浮気相手への恋文を代筆することになりました
私の婚約者であるピーター様が、最近、とある男爵令嬢にご執心らしい。
「ああ、リリー……」
頬を薔薇色に染め、うっとりとどこか遠くを見つめて、彼はその名を呟く。
ええ、聞こえていますとも。私の目の前で。
婚約者である、この私――イメンダの前で。
普通ならここで「キーッ!」とハンカチでも噛み砕く場面なのだろうけれど、生憎、私にそんな情熱はない。
それに、この婚約を解消するなんて選択肢も私にはないのだ。
というのも、我が侯爵家は火の車。彼の家の財力なくしては、明日にも屋敷が傾きかねない。
なんとも情けない話である。
だから、私はただ静かに、この茶番劇を眺めている。
まるで出来の悪い芝居の観客のように、冷めた紅茶をすすりながら。
そんなある日のこと。
ピーター様の書斎に用事があって立ち入った際、机の上に一通の手紙が置かれているのが目に入った。
封もされていない、書きかけの手紙。
盗み見るなんて趣味はないけれど、そこに書かれた文字に、嫌でも視線が吸い寄せられてしまった。
『僕の太陽、リリー。キラキラ光ってきれいダネ。君の笑顔を見ると、僕の胸はドキドキします。ドコドコ、ドコドコ、太鼓のよう。君は太鼓の達人ですか?次は君にいつ会えるカナ?』
ぶふぉおおっ!!
思わず、淑女にあるまじき声で噴き出してしまった。
慌てて口元を押さえるけれど、もう遅い。一度ツボに入ってしまったら、もう抜け出せない。
肩が、お腹が、震えて痛い。
くっそ下手か!!
ああ、やばい! 気を許すと爆笑してしまう!
『僕の太陽』までは百歩譲って許そう。恋する乙女(?)の常套句だ。
でも、なんだそのあとは! 語彙力はどこに置いてきたんだ!
胸のドキドキを、なぜタイコに例える!お前の頭の中でお祭り騒ぎが始まっているのか!
これを書いたのは幼稚園児か!
いや、幼稚園児でももう少しまともな文章を書くのでは!?
あまりの拙さに、頭がくらくらしてきた。ツッコミどころが多すぎて、処理が追いつかない。
私は腹を抱えながら、その恋文(と呼ぶのもおこがましい代物)を眺めていたはずだった。
うーん、この出だしはあまりにも稚拙すぎるわね。
『キラキラ光ってきれいだね』がいただけない。もっと詩的な表現があるでしょうに。
それに、全体的にもっと情熱的な比喩を使うべきだわ。
……なんて、頭の中で勝手に校正を始めてしまっている自分に気づく。
いやいや、何をやっているんだ私は。これは私の手紙ではないというのに。
そう思うのに、一度気になりだしたらもう止まらない。ああ、書き直したい!
気づけば私は、ピーター様のペンを握りしめていた。
さらさらと、インクが紙の上を滑る。
月の光がいかに彼女の髪を美しく照らすか。
彼女の微笑みが、凍てついた心さえも溶かす春の陽だまりのようであること。
次に会える日を、どれほど待ち焦がれているか。
そんな言葉を、流麗な筆記体で紡いでいく。
『麗しのリリーへ
君を想うとき、僕の心は月夜に照らされる湖のように、静かに、そして深く揺らめくのです。
君の微笑みは長く続いた冬の終わりを告げる陽だまり。僕の凍てついた心を優しく溶かしてくれます。
ああ、次にお会いできる日をどれほど待ち焦がれていることでしょう。
一刻も早く、君のその美しい瞳に僕の姿を映してほしい。
愛を込めて
ピーターより』
ふぅ、これでよし…… はっ! 私は一体何を!?
我に返ったとき、目の前には完璧に書き直された恋文が完成していた。
え、この恋文どうするつもり?まさか本当にリリー様に出すわけにもいかないし……。
けれど、あの拙い恋文を読んだときの、なんとも言えないむず痒さが私をこの暴挙に駆り立てたのだ。
衝動的だったのだ。
ピーター様の稚拙な手紙を元に戻し、自分が書き上げたものを回収しようとした、そのときだった。
廊下から、こつ、こつ、と誰かが近づいてくる足音が聞こえた。
まずい!
私はとっさに、自分が書き上げた手紙を近くにあった封筒に滑り込ませ封をしてしまった。
その直後、書斎の扉がノックされ、ピーター様の秘書が入ってくる。
「イメンダ様、こちらにおられましたか。どうかされましたか?」
「い、いえ、なんでもありませんわ」
私は平静を装い、すっと立ち上がる。
秘書に促されるまま、私は書斎を後にした。
……ん? 待って。
今、私が封をした手紙……あれは、ピーター様がリリー様宛に用意していた封筒では……?
ということは、まさか。
私の書いた恋文が、リリー様の元へ届いてしまうの?
