第2章:古い町の店
「この本は、あなたが想像しているよりも価値があるものですよ」
老婆はそう言いながら、まるで私の心を読み取るように、じっと私を見つめていた。
背筋を冷たいものが走る。でも、私は手にしているその本から目を離せなかった。
「どういうことですか?」と、彼女の言葉に興味をそそられながら尋ねる。
「何がそんなに特別なんですか?」
老婆が一歩近づくと、空気が目に見えない謎の気配で満たされていく。
「この本はあの世とつながっています。開いた者は、彷徨う魂や忘れられた秘密の物語を解き放つと言われています。
代々この店にあり、正しい人が現れるのを待っていたのです。その秘密を明かすためにね。」
「すごい……!」思わず声が漏れた。
他の世界とつながるかもしれない本なんて、考えただけで胸が高鳴る。
「これ、買いたいです。いくらですか?」
老婆はかすかに笑った。
「お金の問題ではありませんよ、お嬢さん。この本は新しい持ち主を自分で選ぶのです。
どうやら、あなたの好奇心を感じ取ったようですね。代金はいりません。」
「ほんとうに?」
信じられなくて視線を落とす。
指先で古びた表紙をなぞりながら、その手触りの中に答えを探すように。
「ええ。好奇心はすばらしい資質です。でも、同時に責任を持たなければなりません」
老婆の声は優しいが、確かな力を帯びていた。
「この本は、あなたに冒険と啓示を与えるでしょう。けれど気をつけなさい。すべての物語が心地よいものとは限りません。」
「責任……?」と私は少し戸惑いながら繰り返す。
本が持ち主を選ぶなんて、幻想的で少し怖い。
それでも、胸の高鳴りはおさまらなかった。
「わかりました」少し考えたあとで答える。
「受け取ります。ありがとうございます!」
老婆は微笑んだ。その表情には、私がそう言うことをすでに知っていたような気配があった。
「大切にしなさい、神崎リカ。探究心という火花は、冒険を生み出す炎にも、未知へと引きずり込む炎にもなります。」
私はうなずいたが、正直言って、彼女の言葉の半分も理解できなかった。
それでも、本を最後に一目見てから、そっとリュックの中にしまう。
「本当にありがとうございました!」と笑顔で言い、カウンターを離れる。
足が自然と早まる。早く外へ出て、この本の中身を確かめたかった。
店を出ると、興奮が体を駆け抜けた。
こんな特別な本を手にしたと思うと、自然に顔がほころぶ。
だが、その喜びは突然止まった。
——店の女主人。あの、私のことをよく知っているような人が、私の名前を呼んだのだ。
「どうして……私の名前を知ってたの?」
眉をひそめながら小さくつぶやく。
一瞬だけ振り返る。まだあの人がそこにいて、あの謎めいた笑みを浮かべている気がした。
だが見えたのは、閉じかけるドアと、少しくぐもった鈴の音だけだった。
慌てて戻ってドアを押す。
だが、そこにあったのは——何もない空間。
中はがらんどうだった。老婆の姿も、埃をかぶった棚も、跡形もない。
まるで、すべてが消えてしまったようだった。
「な……何これ……?」
混乱が胸の奥に広がる。
あたりを見回しても、夢ではない証拠はどこにもない。
町の通りはさっきと変わらず静かで、誰もこの異変に気づいていないようだった。
私は再び歩き出した。
消えた店のこと、そして私の名前を知っていた老婆のことが頭から離れない。
あれは何だったんだろう。
何か大きなものに、あと一歩で触れそうになっていた気がする。
「こんなの、現実なわけない……」
足元を見つめながらつぶやく。
それでも、胸の奥では喜びがふくらんでいた。
ついに、ずっと探していた“何か”に出会ったのだ。
ずっと信じてきた超常的な世界——それが本当にある証拠を。
「早く咲希に話したい……!」
彼女の、信じられないという顔を思い浮かべるだけで、口元が緩む。
「店が突然消えたなんて言ったら、どんな顔するかな」
ずっと探していた証。今こそ——これが、私の瞬間だ。
家に着くと、私は深く息を吸い込み、胸の中にある興奮を落ち着かせようとした。
ドアを押して中に入ると、最初に迎えてくれたのは、台所から漂ってくる温かくておいしそうな香りだった。
母はコンロの前に立ち、木のスプーンで鍋をかき混ぜていた。髪をまとめ、顔には優しい笑みを浮かべている。
「おかえり、リカ!」と母が振り向いて言う。「今日はどうだった?」
「ただいま、お母さん!」と私は興奮気味に答えた。
伝えたいことを必死で抑えながら——興奮があふれ出さないように。
「うん……おもしろかったよ」
母は片方の眉を上げ、もっと話を聞きたそうにしている。
けれど、私はまだあの“消えた店”のことを話す準備ができていなかった。
代わりに深呼吸をして、無難な話題を選ぶ。
「今日は数学の授業がすごくうまくいったんだ。ねぇ、二次方程式を解けたの!」
「すごいじゃない、リカ!」と母が声を弾ませる。
その温かい笑顔から、私の努力を誇りに思っているのが伝わってくる。
それが嬉しくて、私の胸もほっとした。
「数学に頭をやられてなくて安心したわ!」
「うん、ちょっとだけね! でもサキのおかげでなんとか生き延びてるの」
母は明るく笑った。
その笑い声は台所に響き、どこか懐かしくて心が落ち着く音だった。
彼女はいつだって、どんな瞬間も“家のぬくもり”に変えてしまう力を持っている。
私は、そんな母の笑い声と料理の香りが混ざり合うこの空気が大好きだ。
「何を作ってるの?」
私はコンロに近づき、立ちのぼる湯気を見つめた。やわらかく渦を巻くその香りは、たまらなく食欲をそそる。
「鶏だしのうどんよ。長い一日のあとにはぴったりだと思ってね」
母はいたずらっぽく目を細めた。
「あなたがお腹をすかせて帰ってくるって、わかってたの」
「おいしそう!」
私はほとんどよだれを垂らしそうになりながら叫んだ。
「早く食べたいなぁ」
母はスプーンを唇に運び、満足そうに味見をした。
「うん、これは成功ね。でもその前に、荷物を部屋に置いて、夕食の準備をしてきなさい」
私はうなずいた。そのとき、背中のリュックにまだあの本が入っていることを思い出し、胸の奥が少しちくりとした。
料理の香りに気を取られて、すっかり忘れていたのだ。
あとでサキに今日あったことを話す時間を見つけよう。
「はーい!」と答え、リュックを手に取って階段のほうへ向かった。
自分の部屋へと続く一歩一歩が、今日見つけた“新しい発見”の重みを感じさせた。




