中編
愛の女神ナヴィディアが御わすラキュテリオン王国は数百年の昔より呪われていた。
人々が愛を見失ったと嘆いた女神により真実の愛のもとでしか子どもができなくなったこの国の民たちは女神の怒りを受けてやっと愛と神への畏敬を思い出した。
しかし、政略結婚を当然のこととし、女神の呪いを軽くみた貴族たちには後継ぎが生まれず国は混乱を極めることとなった。国を出れば真実の愛などなくとも子はできるが、既婚の貴族全員が子を持つまで国を出ているわけにはいかない。
女神を信奉する教会が主張するように恋愛結婚を推奨すれば子はできるだろう。だが、貴族という身分がそれを許さない。その傾向は位が高いほど顕著で、身分に固執するがゆえに高位の貴族は血を絶やすこととなっていった。
女神の呪いを受けてから十年の後、このままではいつか人がいなくなり滅びてしまうだろうと頭を悩ませる国王のもとに襤褸を身にまとったひとりの薬師が訪れた。
彼は怪しげな薬を作る三流薬師として名を知られていたが、国王は藁にも縋る思いで彼の話を聞いた。彼は愛のない者の間に真実の愛をもたらす方法があると言い、ある薬を国王に渡した。
それ以来、貴族間の結婚では惚れ薬を飲んで子を作ることが慣例となったという。
ラウルは読んでいた歴史書をぱたりと閉じた。
とくに目新しいことは書いていない。大して期待していたわけでもないので、歴史書を本棚へと戻し図書室をあとにする。
惚れ薬の効果やそのくわしい成分、精製方法などを記した本はアルジェント家には置いていない。
明日にでも王立図書館に行かなければ。
(しかし、惚れ薬に中毒性があるなど……聞いたことがない)
あのあとも義父からヴィオレッタの状態を聞いたのだが、いまいち要領を得ず、結局ラウルにわかったことは義妹が両親の制止にも耳を貸さず惚れ薬を常用しているということだけだ。
彼が思っていたのとは違う意味で大変な状況になっているらしい。
「……はぁ」
まずは薬剤的な依存なのか、心理的な依存なのかを確認しなければならない。
そのために、わざわざ苦手な義妹の部屋まで重い足を引きずるようにやって来たのだ。
「ヴィオレッタ」
ノックと共に部屋の主へと声をかける。
少し間を空けて返ってきた応えに従い部屋のなかへと入ると、ヴィオレッタは腰掛けていた長椅子から立ち上がり彼を出迎えた。
「ラウルお兄様?」
「ああ。久しぶりだな」
「八年ぶりですね。お元気でしたか?」
互いに相手の姿に軽く目を瞠る。
ラウルのなかの義妹は十歳の姿で止まったままだった。幼い頃から整った容姿をした少女だったが、今は男なら誰もが見惚れるような美しい女性へと成長したヴィオレッタに、見た目まで完璧なのかと苦い思いが込み上げてくる。
しかし、彼を真っ直ぐに見つめる理知的な瞳はそのままで。
要らぬ劣等感を刺激されそうになり、思わず視線を逸らせていた。
「俺よりもお前の方が体調が思わしくないんじゃないのか」
「お父様に聞いたんですね。別に心配されるようなことじゃないのに」
「娘が惚れ薬を常用しだしたら普通は心配するだろう」
別段異常な言動は見られない。
薬物依存症に多く認める手などの震えや落ち着きのなさといった症状が出ている様子もない。
だが彼の言葉を否定しないということは、どれほどの頻度かはわからないが義妹は確かに惚れ薬を使用しているのだろう。
「ラウルお兄様は恋をしたことはありますか?」
自身が薬物中毒者扱いされているのを知ってか知らずか、ヴィオレッタはそんなことを聞いてくる。
あまり答えたい質問ではないし、関係の微妙な義兄妹に適した話題とも言い難いが、彼女が飲んでいるのが惚れ薬であることを考えればまったく意味のない雑談ということもないはずだ。
そう自分に言い聞かせ、彼女の質問へと短い答えを返す。
「……ない」
幼少期はひたすら勉強し、義父母に望まれる結果を出そうと必死だった。
義妹が天才だと気づいてからは負けぬようにとさらに努力を重ねた。勝ち目がないと思い知らされ、この国を出てからも、伝え聞く彼女の優秀さに嫉妬し、自尊心を傷つけられ、半ば投げやりに生きていたのだ。
