3.0 クウハク。
朝は、思ったよりも静かに始まった。
宿の窓から差し込む光は柔らかく、薄いカーテンを透かして床に落ちている。
埃がゆっくりと舞っているのが見えた。
時計の音すら聞こえないのに、時間だけが進んでいる気がした。
リンカはベッドの上で、しばらく天井を見つめていた。
木目の継ぎ目。
小さな染み。
以前からあったものなのか、昨日ついたものなのか分からない痕。
意識ははっきりしているのに、起き上がる理由が見つからなかった。
夢は、見なかった。
正確には、覚えていない。
目を閉じれば、いつもなら何かしら残っている。
血の匂い。
金属がぶつかる音。
誰かの叫び声。
それらが一切ない朝は、かえって落ち着かなかった。
頭の中が、妙に広い。
何かを置き忘れたまま、扉だけ閉めてきたような感覚が胸の奥に残っている。
呼吸をすると、肺が静かに膨らんだ。
浅くもなく、苦しくもない。
それが、少しだけ不安だった。
身体を起こすと、関節が小さく鳴った。
どこも痛まない。
昨日まで確かにあったはずの重さや違和感が、きれいに消えている。
戦いは終わったのだと、頭では理解している。
理解しているはずなのに、身体がそれを信用していない。
隣のベッドでは、アリシアがすでに身支度を整えていた。
衣擦れの音は最小限で、こちらを起こさないよう気を配っているのが分かる。
リンカは、その背中をしばらく見ていた。
声をかけるタイミングを測っているわけでもない。
ただ、そこに誰かがいるという事実を確認していた。
「……おはよう」
ようやく声を出すと、自分の声がやけに遠く聞こえた。
感情が乗っていない、乾いた音だった。
アリシアは一瞬だけ肩を揺らし、振り向く。
「おはようございます、リンカ様」
いつも通りの声音。
柔らかく、丁寧で、崩れない。
その距離感も、昨日までと変わらない。
それなのに、なぜか少しだけ遠く感じた。
リンカは、その違和感を言葉にしなかった。
理由を探そうとすると、思考が空回りする。
考えようとすると、何も浮かばない。
代わりに、胸の奥の空白だけが、静かに広がっていった。
それから言葉を交わさぬまま、朝食を終えた直後だった。
アリシアの視線が一瞬、リンカに移るが、すぐに目を逸らした。
木皿は空になり、温かかったはずのスープも冷え始めている。
食べた量は、昨日より少なかった。
味は分かっていたはずなのに、記憶に残っていない。
リンカは匙を置き、指先についた水滴を布で拭う。
その動作だけが、やけに丁寧だった。
そのときだ。
階段を上がってくる足音が聞こえた。
一人ではない。
重なりすぎず、離れすぎず。
一定の間隔で、規則正しく刻まれる。
揃っている。
迷いがない。
戦場で、何度も聞いた種類の歩き方だった。
胸の奥が、無意識に強張る。
身体が、先に構える。
宿の廊下を進む音が、次第にこちらへ近づいてくる。
止まる気配がした瞬間、リンカは扉の方を見た。
ノックは三回。
簡潔で、間延びのない音。
中の様子を窺うつもりも、待つつもりもない。
扉を開けると、城の紋章を付けた使者が立っていた。
若い。
だが背筋は真っ直ぐで、視線は揺れていない。
役目を理解し、疑問を挟まない顔だった。
「勇者リンカ様。王城より使いで参りました」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で鈍い音が鳴った。
またか、と思う。
戦いが終わっても、呼ばれる。
剣を置いても、名は使われる。
「祝賀会に向けた準備について、ご案内とお願いがございます」
お願い、という言葉に、リンカは何も期待しなかった。
それが選択肢を意味しないことは、最初から分かっている。
背後で、アリシアが一歩前に出る気配がした。
「今すぐに、でしょうか」
声は穏やかだが、僅かに張り詰めている。
リンカより先に、状況を測っている。
「はい。本日中に済ませていただきたいと」
本日中。
その言葉だけが、少し遅れて意味を持つ。
休息は、もう終わりらしい。
リンカは短く息を吐いた。
深く吸うことはしなかった。
「分かった。行く」
声には、感情が乗らなかった。
断る理由も、問う理由も、もう思いつかない。
――王城の一角だった。
通された廊下は、いつもより静かだった。
兵士の数は多いが、声は抑えられている。
足音だけが、磨かれた床に反響していた。
リンカは、その音を数えていた。
一歩ごとに、距離が増えていく気がしたからだ。
何から離れているのかは、分からない。
扉の前で足が止まる。
「こちらです」
使者に促され、中へ入ると、空気が変わった。
布の匂い。
新品の革。
