3.1 ユブネノナカデ。
衣装合わせと言葉の確認が終わった後、リンカは控えの間に通された。
長椅子に腰を下ろした途端、身体の奥に残っていた緊張が、遅れて浮かび上がってくる。
「少し、お時間を」
使者はそう言って、視線を外した。
「勇者様も聖女様も、大変お疲れだとお聞きし、湯殿の方を用意させていただいております」
断りの余地がある言い方ではなかった。
リンカは一瞬だけ考え、頷く。
拒む理由を、思いつけなかった。
――浴場は、思っていたよりも小さかった。
王城の一角に用意されたそれは、豪奢というより実用的で、飾り気がない。
白い石で組まれた湯船から、静かに湯気が立ち上っている。
香りは控えめで、強い薬草の匂いもしない。
リンカは、湯の音を聞きながら腰を下ろした。
ここでは、誰も名を呼ばない。
勇者様、とも。
その事実が、少しだけ肩を軽くした。
衣を脱ぐと、身体の線がはっきりと現れる。
傷跡は、礼装の下で隠されていたものだ。
数は減ったが、消えてはいない。
湯気が、視界を曇らせる。
先に洗い場へ向かったリンカが、腰を下ろす。
その背中を見て、アリシアは一瞬だけ迷った。
「……背中、流しますね」
問いかける形ではなかった。
それでも、リンカは振り返らない。
「ん」
短い返事。
桶の湯が、背中にかかる。
思ったよりも熱い。
それを確かめるように、布が触れる。
アリシアの動きは慎重だった。
傷を避け、触れないように、力を入れすぎないように。
何も言わない。
慰めもしない。
ただ、洗う。
リンカは、目を閉じた。
視線も、役割も、期待も求められない場所。
「……くすぐったいよ」
小さく漏れた声に、手が一瞬止まる。
「すみません」
「……ありがとう」
それだけ言って、リンカはまた黙った。
このひと時を、噛み締めるように。
背中を流してもらうという行為が、
これほど何も求められないものだったことを、初めて知った。
やがて、アリシアは布を離した。
――湯に足を入れると、熱がじわりと広がった。
「……熱い」
独り言が、湯気に吸われて消える。
ゆっくりと身体を沈める。
肩まで浸かった瞬間、息が小さく漏れた。
戦場では、熱さも冷たさも、気にしている余裕はなかったし、何より湯船に浸かる余裕なんてなかった。
――生きているかどうかだけが、すべてだった。
今は違う。
熱い、という感覚が、ちゃんと身体に届く。
それが、少し不思議だった。
遅れて、もう一つ扉が開く音がした。
控えめな足音。
振り向かなくても、分かる。
「……失礼します」
アリシアの声は、浴場では少し柔らかく響いた。
リンカは軽く頷くだけで、返事をしない。
今は、言葉を探すのが億劫だった。
アリシアも、それ以上は何も言わず、静かに湯へ入る。
水音が重なり、二人分になる。
しばらく、沈黙。
気まずさは、なかった。
必要以上に埋める気もない、自然な間。
リンカは、湯船の縁に肘をかけ、天井を見上げた。
石の継ぎ目に、湯気が絡んでいる。
「……久しぶりですね」
アリシアが、ぽつりと言った。
「こうして、何も考えずに入るお風呂」
リンカは、少し考えてから答える。
「そうかも」
短い返事。
だが、否定ではない。
アリシアは、その言葉だけで十分だった。
内心で、胸が少しだけ温かくなる。
リンカが“そうかも”と言うときは、だいたい本音だからだ。
湯の中で、リンカの肩がわずかに下がっているのが分かった。
力が抜けている。
それを見るたび、アリシアの胸は、きゅっと締め付けられる。
――今は、勇者じゃない。
ただの疲れた、十八歳の女の子だ。
そう思うと、無性に愛おしい。
「……リンカ様」
「あぇ……?」
無防備で、気の抜けた返事。
「のぼせたら、言ってくださいね」
言ってから、少し間を置く。
「……私が、引き上げますから」
リンカは、ほんの一瞬だけこちらを見た。
目が合う。
それだけで、アリシアは胸の奥が騒がしくなる。
顔には出さないが、内心は忙しい。
愛おしい。
守りたい。
触れたい。
でも、今は違う。
「大丈夫」
リンカは視線を戻し、そう言った。
「……今は、ここが一番楽だ」
その言葉に、アリシアは息を呑んだ。
楽。
リンカが、そう言った。
戦いの後で。
王城の中で。
英雄扱いされている最中に。
湯船の中が、一番楽だと。
「……そうですか」
声が、少しだけ震えそうになるのを堪える。
今は、抱きしめない。
肯定もしない。
ただ、同じ湯に浸かる。
それが、今できる最善だと分かっているから。
自分だけ楽になろうとは、思わない。
湯気の向こうで、リンカの表情は柔らいでいた。
眠そうにも見える。
その横顔を、アリシアはそっと目に焼き付ける。
言葉にしなくてもいい。
届いていなくてもいい。
それでも――
この距離だけは、手放したくなかった。
湯の音だけが、静かに続いていた。
誰でもない時間。
英雄でも、聖女でもない。
時間の感覚は、湯気の中で曖昧になっていた。




