で、同じ夜をやり過ごす。




