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この恋は劇薬  作者: 吉遊
3/4

後編

 注文した紅茶に口をつけることもなく、ヴィオレッタはただひたすらに窓の外を見つめている。

 この場にラウルがいることも、今の彼女は忘れてしまっているのだろう。

 義妹の熱い視線の先にいるのは王都で最近人気が出てきたという劇団の男優だった。垢抜けた雰囲気の優男だが、ああいうのがヴィオレッタのタイプ、というわけではない。今回の惚れ薬のお相手である。

 毎回惚れ薬の相手を別人にするのは違う恋の感覚を味わってみたいからだと言うが、彼には薬で手に入れる擬似的なそれにどれほどの楽しみがあるのか、何度話を聞いても残念ながらまったく理解できなかった。


(……なにをしているんだか)


 自分に呆れてしまう。

 惚れ薬の使用状況の確認という名目で、こうして義妹に付き合っているが、果たしてこんなことが必要なのか。二人で出かけるなど幼い頃ですらしたことがない。それを今になって……共にいる時間が増えるなど、苦痛でしかないのに。


 なぜ付き合ってしまっているのか。


 義父母に頼まれたから、というのが本心ではないのは認めよう。仕事を理由に断ってもよかったのだから。

 わざわざ休暇を延長し、ラキュテリオンに残ったのはラウルの意思だ。

 惚れ薬などで感情を波立たせるヴィオレッタを腹立たしく思いながら、彼女をそのままにすることも我慢できなかった。彼のことは歯牙にもかけないのに、どこの誰とも知れぬ男に一時とはいえ心を奪われることを楽しむ義妹にどうしようもなく苛立つ。


 不意に、窓の外を見つめていたヴィオレッタが涙ぐみそのまま静かに涙を流し始めた。


 泣くというにはあまりに静かなそれに息を呑んだ。

 義妹の涙を見たのは初めてかもしれない。少なくともラウルの記憶のなかの彼女はいつだって澄ました顔している。

 嫉妬に、苛立ちに、苦しみに、顔を歪めているのは彼だけ。


「ヴィオレッタ」


 思わず呼びかけたのは、少しでも自分に意識を向けさせたかったからか。

 しかし、彼の声など聞こえないかのようにヴィオレッタは窓の外から目を離さない。彼女の恋する男優は、恋人らしき女性と仲睦まじく戯れのような口づけを繰り返していた。

 ヴィオレッタはこの光景が見たくてここにいるのだ。

 失恋の痛みを知りたいと、この男優を選んだのだ。

 今だって、義妹の涙にラウルは自分のなかを掻き乱されているのに、彼女は自分のしたいことをして望む結果を手に入れている。それが自分と彼女の決定的な違いのようで、言いようのない感情が沸き上がってくる。


