1.3 誰ノセイ。
王城を出た瞬間、街の空気は一変した。
凱旋の旗。
花束。
勇者の帰還を祝う歌声。
リンカの足は、自然とそちらを避けるように進んでいた。
石畳の賑やかな通りから外れ、人気の少ない路地へと向かう。影に身を滑り込ませるように。
――行かなきゃ。
分かっている。
でも足が前に出ない。
リンカは立ち止まり、拳を握った。
手袋越しでも分かるほど、手のひらが冷たい。
隣を歩いていたアリシアが、静かに声をかける。
「……大丈夫ですか」
その声音は、祈りのように柔らかかった。
だから余計に、リンカは目を逸らした。
「……大丈夫なわけ、ないでしょ」
吐き出すように言う。
「行けば、分かるんだよ。
私が、誰の人生を終わらせたのか」
アリシアは、すぐには答えなかった。
歩調を合わせたまま、リンカの半歩後ろに立つ。
「それでも……行くと、決めたのですよね」
「……決めたよ」
声が、掠れる。
「王様の前ではさ。
勇者として、ちゃんと答えた」
ちゃんと。
正しく。
間違いのない選択。
リンカは、乾いた笑みを浮かべた。
「でも今は……
逃げたいな」
アリシアは、何も言わなかった。
否定もしない。
肯定もしない。
ただ、リンカが再び歩き出すまで、そこにいた。
足取りは重く、時間が引き延ばされていく。
街外れへ向かうほど、祝祭の音は遠ざかり、代わりに生活の音が増えていく。
鍋をかき混ぜる音。
洗濯物を叩く音。
子どもの笑い声。
――この中に、もう笑えない家がある。
そう思った瞬間、胃の奥が締めつけられた。
⸻
最初の家の前に立ったとき、リンカは完全に動けなくなった。
木製の扉。
小さな花壇。
窓辺に干された、子どもの服。
――帰る場所が、ここだった。
「……リンカ様」
「分かってる」
言葉は強くても、声は弱かった。
「分かってるよ……私は、勇者なんだから……」
ノックをする。
一度。
二度。
返事はすぐだった。
「はい」
扉を開けた女性は、リンカを見るなり息を呑んだ。
期待と恐怖が、同時に浮かぶ顔。
「……勇者様、ですよね」
リンカは、深く頭を下げた。
「ご報告があります」
その一言で、全てが終わる。
家の中は、暖かかった。
食事の匂いが残り、食卓には未開封の手紙。
クラウンからのものだ。
「……夫は……?」
妻は、立ったまま尋ねた。
座ることすらできずに。
リンカは、用意された言葉を口にする。
「勇者を守り、魔族の攻撃を受け……
名誉ある戦死を遂げました」
崩れ落ちる音。
妻は、声を上げなかった。
ただ、床に膝をつき、顔を覆う。
声を殺して、啜り泣く。
奥から、子どもが出てきた。
クラウンの息子だろう、まだ幼い。
「お父さん?」と口にするでもなく、
リンカを見上げた。
泣かない。
叫ばない。
ただ、じっと。
リンカは、遺品の剣を差し出す。
「……これを」
子どもは、剣を見なかった。
リンカの顔だけを、焼き付けるように見ていた。
その沈黙が、何よりも重かった。
⸻
次の家は、門構えが違った。
石造りの立派な屋敷。
賢者の家。
両親は、リンカを丁重に迎えた。
「あの子は……やり遂げたの、ですね」
母は微笑み、そう言った。
その微笑が、リンカを切り裂いた。
「最後まで、仲間を支え続けました」
嘘ではない。
でも、真実でもない。
父は、手紙を握っていた。
「帰ったら、静かな場所で研究をしたいと……」
声が震える。
「孫の顔も、いつかは見せたいと」
リンカは、俯くしかなかった。
その夢を、奪ったのは誰だ。
⸻
最後の家では、騎士団の仲間と婚約者が待っていた。
「団長らしい最期だ」
誰かが言う。
「勇者様を守ったんだ、誇らしいよ」
婚約者は、涙を流しながら、頷いた。
「……彼は、幸せでしたか?」
その問いに、リンカは答えられなかった。
彼が幸せだったかなんて、分からなかったから。
ただ、いつも笑っていたな⸻それだけ。
⸻
アリシアを宿に帰し、事後処理を終えた頃、夜になっていた。
空腹を感じる自分に、吐き気がした。
――生きている。
宿舎の扉を開けると、アリシアが立っていた。
「お帰りなさいませ」
リンカは、一歩進み、力を失った。
床に崩れる直前、
細い腕が、確かに支えた。
逃げ場は、もうなかった。




