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過去作における矛盾

 ……「猫らしさを恐れないでほしい」。


 以上の論述を踏まえると、このフレーズも批判的に見ることが可能である。まず明らかなことは、このフレーズが効力を持つのは「すでに猫的な美を志向している読者」に限られる、という点だ。言い換えれば、この励ましは無条件の普遍的処方ではない。場合によっては、受け手の創作方針と衝突し、期待とは反対の結果を招きうる。


 もう一つ指摘しておくべきは、このフレーズの根拠が客観的データではなく、私の個人的嗜好であるという事実だ。私は一読者として、色濃い個性が表れた作品を好む。だが、そのサンプル数一の嗜好を「論説文」風エッセイの結びに据えるなら、それは読者へ示す普遍的な処方というよりも、あくまで私個人の宣言にとどまる。読者によってはそれを不親切と受け取るだろうし、実利を求める創作者にとっては指針として価値を持たないかもしれない。


 また、その一節の後に、エッセイはこのように締められる。「あなた方の『美』は共有可能なのである」。


 この一文は、締めに至るまでに書いてきた内容を、根本から否定しうる代物である。そのため、「ここでは猫は好かれない」に寄せられた感想も、ある意味で的を射ているのだ。該当作品には、以下のような感想(一部抜粋させていただく)が書かれていた。


 《…………はぁ、読んだら面白かったよ。

 刺激が少ないけど穏やかな良い作品だ。

 認めるよ、君の作品は中身のある文章だ。

 ただ評価されていない理由も分かる。

 俺なら君の作品に金は支払わない。》


 おそらく、私の過去作品に触れた上で感想を書いてくださったのだろう。ありがたいことである。しかし正直なところ、その意図は理解しがたい部分もあった。エッセイ「ここでは猫は好かれない」は、「猫的な作品」へのエールを送る内容である。そこでは、自著含めた各作品について、客観的な評価を重要視していたわけではないからだ。


 私はあくまで、「猫的な作品」を好む一読者としての立場に立っていた。当該エッセイを通し、私の作品の優越性を主張したり、現在評価されている作品群を非難するつもりは全くなかったのである。自作はそもそも、私が擁護しているような「猫的な作品」ではない。また、現在高評価を受けている文章の中には、キャラクター性や世界観で読者を惹きつけながら、高い純文学性を有しているものもある。感想の意図を考えたとき、二分法の欠点が出てしまったことや、「犬」「猫」がメタファーと現実を混同させてしまった可能性を考えた。その中で、原因の一つは締めの文章にあったのではないかという気づきに至った。


「あなた方の『美』は共有可能なのである」。ここで言う「共有可能な『美』」とは、エッセイ中盤において論じたように、個々人の内面にある美的感覚の対象が、作者の表現を通じて他者にも伝わり得ることを指す。すなわち、「猫的な作品」の美しさは、万人に受け入れられるかどうかとは無関係に、特定の読者に深い共鳴や感動を引き起こす可能性があるということである。


 しかし、その締め方には暗黙の前提がある。「猫的な作品」の作者は、いずれも「共有可能な『美』」を求めているという前提である。彼らの主目的は、「自らの美的感覚と沿う作品の創造」であり、それが他者の評価軸と重なりうるか否かは、本質的に重要ではない。そのことを文章中で示したにもかかわらず、私は「猫的な」作者に対し、「犬的な」エールを送ってしまったのである。これはある意味で、私がメタファーとして指した「猫」ではないことを示しているが、当然論評としては相応しくない。


 これでは私に対し、「犬的な」視点を共有した批判が届くのも無理はない。現実として、私の創作論は「誤解を生じさせてしまった」のである。


 では、どうすれば良かったのか?

 改めて、「正解の創作論」を語る上で必要な前提へ目を向けよう。


 《 創作者にとって適切な創作論は、彼らが何を目的に創作しているかに依存する。次に、目的を同じくした創作論に従っても、美的感覚の違いにより、必ずしも目的達成ができるわけではない。》


 エッセイ「ここでは猫は好かれない」をこの前提へと当てはめると、二つの前提に対応するように、二つの問いが浮かび上がる。


 一つ目の問いとして、一体誰にとって適切な創作論であるのか。

 二つ目の問いとして、どのような美的感覚を持つ読者に受け入れられるのか。


 一つ目の問いに答えるならば、その範囲は比較的広くなる。「猫らしさ(自分らしさ)を評価されたい創作者」だ。彼らが「犬」「猫」であるか、現状評価を得られているかは、ここでは関係ないのである。どんなに読者への手厚い配慮を行っていても、「個性を評価されたい」という願望は大方の人間にとって共通するだろう。だからこそ、根拠の弱い感情論であろうと、「あなた方の『美』は共有可能なのである」というフレーズは、彼らの願望と重なりうる。当然、先に述べたように、このフレーズは読者を誤った方向性へ導く可能性を秘めている。


 二つ目の問いに答えるならば、それこそが「猫的な作品を好んで書く創作者」だろう。彼らは自己の美的感覚を優先する者であり、評価やランキングは二次的な関心事に過ぎない。読者の反応に合わせて筆を左右されることなく、独自の文体や描写を追求する意志を持つ者。彼らの作品について、客観的な出来は関係ないのである。そうした創作者に対してこそ、「猫らしさを恐れないでほしい」という言葉は、初めて背中を押す力を持つ。逆に、そういった文章が独りよがりに映る者には受け入れがたいだろう。彼らにとっては、私の言葉はむしろ不親切であり、実利を伴わない指針と映るはずである。


 これらの前提の間には、功を奏する読者層に大きな数のギャップがある。一つ目の前提はより多くの読者へ効果があることに対し、二つ目の前提では一気に対象数を絞ってしまっている。


 この「想定読者のズレ」が、私の文章に生じた最大の問題である。比喩(犬・猫)が説明の便宜として有効である反面、その役割が多義的となってしまっため、読者の受け止め方にムラが生じたのだ。締めの一文を局所的に修正し、あらかじめ「このエッセイは主として『自己の美的感覚を優先する創作者』に向けられたものである」といった注記を置いていれば、誤解はかなり軽減されたかもしれない。


 これらの反省は、読み手の価値観に沿うための工程で、メタファーでいう「犬的な」修正である。一方、同時に文章全体の完成度を高める効果もあり、人によっては芸術性の向上を感じうるだろう。つまり、私は「犬」「猫」に貴賤をつけたかったわけではない。それは単なる創作姿勢の違いであり、どちらかが芸術的・非芸術的というわけでもない。評価を得やすいのは前者であろう。また、私が好んで読むのは後者であろう。その両立だって可能である。


 犬と猫、評価と志向、普遍と特殊。どれか一つを切り捨てる必要はないし、完全に切り捨てることは不可能だ。だが今回の件で、どの輪郭に沿って語っているのかを明確にすることの重要性を認識した。その余白こそ、誤読を減らし、なおかつ「本当に背中を押す」という行為について、誠実さを保つ最低限の条件なのかもしれない。

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