312 本当のあなたを
秘薬の調合においては、ほんのわずかな割合のズレでまったく別の効果となってしまう。
達人と斬り合う際の剣さばきのように、針の穴を通すような正確さが求められるのだ。
小皿の中に各調合素材を入れ、慎重に慎重に混ぜ合わせていく。
一滴でもこぼれてしまえば最初からやり直しだ。
キマイラの血の水分でペースト状になったら、丸めて丸薬の形に加工。
最後に、じっと見ていてくださったラマン殿にうかがいを立てる。
「……うん、バッチリだ。慣れたもんだな」
「巫女様の下で修行した身ですし、それにもう三日目ですからね。では、投薬します」
ラマン殿の許可が出たところで、ベル殿の体を少しだけ起こし、唇に丸薬を押し当てて口の中へ。
最後に水を飲ませ、飲み込んだことを確認してからベッドへ寝かせた。
王都に帰還してから三日。
すでにわたしは、何度もこの工程を繰り返している。
「ベル殿、今日も目覚めませんね……」
「傷薬とちがって、病気の薬は複雑なぶん効きも遅い。あせらずゆっくりな」
「……いえ、あせっているわけではありません」
「そっか、ならいいんだけどさ。じゃ、おいらバルジんとこ行ってくるよ」
王都にやってきてから、ラマン殿はバルジ殿のところによく足を運んでいる。
城に滞在しているグリナ殿やディバイ殿も含め、共に戦った間柄とのことらしいが、バルジ殿は慕われているのだな。
彼が退室したあと、わたしはいつものようにベッドわきのイスに腰かけた。
そうしてベル殿の寝顔をじっと見つめ、しばらくの時を過ごすのだ。
目を覚ます可能性が最も高いのは投薬直後から数時間。
彼女が目覚めたときに一人きりだったら不安な思いをさせてしまうだろうと思い、こうしているわけだが……。
「あせっているわけではない、か……。とんだ強がりだな……」
先ほどの自分のセリフを思い出し、思わず自嘲してしまう。
もちろん、彼女が目を覚ますことをうたがってはいない。
そこをうたがってしまえば、わたしに医術を授けてくださった巫女様や、監督をしてくださるラマン殿をもうたがうことになる。
では、何を不安に感じているのか。
答えは簡単だ。
「ベル殿……。目を覚ました時、あなたは以前のままなのでしょうか……」
たとえば記憶障害。
たとえば人格の変異。
そういった異常は十分に考えられる。
「どうか、あの時のあなたのままでいてください。わたしは、本当のあなたが知りたいのです」
ベル殿と二人、かなりの時を重ねたにも関わらず、わたしは彼女をベル殿として見ていなかった、彼女自身のことをロクに知らなかった。
最後にわたしをかばった時をのぞいて、彼女はずっと陛下を演じ続けていたのだから。
演技ではない、本当のベル殿が知りたい。
だから、どうかあの時のままで戻ってきてください、ベル殿……。
△▽△
……私は、誰だったっけ。
深い深い闇の底から、私という存在が浮かび上がってきて。
まず最初に抱いたのは、そんな疑問だった。
この目を開ければわかるのかな。
目を開けて、そこに私を知ってる人がいたら……、私の名前を呼んでくれたら……。
「……ん」
重いまぶたを開けたとき、赤い髪の凛々しい女の人が私の顔をのぞいていた。
驚いたような、とっても嬉しそうな、そんな顔で。
「ベル殿、意識が……! わたしの、わたしのことがわかりますか……!?」
この人の名前は……。
濃いモヤがかかったような頭の中、なんだったっけと考えるまでもなく、
「……イーリア」
そう呼ぶのが当然であるかのように、スルリと口をついて出た。
その瞬間、せき止められていた水が流れ出すように、私の頭の中にこれまでの記憶が一気に蘇る。
そうだ、私はベル、ただの奴隷だ。
お姫様の影武者をやっていて、このイーリアって騎士に助けられて、いっしょに旅をして……。
そして、恥知らずにも恋をしてしまった。
でも、結局最後にはニセモノだって知られてしまって、敵に斬られて死んだ……はずだった。
そっか、助かっちゃったんだ、私……。
「っうぐ……!」
意識がハッキリした瞬間、頭がズキリと割れそうに痛んだ。
思わず顔をしかめて、うめき声が漏れてしまう。
「ベル殿、大丈夫ですか?」
……あぁ、優しいな。
私がニセモノのお姫様だってわかっても、そうやって優しくしてくれるんだ……。
「もう二月も眠り続けていたのです。ムリはなさらず、楽に体を横たえていてください」
「……そんなに、眠ってたんだ」
「えぇ。ですが、本当によかった……。あなたが目覚めて、こうして言葉を交わせる日が来るとは、本当に夢のようです」
「……どうして?」
「……?」
純粋に疑問だった。
私、ニセモノのお姫様なのに。
ペルネ姫のニセモノで、ただの奴隷のベルなのに。
「あなたは騎士、私は奴隷出身の影武者……。身分なんて全然ちがうのに、どうして私なんかに優しくしてくれるの……? まるで本物のお姫様みたいに……」
「……わたしにとって、あなたが扮する姫様は本物以上に本物でした」
本物以上に、本物……?
よく意味がわからない。
「あなたの演じるペルネ様は、まさしくわたしの思い描いていた通りのペルネ様だったのです。おしとやかで、清楚で、なんとしてでも護らねばと思わせる、可憐な花のような人」
だって、私の中のペルネ姫像もそうだったから。
それ以上でもそれ以下でもないよ。
「本当のペルネ様が思いの他、エネルギッシュでアグレッシブだとわかったのはつい最近のことでした」
「……私のは全部演技、だけど。あなたの知ってる私は、空想の存在だよ」
「……その通りです。わたしは本当のあなたをよく知らない」
当たり前だよ、素の私なんてずっと隠してたんだもん。
清楚で可憐なお姫様を演じるのに、必要のないものだったから。
「だからベル殿……」
イーリアの手が、私の頬をそっと撫でた。
思いもよらない不意打ちに、頬が赤くなってしまう。
「わたしに教えてほしいのです、本当のあなたを……。そして、あの時守れなかったあなたを、今度こそ守り抜きたい」
「なに言って……っ!」
なにそれ、ぜんぜん意味わかんない。
どうして私なんかを?
あなたが守るべきなのってペルネ姫でしょ?
いろんな疑問が頭に浮かんでは消えていく。
それでも、イーリアの真剣なまなざしが本気だってことを物語っていて……。
「……私で、いいの?」
「あなたが、いいのです」
少しずつ近づいてくるイーリアの顔。
思わずギュッと目をつむると、唇に柔らかな感触が触れた。
……私はベル、ただの奴隷だ。
その私が今、生まれて初めて思ったんだ。
生きててよかったって。
△▽△
……日課ですから、公務の合間をぬって、私は今日もベルの眠る部屋へとやってきました。
ですが、これは入れそうにありませんね。
今はただ、トビラの外から祝福をしてお仕事に戻りましょう。
「ベル、おかえりなさい。そして、幸せにね」