明るくポーカーフェイス
藤田圭子はこの会社の販売部門首都圏担当マネージャー。30代後半で独身。仕事は有能だし好調だ。
彼女は仕事中によく、かっこよく言えば「ポーカーフェイス」、やや悪態のように言われるときは「能面」などとも言われる。つまり無表情であるとか、いつも同じ顔つきで変わらないと言う意味でそう言われる。彼女自身、それは悩みの一つでもあった。根は優しい部下思いの上司だからだ。まるで仕事をするためのマシーンの様に言われることもある。たしかに、仕事上のトラブルに直面したときは、厳しいオーラを周りに振りまいているかも知れない。それでも、ひどく怒った様な顔になったりはしないからまだ周りも救われている面がある。ポーカーフェイスというのは、善くも悪くも、とにかくわかりにくい。
そのため、彼女の中には「表情豊かになりたい」という小さな願望があった。怒ったときは怒った顔、笑ったときは笑った顔、泣いたときは泣いた顔。そんなに俳優のように明確に表情に出なくてもいいから、人間性を感じられる程度にそうなれば。そう思っていた。
そんなある日。彼女は仕事帰りに寄ったBARで、マスターと話しているうちに、
「表情を作ろうと思って化粧のしかたも研究したの。でもその時々の感情をすぐに化粧で表すなんてやってられないもの」そう言って笑った。
「いろいろご苦労があるんですねえ」
「そう。わたしがポーカーフェイスになったのは、顔に感情が出ると嘗められるからなの。泣きたいようなときに、「そう言う雰囲気の顔」をしていると「女だなぁ」なんていう人が居る。そういうのが一番頭にくる。だから、何があっても顔に出ないようにと思ってやってきたんだけど。最近思うの。そう言うことばに反応してることがバカバカしいって。あと、たくさん部下が出来たら、考えている余裕が無くなってきて、とにかく仕事を突破せねばとか思うようになったから、どうでもよくなってね。そう思っていたら、また今は、昔みたいに表情が少しあったほうがいいかなっていう気になってきた」
その圭子の話をマスターはグラスを磨きながら聞いていた。
「表情って言うのは大事ですよね。目は口ほどにものを言うなんていいますけど。目配せ一つでほかの全員に緊張をさせて気合いを入れたりすることも出来ますし。今日は機嫌が良さそうだとか、上司の顔を見て部下が話し合うなんて言うのも、よくあることで」
「そうね。表情って大事よ。取引先でも、最初にいい笑い顔で会えば、握手もしやすいけれど。第一印象で取っ付きづらいなんて思われちゃうと、その後の話もしにくい」
「まあ、仕事も最初の若いうちは、とにかくがむしゃらに突っ走っても、見ていてくれる人が居たからよかったけれど、上に上がると、自分の上も下も、自分になかなか何も言ってくれなくなりますからね。自分の顔も自分でよく見る、っていうのは、いいことじゃないですか……それで思い出したんですが、お客さんで化粧品会社の営業の人が居ましてね。その人が売っている化粧品が画期的なものらしいんですが、紹介のあった人にしか売らない方針なんだそうです。特徴は、なんでも、思ったようなメイクを短時間に出来るっていうことらしいんですが。よかったらご紹介しますよ」
「へえ。おもしろそうね。一度話だけでも聞いてみたいわ」
圭子は、会社で「いい案件」にでも触れたように身を乗り出して返事をした。
彼女のマンション。応接間でテーブルを挟んで、圭子と化粧品会社の佐藤という女性営業マンが座っていた。
「マスターからのご紹介ということで。ありがとうございます。マスターから先に少しお話を伺っておりますが、表情のあるメイクをしたいというご希望があるそうで?」
「ええ。そんなに化粧で顔を変えるのも変だろうけど、印象のいいメイクは心がけています。その辺に時間を掛けるゆとりが無くて」
営業マンは圭子の話を聞きながら、ケースからなにかの機器を出し、そのほかパンフレット類もテーブルに並べた。
