7 第一章 『月の鏡』 その1
翌年、長子デュラを出産した折に、マイヤは身罷った。
以後、その喪失感ゆえか、明るい陽射しを嫌ったシュラは陽の高い間は眠り、辺りが闇に閉ざされる頃に一日を始めるようになった。そして何かと奇矯な振る舞いを噂されることも増えた。
その一つに、国中の河川や水辺に役人を派遣し、水脈の調査と共に、その水面に映る満月の中に人の姿が現れるか監視せよと云うものがあった。
何年かに一度のある満月の夜に、水面に映るその月を通して死別した者との再会が叶うという、古よりの伝説・・『月の鏡』の謎に取り憑かれたゆえだといわれる。
やがて・・そんなシュラの許に、何とその伝説を証しするような報告が届くようになった。
問題は、そういった月の鏡に姿を映す亡者が必ずしも友好的とは限らないようで、多くの場合、まるで水中に引きずり込まれたかのような溺死体の報告も添えられていた。
そのうち、更に途方もない話が聞かれるようになる。
ある日、突然、幾多の禍で消失した村や集落が出現したという目撃談が、各地から寄せられたのだ。
しかし、役人達がそこに駆けつけてみても、あるのは唯、風の渡る廃墟の跡だけだったと云う・・。
そういった奇妙な噂の数々は近隣の国々にも伝わり、どこよりも関わりの深いミタンにも、些かの懸念を抱かせることとなった。
というのは、ミタンのまだ幼い六才の王女ペルが、これもまだ八才になったばかりのシュメリアのデュラ王子と、二年後には「婚礼の儀」を上げる運びとなっていたからだ。
主神、『月の神』を戴く同祖シュメリアとミタンの王室は、代々に渡って婚姻を結び、その古よりの絆を保って来た。
しかし、その領土の殆どを深い森林と山岳地帯が占めているミタンに於いては、『月の神』以上に『森の精霊』への信仰が篤く、その自然の恵みに値する健やかなる心身と、深い泉から湧きい出るような叡知が何よりも尊ばれていた。
ミタンの在シュメリア大使ジュメもそういった気風が生み出した人物の一人で、長年勤めた王府の仕事から身を引いた後、一種の名誉職として引退した大臣達が多く任命されるシュメリア駐在大使として赴任した。
ミタンにはないその都メリスの洗練された生活は、山国の人々の憧れを抱かせるに十分なものがあった。特に妻や娘達は、そんな華やかなシュメリアの気風に比べ、自国ミタンのそれは確かに些か無骨だったと思ったりもした。
しかし、元来勤勉なジュメはその任務も精力的にこなし、メリスで得られる様々な情報を定期的に本国に連絡することも怠らなかった。
そして例え些細なものでも、気になる情報は全て備忘録に記していた。
そんな彼にとっては、ここ数年来、巷で聞かれる不可解な噂の検証も無視できない仕事だった。
幾つかの情報から、そういった荒唐無稽な話も単なる戯言ではなく、実際に何らかのことが起っている可能性があったからだ。
そうやって色々調査を重ねるうちにジュメの意識は・・いつしか、この奇怪な現象の背景・・即ち、この土地、ミタンのルーツでもあるシュメリアの失われた過去に向けられていった。
長きに渡り、周辺諸国の中でも大いなる繁栄を誇るシュメリアは、特に文藝学術の方面では群を抜き、メリスにはそれらを象徴するような多くの施設が備わっていた。
その中でも膨大な資料の収蔵を誇る王立図書館の存在は有名で、そこにジュメも日参を始めた。
そんなある日、彼は有名な『月の乙女』の伝説を記した古い文献を見つけた。
口伝で誰でも耳にしている話だが、その全体の話を読んだことはなかったジュメは、古代シュメリア語の辞書と首っ引きで読み始めた・・。
〝・・シュメリアの主神『月の神』は、曾て美しい地上の娘に恋をし、花嫁に迎えようとした。
『月の乙女』と呼ばれたその美少女は、『月の神』の妻となり永遠の命を与えられるはずだった。
ところが、その美しさに心を奪われた地上の王が娘に横恋慕し、その婚礼の前夜、乙女を我がものにしようとした。
驚いた少女は必死で逃げ、その事に気づいた『月の神』は、その光で娘を高い塔に導いた。
半狂乱の王も後を追う。
少女が塔の頂きまで来た時、突然強い光が塔を覆った。その光に目が眩んだ娘は誤って足を踏み外し、高い塔の上から落ちてしまった。
その躰は地の女神が受取り、『黄泉の国』へと連れて行った。
愛する少女を死なせてしまった『月の神』は嘆き悲しみ、少女を追って自らも黄泉へと下って行った。
しかし、明るい月の光の侵入は黄泉を支配する女神に固く拒まれる。そのため、その姿を夜露に変えて、『黄泉の国』の其処此処を乙女を求めて捜し廻った。
・・そして、遂に捜し当てた少女を連れ、元の世界へ返ろうとした時に娘が言った。
「地上の光が差し込む処までは、何があっても・・絶対に振り返らないで・・何も話しかけないで・・下さい・・」
言われた通り、振り返りたい気持ちを抑え、無言のまま、『月の神』は冥界の薄暗い迷宮を巡っていた。その間、後ろから着いて来る娘の気配はあまりにひっそりとしていた。
しかし、光りの差し込む生命の世界がすぐそこに近づいた時、娘は焦ったような小さな声を発した。
「あ・・」
その声に『月の神』は、思わず振り向いていた。
途端・・それまで再び生命を纏って、愛する『月の神』と添うために懸命に身繕いしていた娘は・・すぐさま醜い骸と変わり、ただの土塊となってその場に崩れ落ちた・・。