「……っ」


 無理やりこちらを向けようと、彼女の涙を拭うために気づけばテーブル越しに身を乗り出していた。

 ラウルが動いたと同時に、ヴィオレッタはぴたりと涙を止めた。

 それは、まさに魔法が解けるような光景だった。熱く潤んでいた瞳からさっとその熱が引き、彼女は興味を失ったように窓の外から視線を戻す。


「ラウルお兄様?」


 立ち上がり身を乗り出した彼を不思議そうに見る義妹の顔には、先ほどまで夢中だった"恋"など欠片も残っていない。

 その変化はいっそ笑えるほどだ。


「気は済んだか?」

「ええ。とっても満足しました」


 嬉しげに微笑み、冷めきった紅茶を飲む彼女はどこまでも平静で。

 なぜ惚れ薬を飲んだヴィオレッタではなく、自分が心を乱されなくてはならないのだろう。


「今日は付き合ってくださりありがとうございました。でも、心配するようなことはなかったでしょう?」


 心配してついて来たわけではない。

 ただ彼女の行動がどうしようなくラウルの癇に障るから、その原因か、あるいは自分の感情がどうにかならないかと思ったのだ。


「そろそろ出るぞ」


 ヴィオレッタの問いには答えずさっさと店を出た。

 彼の態度を気にした様子もなく彼女はその後をついてくる。


「惚れ薬を飲むのはやめないのか?」

「う~ん。……そろそろやめます。ラウルお兄様にも迷惑をかけてしまっていますし」


 そんな答えが返ってくるとは思わなかった。

 足を止めてしまったラウルを追い抜き、ヴィオレッタは軽やかに話を続ける。


「嫌いな義妹のために帰って来させてごめんなさい」

「…………」

「ラウルお兄様に迷惑をかけるつもりはなかったのだけれど」


 背を向けたままの彼女の表情はわからない。

 でもその声音はいつもと変わらず、彼女がなんの疑いもなくラウルに嫌われていると思っていることを伝えてくる。


 嫌っていたし、疎んでもいた。……憎しみすら、感じている。


 なのに、それがヴィオレッタ自身に気づかれているなど考えたこともなかった。


「……嫌ってなどいないさ。お前は、可愛い義妹だ」


 とっさに嘘をついたのはどうしてなのか。

 別に嫌っていると知られたところでなにも困ることはない。子どもの頃ならいざ知らず、今は自分の力だけで生きていけるのだから、義父母や義妹に遠慮する必要もない。


 恩義を感じている義父母を悲しませないため?


 八年もこの国に戻って来なかったのだ。

 義父母とて薄々は感づいていてもおかしくはない。不義理をしていた自覚はある。

 嫌いだ、と言えば……彼と義妹の関係はきれいに消えて失くなるだろうか。このどうしようもなく苦い想いもすべて。


 ヴィオレッタは彼の言葉に振り返り、小さく"嘘つき"と呟いた。



   ◇◇◇



 あのあと、ヴィオレッタはなにもなかったかのように話を変え、とくに気にした様子もなくラウルと共に帰路についた。

 そのいつもと変わらない彼女の態度になぜかほっとする自分がいた。


 嫌っていると知られたくないのか。


 違う。

 義妹を嫌う、その根底にあるものを知られたくないのだ。ヴィオレッタへの嫉妬や劣等感を。ラウルのなかにあるどこまでも自分勝手で醜いこの感情を……暴かれたくない。

 他の誰でもなく、彼女にだけは。


(もう、会わなければいい)


 もとよりこの家に戻って来る気はなかったのだ。

 今回の件でラウルがしなければならないことはもうない。ヴィオレッタは惚れ薬の使用をやめると言っているし、そうなれば彼がここにいる理由はないのだから。

 義妹のそばにいると苦い想いばかりが胸を占める。


 ヴィオレッタはいつか恋をするのだろうか。


 彼の知らないところで、彼の知らない男と、本当の恋を知るかもしれない。あの理知的な瞳を熱に浮かされたように潤ませ、その相手を見つめ愛を囁く姿はきっと誰よりも美しいはずだ。

