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悔恨のユウシャ。  作者: 充電6%
3話 祝賀祭前日。
10/11

3.0 クウハク。

 朝は、思ったよりも静かに始まった。

 宿の窓から差し込む光は柔らかく、薄いカーテンを透かして床に落ちている。

 埃がゆっくりと舞っているのが見えた。

 時計の音すら聞こえないのに、時間だけが進んでいる気がした。


 リンカはベッドの上で、しばらく天井を見つめていた。


 木目の継ぎ目。

 小さな染み。

 以前からあったものなのか、昨日ついたものなのか分からない痕。


 意識ははっきりしているのに、起き上がる理由が見つからなかった。


 夢は、見なかった。

 正確には、覚えていない。


 目を閉じれば、いつもなら何かしら残っている。

 血の匂い。

 金属がぶつかる音。

 誰かの叫び声。


 それらが一切ない朝は、かえって落ち着かなかった。

 頭の中が、妙に広い。

 何かを置き忘れたまま、扉だけ閉めてきたような感覚が胸の奥に残っている。


 呼吸をすると、肺が静かに膨らんだ。

 浅くもなく、苦しくもない。


 それが、少しだけ不安だった。


 身体を起こすと、関節が小さく鳴った。

 どこも痛まない。

 昨日まで確かにあったはずの重さや違和感が、きれいに消えている。


 戦いは終わったのだと、頭では理解している。

 理解しているはずなのに、身体がそれを信用していない。


 隣のベッドでは、アリシアがすでに身支度を整えていた。

 衣擦れの音は最小限で、こちらを起こさないよう気を配っているのが分かる。


 リンカは、その背中をしばらく見ていた。

 声をかけるタイミングを測っているわけでもない。

 ただ、そこに誰かがいるという事実を確認していた。


「……おはよう」


 ようやく声を出すと、自分の声がやけに遠く聞こえた。

 感情が乗っていない、乾いた音だった。


 アリシアは一瞬だけ肩を揺らし、振り向く。

「おはようございます、リンカ様」


 いつも通りの声音。

 柔らかく、丁寧で、崩れない。


 その距離感も、昨日までと変わらない。

 それなのに、なぜか少しだけ遠く感じた。


 リンカは、その違和感を言葉にしなかった。

 理由を探そうとすると、思考が空回りする。


 考えようとすると、何も浮かばない。

 代わりに、胸の奥の空白だけが、静かに広がっていった。

 それから言葉を交わさぬまま、朝食を終えた直後だった。

 アリシアの視線が一瞬、リンカに移るが、すぐに目を逸らした。


 木皿は空になり、温かかったはずのスープも冷え始めている。

 食べた量は、昨日より少なかった。

 味は分かっていたはずなのに、記憶に残っていない。


 リンカは匙を置き、指先についた水滴を布で拭う。

 その動作だけが、やけに丁寧だった。


 そのときだ。


 階段を上がってくる足音が聞こえた。


 一人ではない。

 重なりすぎず、離れすぎず。

 一定の間隔で、規則正しく刻まれる。


 揃っている。

 迷いがない。


 戦場で、何度も聞いた種類の歩き方だった。


 胸の奥が、無意識に強張る。

 身体が、先に構える。


 宿の廊下を進む音が、次第にこちらへ近づいてくる。

 止まる気配がした瞬間、リンカは扉の方を見た。


 ノックは三回。


 簡潔で、間延びのない音。

 中の様子を窺うつもりも、待つつもりもない。


 扉を開けると、城の紋章を付けた使者が立っていた。

 若い。

 だが背筋は真っ直ぐで、視線は揺れていない。

 役目を理解し、疑問を挟まない顔だった。


「勇者リンカ様。王城より使いで参りました」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で鈍い音が鳴った。


 またか、と思う。


 戦いが終わっても、呼ばれる。

 剣を置いても、名は使われる。


「祝賀会に向けた準備について、ご案内とお願いがございます」


 お願い、という言葉に、リンカは何も期待しなかった。

 それが選択肢を意味しないことは、最初から分かっている。


 背後で、アリシアが一歩前に出る気配がした。

「今すぐに、でしょうか」


 声は穏やかだが、僅かに張り詰めている。

 リンカより先に、状況を測っている。


「はい。本日中に済ませていただきたいと」


 本日中。


 その言葉だけが、少し遅れて意味を持つ。

 休息は、もう終わりらしい。


 リンカは短く息を吐いた。

 深く吸うことはしなかった。


「分かった。行く」


 声には、感情が乗らなかった。

 断る理由も、問う理由も、もう思いつかない。


 

 ――王城の一角だった。


 通された廊下は、いつもより静かだった。

 兵士の数は多いが、声は抑えられている。

 足音だけが、磨かれた床に反響していた。


 リンカは、その音を数えていた。

 一歩ごとに、距離が増えていく気がしたからだ。

 何から離れているのかは、分からない。


 扉の前で足が止まる。

 

 「こちらです」


 使者に促され、中へ入ると、空気が変わった。


 布の匂い。

 新品の革。

 わずかな香油。


 戦場にはなかった匂いばかりだ。

 あまり得意ではない。

 