「やっぱり。お話を伺う限り、うちの製品は藤田様にピッタリでございますよ!」
「そうだとうれしいわね」
「はい。うちのこの製品は、思ったメイクをあっという間に施すことが出来るんです」
営業マンは、小型のメイクボックスくらいの装置の蓋を開いて見せた。蓋部分はモニターになっていた。そして、本体の部分には顔の形のようなくぼみがある。そのほか、手前の部分にスイッチやダイヤルがいくつか並んでいる。彼はその機器を圭子の真正面に向けた。
「この状態で鏡を見るようなつもりでこのカメラの部分をしばらく見てください」
営業マンはそういって、モニター上部についているカメラを指さした。圭子がそこを数秒、黙ってみていると、モニターに「顔解析が終了しました」と表示され、モニターに圭子の顔が表示された。
「はい。お客様の顔が表示されましたね。これで準備は完了で。あとは、操作しながらこのモニターの顔にメイクをしまして、それから顔をこの本体の「顔メイク装着器」に付けてスイッチを入れると、モニターの顔にしたのと同じメイクが自分の顔に貼り付けられます」
「おもしろいけど……ちょっと怖いわね」
「通常のメイクとは全く違いますので、最初は少し抵抗があるかと思いますが。使い慣れていただければ、簡単に思ったメイクが出来るようになりますから、逆に手放せなくなると思いますよ」
「へえ」
「調整は、こちらのダイヤルで、大まかな傾向を設定しまして、あとは目や口元など、細かく調整します。最初のこの部分が一番めんどうと思いますが。その点は、丁寧に指導させていただきますので、安心してください」
この機器では、「表情ダイヤル」というのがあって、喜、怒、哀、楽と4方向に表示されたダイヤルを回して大まかにメイクの傾向を決める。あとは、顔のパーツごとに微調整したり、全体の色合い調整など、細かく設定できるようになっていて、もちろんパターンをいろいろと記憶させておけば、呼び出してすぐに使える。
メイク設定が終わったら機器本体のメイク装着器の顔型部分に自分の顔を軽く押しつけてリモコンのスイッチをオンすると「メイク転写」が始まり、およそ10秒で終了。それだけでもいいが、最後にやはり少し、自分で手を入れるとグッと違いが出る。
藤田は営業マンの指導を受けながら一連の流れを体験し、
「いいわねこれ。基本的なメイクなら、ほかに何もいらないみたい」
鏡を楽しそうに、うれしそうにのぞき込んでいる。
「そうなんです。基本なら、これで満足という方が多いんです。でも、そこで一手間ですね、入れていただくと、また目元とか口元とかにアクセントがついて、引き立ちます……ほかにですね、表情ダイヤルでそのときのTPOに合わせて感じを変えるということも、ごく簡単にできます。仕事の時は、キリッとした目元でとか、優しげなとか、怒りをあらわにとか、自由自在です!」
「おもしろい。これ、いただくわ、セットで置いていってちょうだい!」
「ありがとうございます!」
以来、彼女はふだん、仕事に集中しながらも表情は穏やかでしなやか。そしてプレゼンなどの時は、眉や目の感じをキリッとして、いかにも「やりそう」な雰囲気のメイクにした。しかもそれらのメイクを、会社のパウダールームで適宜変えるようにした。そのメイクのしかたはみんなに秘密にしていたから、たちまち、
「最近、圭子マネージャー、表情が多彩になったね」
「ポーカーフェースどころか、百面相だよ。一日で何度も感じが変わったりする」
圭子が望んだとおりの評判で、上々だった。
ある日のこと。圭子が出社してしばらくしたときだった。ある大きな案件が頓挫するかも知れないという情報が入ってきた。しかもその原因を作ったのが自社の上役のせいらしいという話が舞い込んだ。
「ウチのエロ取締役、ライバルのD社の重役秘書にたらし込まれて、べらべら契約内容を話したらしい」
という。
圭子はこれで怒りが爆発。この取締役のところへ直接抗議に行こうと思ったが、「その前に」と、メイクを変えた。