わずかな香油。
戦場にはなかった匂いばかりだ。
あまり得意ではない。
そこは、小さな広間だった。
だが、必要なものだけが過不足なく揃えられている。
布。
鏡。
裁縫道具。
台に並べられた衣装。
「衣装合わせを行います」
年配の仕立て係が、当然のように告げた。
説明というより、確認に近い口調だった。
「……衣装?」
言葉にすると、少し遅れて実感が追いつく。
「祝賀会用です。各国要人の方も多数お越しになられるそうで。そのため勇者様には、相応しい装いが必要、と仰せつかっております」
相応しい。
その言葉が、喉の奥に引っかかった。
リンカは無意識に、自分の腕を見る。
薄く残った傷跡。
鎧の下で、何度も塞がり、また裂けた場所だ。
戦場で着ていた鎧は、血と土にまみれていた。
何度も修繕し、叩き直した。
仲間の命を守った、証でもある。
だが、それはここにはない。
最初から、数に入っていない。
差し出されたのは、白を基調とした礼装だった。
装飾は控えめだが、布の質は明らかに高い。
光を柔らかく反射し、汚れを拒む色。
「……重そうだな」
思わず漏れた言葉に、仕立て係は小さく笑った。
「見た目ほどではありませんよ。動きやすさも考慮しております」
動きやすさ。
祝賀会で、剣を振ることはない。
走る必要も、避ける必要もない。
それでも、そう言われると安心してしまう自分がいることに、リンカは気づいた。
着替えを促され、無言で従う。
鎧を外すと、身体が軽くなった。
同時に、どこか心許なくなる。
布が肌に触れる感触は、柔らかすぎた。
守られている、という実感がない。
代わりに、温かく包まれているという感覚だけが残る。
これは、誰の手も感じない。
鏡の前に立たされ、息をつく。
そこに映っていたのは、見慣れない人物だった。
傷は隠され、影も薄められている。
血の痕も、戦の名残もない。
勇者、というより――
飾られた像に近い。
「よくお似合いです」
誰かがそう言った。
リンカは、頷けなかった。
鏡の中の人物が、自分だと確信できなかったからだ。
これが望まれた勇者の姿なのだろうか。
胸の奥が、静かに空いていく。
そこに何があったのかは、思い出せない。
ただ、埋められていく感覚だけが、確かだった。
次に渡されたのは、薄い紙の束だった。
数枚。
端正な文字で、整然と並んでいる。
「祝賀会でのお言葉です」
使者は淡々と説明した。
「勇者リンカ様から、民へ向けた挨拶になります。
勝利への感謝、魔王討伐の意義、そして今後の平和について。
式次第に沿って、読み上げていただければ」
リンカは、すぐには受け取らなかった。
紙の白さが、やけに目につく。
血も、汚れもない。
戦場とは無縁の色だ。
「……この通りに?」
「はい。要点は外さないように、と」
要点。
リンカはようやく紙を受け取り、視線を落とした。
――我々は、多くの困難を乗り越え、魔王を討ち果たしました。
――この勝利は、王国の導きと、民の支えがあったからこそ成し得たものです。
――勇者として、皆様に深い感謝を……
言葉は滑らかだった。
耳障りもいい。
誰かが聞けば、胸を打たれるのかもしれない。
だが。
どこにも、名前がなかった。
アランも。
クラウンも。
ノリアも。
剣を折った者の名も、
盾になった者の名も、
最後まで立っていた者の名も。
ただ、一人分の勝利だけが、そこにあった。
「……」
喉が動いたが、声は出なかった。
紙をめくる。
二枚目。
三枚目。
やはり、ない。
功績は「勇者一行」とまとめられ、
死は「多くの犠牲」という一文で処理されている。
それ以上でも、それ以下でもない。
「これは……」
リンカの声は、自分でも驚くほど平坦だった。
「このまま話さないと、いけない……ですか」
使者は一瞬だけ、視線を泳がせた。
「……言い回しを多少変えていただく分には」
「ただし、趣旨は崩さぬように、と」
趣旨。
勝利。
希望。
未来。
血の重さは、含まれていない。
リンカは紙を折り、丁寧に畳んだ。
破る気には、なれなかった。
「分かった」
それだけ言って、懐にしまう。
胸の内側に、薄い紙が一枚挟まったような感覚がした。
軽いのに、妙に邪魔だった。
顔を上げると、アリシアが少し離れた場所に立っていた。
何も言わず、こちらを見ている。
視線が合う。
アリシアは、紙の中身を見ていない。
それでも、何かが削られたことだけは、分かったような目をしていた。
リンカは、目を逸らした。
仲間の名前が消えたことを、
誰かに見られるのが、ひどく怖かった。
英雄用の言葉は、完成していた。
そこに立つ人間だけが、
まだ、完成していなかった。