 そこは、小さな広間だった。

 だが、必要なものだけが過不足なく揃えられている。


 布。

 鏡。

 裁縫道具。

 台に並べられた衣装。


「衣装合わせを行います」


 年配の仕立て係が、当然のように告げた。

 説明というより、確認に近い口調だった。


「……衣装?」


 言葉にすると、少し遅れて実感が追いつく。


「祝賀会用です。各国要人の方も多数お越しになられるそうで。そのため勇者様には、相応しい装いが必要、と仰せつかっております」


 相応しい。

 その言葉が、喉の奥に引っかかった。


 リンカは無意識に、自分の腕を見る。

 薄く残った傷跡。

 鎧の下で、何度も塞がり、また裂けた場所だ。


 戦場で着ていた鎧は、血と土にまみれていた。

 何度も修繕し、叩き直した。

 仲間の命を守った、証でもある。


 だが、それはここにはない。

 最初から、数に入っていない。


 差し出されたのは、白を基調とした礼装だった。

 装飾は控えめだが、布の質は明らかに高い。

 光を柔らかく反射し、汚れを拒む色。


「……重そうだな」


 思わず漏れた言葉に、仕立て係は小さく笑った。


「見た目ほどではありませんよ。動きやすさも考慮しております」


 動きやすさ。


 祝賀会で、剣を振ることはない。

 走る必要も、避ける必要もない。


 それでも、そう言われると安心してしまう自分がいることに、リンカは気づいた。


 着替えを促され、無言で従う。


 鎧を外すと、身体が軽くなった。

 同時に、どこか心許なくなる。


 布が肌に触れる感触は、柔らかすぎた。

 守られている、という実感がない。

 代わりに、温かく包まれているという感覚だけが残る。

 これは、誰の手も感じない。


 鏡の前に立たされ、息をつく。

 そこに映っていたのは、見慣れない人物だった。


 傷は隠され、影も薄められている。

 血の痕も、戦の名残もない。


 勇者、というより――

 飾られた像に近い。


「よくお似合いです」


 誰かがそう言った。


 リンカは、頷けなかった。

 鏡の中の人物が、自分だと確信できなかったからだ。

 これが望まれた勇者の姿なのだろうか。


 胸の奥が、静かに空いていく。


 そこに何があったのかは、思い出せない。

 ただ、埋められていく感覚だけが、確かだった。


 次に渡されたのは、薄い紙の束だった。


 数枚。

 端正な文字で、整然と並んでいる。


「祝賀会でのお言葉です」


 使者は淡々と説明した。


「勇者リンカ様から、民へ向けた挨拶になります。

 勝利への感謝、魔王討伐の意義、そして今後の平和について。

 式次第に沿って、読み上げていただければ」


 リンカは、すぐには受け取らなかった。


 紙の白さが、やけに目につく。

 血も、汚れもない。

 戦場とは無縁の色だ。


「……この通りに?」


「はい。要点は外さないように、と」


 要点。


 リンカはようやく紙を受け取り、視線を落とした。


 ――我々は、多くの困難を乗り越え、魔王を討ち果たしました。

 ――この勝利は、王国の導きと、民の支えがあったからこそ成し得たものです。

 ――勇者として、皆様に深い感謝を……


 言葉は滑らかだった。

 耳障りもいい。

 誰かが聞けば、胸を打たれるのかもしれない。


 だが。


 どこにも、名前がなかった。


 アランも。

 クラウンも。

 ノリアも。


 剣を折った者の名も、

 盾になった者の名も、

 最後まで立っていた者の名も。


 ただ、一人分の勝利だけが、そこにあった。


「……」


 喉が動いたが、声は出なかった。


 紙をめくる。

 二枚目。

 三枚目。


 やはり、ない。


 功績は「勇者一行」とまとめられ、

 死は「多くの犠牲」という一文で処理されている。


 それ以上でも、それ以下でもない。


「これは……」


 リンカの声は、自分でも驚くほど平坦だった。


「このまま話さないと、いけない……ですか」


 使者は一瞬だけ、視線を泳がせた。


「……言い回しを多少変えていただく分には」

 「ただし、趣旨は崩さぬように、と」


 趣旨。


 勝利。

 希望。

 未来。


 血の重さは、含まれていない。


 リンカは紙を折り、丁寧に畳んだ。

 破る気には、なれなかった。


「分かった」


 それだけ言って、懐にしまう。


 胸の内側に、薄い紙が一枚挟まったような感覚がした。

 軽いのに、妙に邪魔だった。


 顔を上げると、アリシアが少し離れた場所に立っていた。

 何も言わず、こちらを見ている。


 視線が合う。


 アリシアは、紙の中身を見ていない。

 それでも、何かが削られたことだけは、分かったような目をしていた。


 リンカは、目を逸らした。


 仲間の名前が消えたことを、

 誰かに見られるのが、ひどく怖かった。


 英雄用の言葉は、完成していた。


 そこに立つ人間だけが、

 まだ、完成していなかった。


 

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