自分にとっての創作論
それで……結局のところ、「正解」の創作論とは何なのか。
ここまでのダラダラとした文字列を眺め、何となく察しているかもしれないが、個人個人に対する定義には相当な文章量が必要となる。それは、創作者各々の個別な事情によって、正解が多種多様に分岐するからである。
「正解」の創作論とは、決して外側に完成された形で存在しているのではない。創作論は、作品と同じく、読み手の内部で初めて形を獲得する。ある助言が的確に作用するとき、それは創作者の創作目的・美的感覚が、偶然にもその言葉と共鳴した瞬間である。逆に、そのどちらか一つでも噛み合わなければ、その助言は雑音へと変わる。
ゆえに、「正解」の創作論は「鏡」である。
創作者自身に内在する価値観を照らし出すか否か、そんな無意識下の選別に勝ち抜いた文章が、有効な創作論として機能するのだ。それは極めて個別的で、相対的な存在である。
この結論を踏まえて、創作論を書きたくなった際はどのような姿勢で臨むのが良いか。これに関しても、常識やモラルを守るのは当然として──明確な回答を提示するのは野暮であろう。私の場合は「余白」が効果的だと述べたが、それは一個人の矮小な価値観に過ぎない。
その上で、あくまで個人的な願望として、「正解の押し付け」ではない形が望ましいと思っている。当然、それは読者に対して考える余地を与えないこととなり、公式だけ覚えた数学の授業のように、彼らの予後が悲惨になりかねない。
一方で、ある人にとって正しいと言える創作論は、先ほど述べたように「鏡」なのだ。つまり、創作論の執筆は自らの価値観を見つめ直す機会となる。このとき「正解の押し付け」は、自身への盲信を深めていく始点となるやもしれない。読者にとっても、執筆者にとっても、創作論とは近すぎず・遠すぎずの距離を保つことが良いと私は思う。
創作論が鏡であるのなら、放たれた言葉が誰かに反射するかどうかは、執筆者の手を離れている。耳を傾けてくれる者がいれば幸運だし、何も響かずに通り過ぎるなら、それもまた自然である。その自由を許容するようなアプローチこそが、読者への誠実さなのではないか。
これはまた、猫(現実としての)を観察しているときの感想に近い。
我々は猫を制御することは出来ず、ただそっと、彼らに餌を差し出すのが精一杯である。だが、それが我々と猫の間の、自然で、健全な形なのだろう。




