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創作論に責任はあるのか?

 ここまで述べてきたのは、「どの創作論が『正解』なのか」という問いに必要な前提である。創作者にとって適切な創作論は、まず何より彼ら自身の創作目的に依存する。そして、たとえ目的が一致していようとも、美的感覚の差によって、その創作論が同じ効果をもたらすとは限らない。五千字も費やさずとも直感的にわかることだ。


 なぜ、こんな当然の話を丁寧に書き起こしたのか。それは、創作論が技法や心得を列挙するだけの「中立的な道具」ではなく、受け手の目的や価値観と相互作用しながら効力を変える、相対的な存在であることを確認してもらうためだ。創作論の効果は均質ではない。この「結果の不均質性」が、創作論を語る者の責任をめぐる問題を生じさせる。


 そのことを実感したのが、先日投稿したエッセイ「ここでは猫は好かれない」だった。私はそこで、「犬=読者の美的感覚に寄り添う作品」「猫=自己の美的感覚を貫く作品」という比喩を用い、猫らしさを恐れるなと書いた。しかし投稿後、ふと疑問が浮かんだ。


「猫らしさを貫いた結果の地獄に対する責任は、誰が負うのか?」


 ここでいう「地獄」とは比喩的なものである。自分らしさを核とする創作者にとって、猫的であることは何の不利益ももたらさない。しかし、私の言葉に背中を押された読者の中には、今まで試行錯誤を続けてきた作風を手放し、「読みづらい」と言われてきた元来の文体へ戻る者もいるかもしれない。それは創作的な「停滞」や「退化」に映るかもしれない。もちろん、それらはあくまで私の主観的な危惧でしかない。それでも、創作論を発信する立場からすれば、その危惧自体が無視できない重みを帯びる。


 私はエッセイで「猫は評価されづらい」「日の目を浴びない」と散々に書いた。そのうえで「恐れず猫であれ」と締めた。もしそれを受け取った誰かが創作姿勢を変え、その結果として得られたはずの評価や読者を失ったとしたら――その未来は、彼らにとって相対的な「地獄」とも言えるかもしれない。そこで創作人生が狂ってしまった場合、私には責任があるのだろうか。


 そもそも創作論に「責任」を持ち込むべきなのか。この問いに答えるには、創作者の行動がどれほど「自発的」なのかを考えなければならない。創作者は確かに他者の言葉に影響を受ける。しかし、誰かの創作論を読んだだけで作風が完全に変わるほど、彼らは受動的でもない。


 創作論を読むとき、創作者は無意識に自分の美的感覚によって取捨選択している。言葉は背中を押すが、押された者がどちらへ倒れるかは、その前からほぼ決まっている。ここで冒頭の前提が戻ってくる。創作論が効力を持つのは、読み手の目的・美的感覚と一致した場合に限られる。もし私の言葉によって変化が起きたのなら、それは変化の萌芽がすでに相手の内部にあった証拠だ。創作論は感性の「銃」にはなれても、「引き金を引く人」にはなれない。料理の失敗を刃物のせいにはできないのと同じだ。


 創作論の限界は、創作者の内的な可能性を照らすところにある。それを内側へ運び入れる強制力はない。したがって、創作論者に課される責任は「限定的」であって「直接的・強制的」なものではない。


 とはいえ、完全な免責を宣言するつもりもない。影響が存在する以上、創作論を語る者は、その刃が切れるものであると知らせる義務を持つ。そこで改めて浮かぶのは、先ほどよりマイルドな問いだ。


「創作論を語る者は、どこまで影響を配慮して言葉を発するべきなのか。」

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