 恋も、愛も知らない。

 それでも、想像だけで強く胸を焼くこの感情が、決して愛とは呼べないものだということはわかっていた。




 ノックの音に沈んでいた思考から引き戻された。

 荷物の整理をしていた手は気づかぬうちに完全に止まっていたようだ。広げていた私物を手早く片付け、扉の向こうへ応える。

 ラウルの声に、義妹はきょろきょろと部屋のなかへ視線を向けながら入ってきた。


「もうあちらに戻る準備をされているのですか?」

「ああ。いつまでもいる必要はないだろう」

「……ここは、ラウルお兄様の家です。家にいるのに理由なんていらないでしょう」


 理由はいる。

 ラウルは孤児で、役目があってアルジェント家に引き取られたのだから。

 八年前に彼がここにいる理由を奪ったのは目の前の義妹だ。

 そもそも、彼女がいるからラウルはこの家に引き取られ、そして彼女がいるからこの家を出た。八年前も、今も。


「どちらにせよ、仕事がある」


 それはヴィオレッタから逃げるための口実でしかないけれど。


「家を継ぐのは医師であるラウルお兄様の方が相応しいわ」

「……お前が医師ではなく研究者になったのは、そのせいか」


 ラウルの言葉に義妹が目を見張った。

 彼女のその表情が思わぬことを言われた驚きなのか、図星を指された動揺なのかがわかるほどラウルは義妹のことを知らない。

 だが、瞬間的に自分の予想がそう的を外してはいないことを理解した。


「違います! 私はそんなつもりじゃ……」

「違わないだろう。自分より劣る義兄に”医師”という道を譲ってくれたわけだ。それとも、天才なヴィオレッタ・アルジェントには価値のないものだったか?」


 思ったよりも冷静な声が出た。

 心のなかでは幼い自分が義妹への憎しみを叫んでいる。湧き上がる感情は、蓋をする端から溢れ出しラウルの理性を削っていく。


 ――ああ、めちゃくちゃにしてやりたい。


 傷ついた顔をするヴィオレッタにこの感情をぶつけてやれば、彼女はその表情をどんなふうに歪ませるのだろうか。

 義妹に自分の想いを告げたことはない。

 彼女の才能に嫉妬し、劣っている自分を恥じながら、それを悟られるのをなによりも恐れていた。努力し足掻くことで無様にも自らの誇りを守ってきたのだ。

 それもすべて無駄だった。

 彼の賢い義妹はそんなちっぽけな自尊心など、とうに気づいていたのだから。


「お前が悠々と手に入れられるものにしがみつく俺はさぞ滑稽だっただろう」


 顔を強張らせる彼女を少しずつ追い詰めていく。

 自分がなにをしようとしているのかラウル自身もわからない。ただ、ヴィオレッタをひどく傷つけてやりたい気分だった。


「……っ」


 追い詰めた先にベッドがあったのは偶然なのか。

 そのまま仰向けに倒れ込んだ彼女に覆い被さるようにさらに距離を縮める。互いの吐息を感じられそうなほどの近さで覗き込んだ義妹の瞳には確かにラウルが映っていた。


「賢いお前には、俺が今なにを考えているのかわかるのか?」

「……わかりません」

「なら教えてくれ。どうすればお前を傷つけられる」


 囁くように問いかければ、彼女が息を呑むのがわかった。

 まだその瞳に恐怖の色は見られない。

 それが、どこか自身を侮られているようで気に入らなかった。この状況でも自分はヴィオレッタにとって脅威を抱く存在ではないというのか。


(どこまでも俺は取るに足らない存在か?)


 ラウルには彼女の感情を動かすことなどできないとでもいうのだろうか。あんな、惚れ薬などでもできることが。


「……ああ」


 そうか。

 薬を使えばよかったのだ。惚れ薬での精神高揚を楽しむという義妹。それは裏を返せば、それほどまでに感情に起伏がないということなのかもしれない。

 ならもう擬物(まがいもの)でも構わない。

 どうせ、自分はすでに取り返しのつかないところに手をかけようとしているのだから。


「お前は”恋”を楽しみたいんだろう?」


 ことさらゆっくりと彼女の頬を撫でる。

 滑らかなその肌は緊張のためかひどく冷えきっていた。ラウルが思うほどは、義妹も平静とはいかないのかもしれない。


 ちゃぽん。


 いつぞやと同じように小さな水音を立てたその瓶は、ヴィオレッタが使っていた惚れ薬だ。成分などを調べるためにもらったが実際に使用したのは数滴で、瓶のなかはほとんど減っていない。


「ラウルお兄様」


 それは制止の声だったのか。

 惚れ薬を呷り、そのままヴィオレッタへと口づける。驚きからかろくに抵抗もできない唇を抉じ開け、彼女のなかへと薬を流し込んでいく。

 初めて口にした惚れ薬はひどく苦い味がした。

 (むせ)る彼女に構わず、すべての薬を飲み下したのを確認しラウルはようやくその唇を解放する。


「ヴィオレッタ」


 名前を呼べば、熱を孕んだ瞳がどこか怯えたように彼を見る。

 同意のない相手に惚れ薬を飲ませるなど自分はどこまで堕ちていくのだろう。まして、相手は義理とはいえ妹だ。愛してもいない義妹に惚れ薬を飲ませるなど、どう考えても狂っている。

 それでも、ラウルはこの状態にどこか満たされるものを感じていた。


「お前が憎いよ、ヴィオレッタ」


 自分の言葉に傷つけばいいと思う。

 たとえそれが薬がもたらす擬似的なものでも構うものか。薬を与え続けるかぎり、ヴィオレッタは彼への感情を持ち続けるのだから。

 永遠に彼に囚われていればいい。


「決して――愛してなど、やるものか」


 この歪んだ想いを……愛の女神はなんと呼ぶのか、ラウルにはわからなかった。




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