誰かを好きになれるような精神状態ではなかったし、女性はもとより他者と深い関わりを持つようなことは基本的に避けていた。
とくに頭の良い女は嫌いだ。彼にヴィオレッタを思い出させるから。
「私もありません。お父様たちは私に恋愛結婚を望んでいますが、私にはその”恋”という状態が理解できていなかったので、まずは惚れ薬を飲み擬似的な恋愛感情を得てみようかと」
「……理屈はわかった。しかし常用しているということは、一度では恋愛感情への理解には至らなかったということか?」
「いいえ」
惚れ薬の効果は絶大だったという。
その相手を目にするだけで胸が高鳴り、なにをしていても相手のことが頭から離れない。その人がいるだけで自分のすべてが満たされているかのような心地となるのだ、とヴィオレッタは語った。
「あのときの精神高揚は……どんな知識を手に入れることにも、どんな難解な問題を解くことにも勝ります。私のなかにあんなに強い感情があるなんて」
「薬による擬似的な感情だ」
ラウルの言葉に義妹はわかっているというように微笑む。
「別に誰かのことを愛したいわけではないんです。ただ”恋”という自分の精神の変調を楽しんでいるだけ」
なるほど。
義父の言う通りだ。
「なんの副作用もなく、薬を飲むだけで手軽に恋を楽しむことができるんです。叶わぬ恋に涙することも、激しい感情に身を焦がすことも、誰かを想うだけで満たされる幸せも、私は全部知ることができました」
ヴィオレッタの状態はまさに”惚れ薬中毒”と呼ぶに相応しいものだった。
◇◇◇
あんなことを言っていたが、ヴィオレッタは今のところ日常生活に支障をきたしてはいない。
本人に確認したところ惚れ薬の服用は現在は週に一回程度だということだった。自身で抑制の利かない類のものではないらしい。
両親の制止を聞かないのは彼らの言葉に論理的な根拠がなく、彼女にとって”趣味”に近い行為を止める理由にはならないからだと言っていた。
ヴィオレッタの状態としては”惚れ薬による副次的効果で得られる脳内麻薬による中毒”というのが正しい表現だろう。そんな症例があるのかは知らないが。
「……はぁ」
どうする。
いや、どうにかしなければならないのか。義父母は心配しているが、ヴィオレッタ自身は自分の状態をそこそこ客観的に理解している様子だった。両親の気持ちを無視して好き勝手を続けるような娘ではない。
義父母にもそれとなく彼の考えを伝えたのだが、”惚れ薬を飲んだあの子を見ていないからだ”と返されてしまった。
(確かに少し興奮した様子だったが)
その効果を嬉しそうに話す義妹はどちらかというと研究に打ち込む学者のようだった。
惚れ薬で人格が変わるわけではない。
念のため調べはしたが、惚れ薬に依存性や副作用も確認できなかった。
ちゃぽん。
手に持った薬瓶を振るとなかで小さな水音がする。
ヴィオレッタが使用しているという惚れ薬だ。成分を調べようともらってきたが、王都でも有名な店のものでおかしなところは見受けられない。
――私のなかにあんなに強い感情があるなんて。
ヴィオレッタはつくづくラウルの気に障る。
彼はいつだって己より優秀な義妹にその感情を振り回されてきたのに、彼女は惚れ薬などで得る疑似感情をさもすごいことのように語るのだ。
醜く嫉妬し、相手を羨み、なんとか超えたいと諦め悪く足掻き……それでもどうしようもなくて。自分の無力に打ち拉がれ眠れぬ夜を過ごす人間がいるなど理解できないに違いない。
あの、ヴィオレッタが誰かに恋をするだと。
この八年間ラウルのなかにいたのは、王立医学院に合格しても顔色一つ変えない可愛げのない十歳の義妹だ。自分より劣る義兄を馬鹿にするでもなく、その視界にすら入れていなかったであろう少女は今、惚れ薬などに嵌ってしまったらしい。
「いっそ、本当に中毒にでもなって……」
あの理性的でどこまでも苛立たしい瞳がぐちゃぐちゃになってしまえば、自分のこのどうしようもない感情も少しはなくなってくれるだろうか。
忌々しいヴィオレッタ。
彼女が誰かを愛する姿など見たくもなかった。