第3章:白紙の中で
階段を二段飛ばしで駆け上がる。胸が高鳴り、好奇心がはじけそうになる。
「落ち着いて、リカ!」
自分にそう言い聞かせながら部屋のドアを押し開ける。木の匂いと、やわらかな光が私を包み込んだ。興奮で手が震えながらも、リュックをそっと床に置く。
机の上に、あの奇妙な表紙の本を置き、しばらく眺める。まるで不思議で、驚きに満ちた宝物のようだ。
だが、本を開こうとしたその瞬間、台所から漂ってくる香ばしい匂いが、夕食の時間を思い出させる。
お腹がぐうっと鳴り、我慢していた空腹が抗議の声をあげた。
それでももう好奇心を抑えられない。本が私を呼んでいる気がする。抵抗できない。近づき、本を両手で取った。
「ちょっとだけ見るだけ。」
自分に言い聞かせるように声を出す。
ベッドの上に本を置き、そっと開こうとするが、留め金がまるで意思を持っているかのように動かない。
指先で表紙をなぞりながら、どうにか外そうとするけれど、本は簡単には心を許してくれないようだ。
もう一度開こうと力を込める。しかし、留め金は固く閉ざされたまま。
眉をひそめ、さらに力を入れる。
「お願い、開いて…」
呟きながら、本が言うことを聞いてくれることを願う。
違う角度から試してみよう。
一息つき、部屋の中を見回して助けになりそうなものを探す。
深く息を吸い、考え直す。
もしかしたら問題は留め金じゃなく、私の向き合い方かもしれない。
ベッドの上にあぐらをかいて座り、本を隣に置く。
今度は指先で、ゆっくり、優しく表紙をなぞる。
目を閉じて集中する。
力ずくではなく、本と対話するように。
まるで本に「開いてほしい」とお願いしているように感じる。
「あなたの中にある素敵な物語を知りたいの…」
囁くように、祈るように言葉を落とす。
目を開けた瞬間、カチリと小さな音がした。
目がぱっと輝く。――今の、音?
急いで見ると、なんと留め金が外れていた。
「やった!」
思わず叫ぶように声が出た。
すぐに本をそっと開く。
その瞬間、ひんやりとした風がページの間から流れ出す。まるで何百年も閉じ込められていた空気が解放されたかのように。
ページがぱらりと音を立てて開く。
まるで新しい世界への扉を見つけたような気分になる。
けれど、ページを見た途端、胸の高鳴りがしぼんでいった。
どのページも、真っ白だった。
心臓がどんと沈み、震える指で次のページをめくる。
どこかに、たった一文字でも、一枚の絵でも――何かがあるはず。
でも、何もない。すべてが空白のまま。
「どういうこと…?」
思わず声が漏れる。
期待していた分、失望と混乱が押し寄せた。
幽霊や冒険の物語が詰まっていると思っていたのに、そこにあるのはただの虚無。
目をこすりながら考える。
もしかしたら、まだ魔法が目覚めていないだけかもしれない。
もう少し時間が必要なのかもしれない。
「ねえ、どこに隠してるの…?」
小さく、懇願するように呟く。
だが、ページは沈黙したままだ。
焦りと苛立ちが胸の奥でじわじわと膨らんでいく。
なぜ本は、私の好奇心に応えてくれないの?
まるで、私の希望を吸い取ってしまうかのように――。
深く息をつき、本に最後の一瞥を送ってから、机の上にそっと置いた。
あとでどうするか考えよう。
少し気落ちしたまま部屋を出る。
もしかしたら、あの鶏のスープを食べれば気分が戻るかもしれない。
部屋の敷居を越えた瞬間、突然の轟音が空気を震わせた。
外で雷鳴が響き、家の壁が微かに揺れる。
私は足を止め、窓の方を見る。
「今の…何?」
眉をひそめて呟く。
窓の外は普段通りで、雨が降りそうな気配もない。
通りには近所の人たちが歩いていて、誰も嵐に気づいた様子はなかった。
首を振り、きっと気のせいだと自分に言い聞かせる。
考えすぎる必要なんてない。
階段を下りると、香りがいっそう強くなる。
本のことを忘れたくて、温かい食事に救いを求めながら台所へ向かう。
母はコンロの前で、大きな器に湯気の立つうどんをよそっていた。
「できたよ、ママ」
気持ちを切り替えて席につく。
部屋の温かさが、まるで抱きしめてくれるように体を包む。
「完璧よ、リカ」
母が微笑みながら言う。
「もうすぐできるわ。気をつけて、すごく熱いからね。」
私はうなずき、胃がぐうっと鳴る。
この瞬間をどれだけ待っていたのか、自分でも気づいていなかった。
母が自分の器を持って向かいに座る。
静かな空気の中で、ふと尋ねる。
「ねえ、さっき雷の音、聞こえなかった?」
母は少し首をかしげて答える。
「雷? そんな音、聞かなかったけど。」
眉を寄せ、背中にぞくりとした感覚が戻る。
あの大きな雷を聞いたのは、私だけ?
「本当に? すごく大きな音だったのに。」
「きっと疲れてるのよ。」
母は肩をすくめながら言い、食べ始めた。
その穏やかな声が、かえって私の混乱を深める。
目の前のうどんから立ちのぼる湯気と香りに、話題は自然と薄れていく。
レンゲを取り、両手で器を包む。
熱いスープの温もりが指先から伝わる。
「おいしい!」
思わず声が出た。
優しい味が心まで染みていく。
母は嬉しそうに目を細める。
「気に入ってくれてよかったわ、リカ。」
食べ進めるうちに、本への苛立ちは次第に薄れていった。
一口ごとに温かさが広がり、心が少しずつほぐれていく。
けれど、頭の片隅では、あの本のことがどうしても離れなかった。
「ねえ、ママ。」
スープをひと口すすりながら尋ねる。
「物って、生きてるみたいに自分で持ち主を選ぶことってあるのかな?」
母は不思議そうに私を見て、口元に柔らかな笑みを浮かべる。
「面白い質問ね、リカ。人によっては、物には特別なエネルギーがあるって言うわ。
特に古いものにはね。どうしてそんなことを聞くの?」
「えっと、ただの好奇心。」
少し照れ笑いを浮かべて手を振る。
「なんとなく思っただけ。
もしかしたら、物の中に物語が眠っていて、それを誰かが見つけるのを待ってるんじゃないかって。」
母は首を傾げ、考えるように言った。
「そうね、あると思うわ。
人は大切な思い出や感情を物に重ねるものだから、
きっとどこかに、その物語が残っているのよ。」
その言葉に思わず微笑む。
母はいつだって、どんなに変な質問でもちゃんと答えてくれる。
幽霊や呪い、説明できない出来事のことを何年も聞かされてきたせいで、
もう慣れてしまっているのかもしれない。
器の底が見えるころ、心も体もすっかり温まっていた。
穏やかなこの時間に感謝しながらも、
机の上に置いたあの不思議な本のことが、どうしても頭を離れなかった。
「ごちそうさま、ママ。とってもおいしかった。」
笑顔で言うと、
母は満足そうにうなずいた。
私は器を洗い、軽く手を振って階段を上っていった。