パウダールームへ行き、自動メイク装置を出した。このとき、彼女は本当に頭にきていたのと少し取り乱していたのとで、ダイヤル調整に冷静さを欠いていたし、設定後の確認もしなかった。やってみたことも無い設定にしてしまった。「怒り最大」に設定したのだ。彼女は装置に顔を付けてリモコンスイッチオン。「ヴィ~ン」と音がして完了。彼女は終わると装置を片付けて顔を確認せずにパウダールームを出た。「怒り」ダイヤルをプラスにしてメイクするのは今回が初めてでは無かったので、「きっと、それがももう少しオーバーになる程度」とたかをくくっていたのだ。
圭子が廊下を歩いて行くと擦れ違いにあいさつしようとした社員が彼女の顔を見て、
「ヒッィ」といって飛び退った。
圭子は案件を台無しにしたエロ取締役の部屋に向かっていたのだが、前から来る人来る人、みんなが圭子の顔を見て驚き、驚愕し、あるいは大笑いした。
「あたし、一体どんな顔しているんだろう?」
ここで初めて、彼女は不安に襲われた。「やっぱり、怒り最大って調整はマズかった?」そう思ったが、もう件の取締役の部屋の前に来てしまった。
冷たいノックを3度してまず秘書の居る部屋へ入り、取締役に面会したいと秘書に告げた。秘書は圭子の顔を見て、やはり「ピェッ~」とかなんとか変な声を上げて一瞬いすから飛び上がり、それから慌てて取締役に内線で圭子の来訪を告げた。
「ど、どうぞ、中へ」
秘書が圭子を促すと、圭子はまた三度の熱いノックをしてドアを開けた。
圭子は部屋に入り、二歩三歩とズカッズカッっと取締役の机の前に進む。取締役の男は、彼女の顔を見て声も出せず、口を半開きにして圭子の顔に見入り魂が抜けたかのようになり、そして、平謝りに謝った。
取締役と話を付けて退室した圭子は秘書に、
「ちょっと鏡を貸してくれる?」と言った。秘書はバッグから手鏡を出して圭子に震える手で差し出した。
藤田圭子は自分で自分の顔に「ヒィ」と声を出した。鏡に映ったのは、まさに、般若の能面そのものだった。鼻筋、頬の線。口角の切れ上がり。実にリアルだった。これを見て本人もよろめいて悲鳴を上げた。そして顔を肘で覆うように隠して急いでメイク装置を持ってパウダールームに飛び込んだが、ここでさらなる問題がわかった。さっき怒りにまかせて操作したとき、機器の設定を「通常メイク」から「タトゥー」に変えてしまっていたのだ。
「タ、タトゥー?」
タトゥー設定して顔に転写した場合、戻せるには戻せるがいつもと違う操作が必要らしかった。驚き慌てて説明書を読んだが、内容がうまく頭に入らない。しかたなく、以前に家に来た営業マンにパウダールームの個室からスマートフォンで助けを求めた。するとあの佐藤という女性営業マンは、すぐに駆けつけてくれて、一緒に、用意したワゴン車に乗り込み、
「時々いらっしゃるんです。表情設定を最大にして……というかた。今回はさらに、設定が「タトゥー」ということで。これも消せるんですが少々お時間が掛かります。何しろ非情に落ちにくい設定ですので」
「あ、ありがとう……」
圭子は涙を流していた。
この件以来、圭子のあのときの顔について、
「アレは圭子マネージャーのこころが顔に表れたんだ。なにかが憑依していたのかも知れない」
「あのメイクは、怒っているけど、少しオーバーにふざけた感じで怒りを緩めて見せる頭脳プレーだったんだろう」
「きっと、見る側のこころのやましさがマネージャーの顔をあんな風に見せたんだ」
などなどとにかく、いろいろな噂が飛んだ。
当の本人は、あのことで吹っ切れたのか、メイクで楽しむ余裕も生まれ、わざとまた般若のメイクをしてミスをした部下を叱ったり、喜怒哀楽全ての最大設定をやって楽しんだりした。
仕事に徹するあまり無表情と言われていた彼女も、「けっこう茶目っ気があるんだナ」なんて言われるようになり、人生に表情が生まれたようだ。
タイトル「明るくポーカーフェイス」