婚約者が他の女性に宛てた恋文を、よりによってその婚約者である私が代筆するなんて。
我ながら意味が分からない。
彼の恋の火に、自ら油を注ぐような所業……!
後から回収しようにも、秘書の手前、書斎に戻ることもできず……
ああ、もうどうにでもなれ、という心境だわ。
……いや、よくない!全然よくない!
結局、なすすべもないまま、その手紙はリリー様のもとへと送られてしまったのだった。
◇
それからというもの、ピーター様の機嫌がすこぶる良い。
「ふふん、ふふふ~ん♪」
鼻歌交じりで庭を散歩し、小鳥と戯れている。
浮気の状況自体は隠しているつもりなのだろうけれど、そのだらしなく緩んだ口元を見れば、恋が順調なのは一目瞭然だ。
そして、あの日以来、ピーター様がリリー様に送る手紙は、すべて私の検閲……もとい、校正を通ることになった。
というのも、一度あの格調高い恋文を送ってしまった手前、次から急に『太鼓の達人』レベルに戻ってしまっては、リリー様も不審に思うだろう。
だから私はピーター様が寝静まった後、こっそり書斎に忍び込んでは彼の幼稚園児レベルの恋文を、大人の恋文へと書き換える作業を続けることになったのだ。
『リリーへ。君のほっぺはリンゴみたいでかわいいネ。かじってもいいですか?』
(……気持ち悪いぃぃい!!)
↓
『君の薔薇色の頬に触れることを、神はお許しになるだろうか』
『リリーへ。君に会えなくて僕の心はしょんぼりです。しょぼん』
(……なぜ擬音語を使う)
↓
『君なき世界は、色を失った絵画のようだ』
最初は罪悪感でいっぱいだったこの作業も、今ではすっかり私の楽しみの一つになっていた。
彼の拙い文章に腹を抱えて笑い、それを美しい言葉に生まれ変わらせる。
まるで石ころを磨いて宝石にするような、そんな充足感がそこにはあった。
私の完璧な代筆のおかげで、リリー様もすっかりその気になっているらしい。
ピーター様は、彼女からの熱烈な返信をそれはもう嬉しそうに読んでいる。
そして、とうとう運命の日がやってきた。
私が代筆した完璧な恋文によって、二人はひそやかな逢瀬を交わすことになったのだ!
「ついにリリーと……!」
部屋の隅で、ピーター様が誰にも見られていないとでも思うのか、こっそりと口元を緩ませている。どうやらリリー様との逢瀬が決まってよほど嬉しいようだ。
ええ、そうでしょうとも。私がそうなるように仕向けたのですから。
……ん?
あれ、ちょっと待って。
よくよく考えると、私は婚約者の浮気の片棒を、それもかなり積極的に担いでしまったのでは?
成り行きで始めた代筆だったけれど、結局、私は何がしたかったんだっけ?
ピーター様の満面の笑みを見ながら、私の頭の中は「?」でいっぱいになった。
私はただ、彼の拙い恋文を我慢できなかっただけのはず。
それなのに、どうしてこんなことに……?
◇ ◇
しかし、夢のような逢瀬の翌日。ピーター様は嵐のように荒れていた。
「どうしてだ! あんなに手紙では良い雰囲気だったのに!」
ガシャン!と音を立ててティーカップが床に叩きつけられる。
どうやら、リリー様との逢瀬は彼の思い描いたようにはいかなかったらしい。
手紙の文面から、さぞ知性的でロマンチックな殿方を想像していたであろうリリー様。実際に会ったピーター様の浅薄さに、ものの数分で幻滅してしまったのだ。
「『手紙の方とは、まるで別人ですのね』だと!? どういう意味だ!」
荒れ狂うピーター様は、やがてハッとしたように私を睨みつけた。
その瞳には、完全な逆ギレの色が浮かんでいる。
「……手紙? そうだ、手紙だ! イメンダ、お前だな!?」
「何のことですの?」
「とぼけるな! 最初の手紙、あの日、僕の書斎にいただろう! あの日からだ、リリーの様子が変わったのは! お前が勝手に手紙を書き換えたに違いない!」
なんという言いがかり。けれど、その言いがかりは、紛れもない事実だった。
まさか気づかれるなんて思ってもみなかった私は、言葉に詰まる。
「お前がつまらないことをしたせいだ! 僕の恋を邪魔しやがって!」
えぇ……
そもそも婚約者がいながら他のご令嬢に恋文を出している方が、よっぽどおかしいのでは?
しかも、どちらかというと、恋の成就を応援するような形になったのに……
でも、事実上恋の応援になっていたなどと説明するのも意味が分からない。
「なんで浮気の応援を?」と思われるだけだ。説明しようもなく、私は言い淀むしかなかった。
「その話、どういうことですの……?」
凛とした声が、ピーター様の怒りの言葉を遮った。
声のした方へ振り返ると、そこにはリリー様ご本人が立っていたのだ。
いつからそこに!?
