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悔恨のユウシャ。  作者: 充電6%
3話 祝賀祭前日。
11/11

3.1 ユブネノナカデ。

 衣装合わせと言葉の確認が終わった後、リンカは控えの間に通された。

 長椅子に腰を下ろした途端、身体の奥に残っていた緊張が、遅れて浮かび上がってくる。


「少し、お時間を」


 使者はそう言って、視線を外した。


「勇者様も聖女様も、大変お疲れだとお聞きし、湯殿の方を用意させていただいております」


 断りの余地がある言い方ではなかった。


 リンカは一瞬だけ考え、頷く。

 拒む理由を、思いつけなかった。


 

 ――浴場は、思っていたよりも小さかった。


 王城の一角に用意されたそれは、豪奢というより実用的で、飾り気がない。

 白い石で組まれた湯船から、静かに湯気が立ち上っている。

 香りは控えめで、強い薬草の匂いもしない。


 リンカは、湯の音を聞きながら腰を下ろした。

 ここでは、誰も名を呼ばない。

 勇者様、とも。


 その事実が、少しだけ肩を軽くした。


 衣を脱ぐと、身体の線がはっきりと現れる。

 傷跡は、礼装の下で隠されていたものだ。

 数は減ったが、消えてはいない。


 湯気が、視界を曇らせる。

 先に洗い場へ向かったリンカが、腰を下ろす。

 その背中を見て、アリシアは一瞬だけ迷った。


「……背中、流しますね」


 問いかける形ではなかった。

 それでも、リンカは振り返らない。


「ん」


 短い返事。


 桶の湯が、背中にかかる。

 思ったよりも熱い。

 それを確かめるように、布が触れる。


 アリシアの動きは慎重だった。

 傷を避け、触れないように、力を入れすぎないように。


 何も言わない。

 慰めもしない。


 ただ、洗う。


 リンカは、目を閉じた。

 

 視線も、役割も、期待も求められない場所。


「……くすぐったいよ」


 小さく漏れた声に、手が一瞬止まる。


「すみません」


「……ありがとう」


 それだけ言って、リンカはまた黙った。

 このひと時を、噛み締めるように。

 

 背中を流してもらうという行為が、

 これほど何も求められないものだったことを、初めて知った。

 

 やがて、アリシアは布を離した。

 


 ――湯に足を入れると、熱がじわりと広がった。


「……熱い」

 独り言が、湯気に吸われて消える。


 ゆっくりと身体を沈める。

 肩まで浸かった瞬間、息が小さく漏れた。


 戦場では、熱さも冷たさも、気にしている余裕はなかったし、何より湯船に浸かる余裕なんてなかった。

 

 ――生きているかどうかだけが、すべてだった。


 今は違う。

 熱い、という感覚が、ちゃんと身体に届く。


 それが、少し不思議だった。


 遅れて、もう一つ扉が開く音がした。

 控えめな足音。


 振り向かなくても、分かる。


「……失礼します」


 アリシアの声は、浴場では少し柔らかく響いた。


 リンカは軽く頷くだけで、返事をしない。

 今は、言葉を探すのが億劫だった。


 アリシアも、それ以上は何も言わず、静かに湯へ入る。

 水音が重なり、二人分になる。


 しばらく、沈黙。


 気まずさは、なかった。

 必要以上に埋める気もない、自然な間。


 リンカは、湯船の縁に肘をかけ、天井を見上げた。

 石の継ぎ目に、湯気が絡んでいる。


「……久しぶりですね」


 アリシアが、ぽつりと言った。

 

「こうして、何も考えずに入るお風呂」


 リンカは、少し考えてから答える。

「そうかも」


 短い返事。

 だが、否定ではない。


 アリシアは、その言葉だけで十分だった。


 内心で、胸が少しだけ温かくなる。

 リンカが“そうかも”と言うときは、だいたい本音だからだ。


 湯の中で、リンカの肩がわずかに下がっているのが分かった。

 力が抜けている。


 それを見るたび、アリシアの胸は、きゅっと締め付けられる。


 ――今は、勇者じゃない。

 ただの疲れた、十八歳の女の子だ。


 そう思うと、無性に愛おしい。


「……リンカ様」


「あぇ……?」

 無防備で、気の抜けた返事。


「のぼせたら、言ってくださいね」


 言ってから、少し間を置く。


「……私が、引き上げますから」


 リンカは、ほんの一瞬だけこちらを見た。

 目が合う。


 それだけで、アリシアは胸の奥が騒がしくなる。

 顔には出さないが、内心は忙しい。


 愛おしい。

 守りたい。

 触れたい。

 でも、今は違う。


「大丈夫」

 リンカは視線を戻し、そう言った。


「……今は、ここが一番楽だ」


 その言葉に、アリシアは息を呑んだ。


 楽。

 リンカが、そう言った。


 戦いの後で。

 王城の中で。

 英雄扱いされている最中に。


 湯船の中が、一番楽だと。


「……そうですか」


 声が、少しだけ震えそうになるのを堪える。


 今は、抱きしめない。

 肯定もしない。

 ただ、同じ湯に浸かる。


 それが、今できる最善だと分かっているから。

 自分だけ楽になろうとは、思わない。


 湯気の向こうで、リンカの表情は柔らいでいた。

 眠そうにも見える。


 その横顔を、アリシアはそっと目に焼き付ける。


 言葉にしなくてもいい。

 届いていなくてもいい。


 それでも――


 この距離だけは、手放したくなかった。



 湯の音だけが、静かに続いていた。


 誰でもない時間。

 英雄でも、聖女でもない。

 時間の感覚は、湯気の中で曖昧になっていた。

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