「リ、リリー!?」
「ピーター様、そしてイメンダ様。今のお話、まさかイメンダ様が恋文を代筆していたんですの?」
……まずい。
最悪のタイミングで聞かれてしまった。
ピーター様は顔面蒼白、私は冷や汗が止まらない。
言い訳を……何か言い訳を考えなければ……!
そう思った、そのときだった。
「そのお話、すごく面白いですわ!」
リリー様は、ぱあっと顔を輝かせ、そう言ったのだ。
……はい?
面白い? この状況が?
私とピーター様は、顔を見合わせるしかなかった。
「手紙を代筆ですって? しかも、婚約者の方が恋敵のために? なんて斬新な設定でしょう!」
目をキラキラさせるリリー様に私たちは完全に気圧されてしまう。
彼女は興奮した様子で私に詰め寄ると、一枚の契約書をどこからともなく取り出した。
「イメンダ様! ぜひ今回の顛末を小説にしてくださいませんこと!? わたくしが作家としてあなたを雇いますわ!」
「は、はぁ!?」
「実はわたくしの実家は出版業を営んでおりましてよ。この話は絶対に売れますわ! さあここにサインを!」
あまりの展開の速さに私は思考が追い付かない。
けれどリリー様の勢いに負けて、私は気づけばその契約書にサインをしてしまっていた。
それからの日々は怒涛のようだった。
リリー様の監修のもと、私は今回の出来事を赤裸々に小説として書き上げた。
そして、その小説『婚約者は代筆家』は、リリー様の実家が発行する新聞の連載小説欄に掲載されるやいなや、瞬く間に国中の話題をかっさらったのだ。
特に作中で再現されたピーター様の最初の恋文──『太鼓の達人』の部分は、人々の爆笑を誘った。
人の口に戸は立てられない。
あっという間に、ピーター様の稚拙な恋文と、その振る舞いは社交界の知るところとなった。
「聞いた? ピーター様のこと」
「あの『幼稚園児』の?」
「婚約者のイメンダ様は、まるで『保母さん』ですわね」
そんな陰口が、あちこちで囁かれるようになった。
ピーター様は社交の場に出るたびに嘲笑を浴び、すっかり落ちぶれてしまった。
一方で、私はといえば、人気作家『イメンダ』として膨大な報酬を手にすることになった。
実家の財政難もあっという間に解決してしまった。
私はピーター様へ、婚約解消を告げた。
もう、彼の家の財力にすがる必要はないのだから。
「世の中、何があるか分からないものね……」
誰に言うでもなくそう呟く。
まさか、婚約者の浮気相手への恋文を代筆したことが、こんな未来に繋がるなんて。
その後、幼稚園児扱いされるようになったピーター様にまともな縁談が舞い込むことはなかったという。
婚約者に逃げられた哀れな幼稚園児。それが彼の新たな呼び名になったのだった。
◇ ◇ ◇
すっかり落ち着いた実家で、私はゆったりと新作小説の構想を練っていた。
窓から差し込む陽光が心地よい、穏やかな午後だ。
そんな静寂を破るように、来客を告げるベルが鳴った。
現れたのは私の担当編集者であり、今や公私にわたる友人となったリリー様だった。
「イメンダ様、お邪魔しますわ」
「まあ、リリー様。どうなさったの、急に」
彼女は私の向かいのソファに腰掛けると、何やらもじもじとしている。
その大きな瞳が、少し潤んでいるように見えた。
「あの……イメンダ様」
「はい」
「ピーター様の代わりに書かれた、あの恋文……覚えていらっしゃいますこと?」
「ええ、まあ……」
忘れたくても忘れられない。
すると、リリー様は意を決したように、私の手をぎゅっと握りしめた。
「ねぇ、あの手紙……。もしかして、少しはわたくしに、そういう目を向けられる可能性がある、ということですの……?」
……はい?
そういう目?
一瞬、彼女の言っている意味が分からなかった。
けれど、その熱っぽい視線を受けて、私はようやく悟る。
まさか、あの恋文の出来が良すぎて、リリー様のいけない扉を開いてしまったのでは!?
「め、滅相もございません! 私にその趣味は……!」
慌てて手を引こうとするけれど、リリー様の力は意外に強い。
彼女はぐいぐいと顔を近づけてくる。
「そんなことおっしゃらずに! わたくし、イメンダ様の紡ぐ言葉にすっかり心を奪われてしまいましたのよ!」
「いや、あれは代筆です! それか創作です!」
「いいえ、あれこそが真実の愛ですわ!」
……ああ、どうしてこうなった。
私はただ、拙い恋文を校正したかっただけなのに。
「お待ちください、リリー様! 落ち着いて!」
私の悲鳴もむなしく、リリー様の情熱的なアプローチは止まらない。
どうやら私の平穏な日常はまだ当分訪れそうにない。