197 聖女の笑み
目上の二人をその場に置いて退出する。
無礼極まりないソーマの行いも、目の前に迫った悲願に比べればほんのささいなもの。
リーチェもフィクサーも、彼を咎めはしなかった。
パタン。
トビラが静かに閉じられ、部屋には聖女と大司教だけが残される。
二人はともに穏やかな笑みを浮かべ続け、しかし二人の間にはピリピリと張りつめた空気が流れていた。
「……お母様?」
「あら、乳母でしかないこのフィクサーを、まだ母と呼んでくださるのですね。恐れ多い限りです」
リーチェに母と呼ばれたことなど、何年ぶりだろうか。
大司教の胸に感動などは欠片もなく、ただただうすら寒さだけを感じていた。
「お母様も、例の場所にむかわなくてはならないでしょう? ずいぶんとのんびりしていらっしゃいますけれど」
「うふふ。あそこは確かに聖地から少々離れてはいますが、ソーマの【月光】があれば一瞬で行けるでしょう? 月が出るまではのんびりしていますわ」
「そうですか、それはそれは……」
この女の腹の中に抱えたものを、リーチェはとうに勘付いている。
心の底から自分の目的に同調しているわけではない。
とうてい信用の置ける相手などではない、と。
「くすっ。ですが、そうですね。私は大司教、実質的なパラディのトップですもの。こなさなければいけないお仕事は山のようにありますので、ここでお暇させていただきます」
「ええ、お母様。ごきげんよう」
深々と頭を下げ、不敵な笑みを浮かべたまま、大司教はその場を去っていった。
彼女が退室し、足音が遠ざかったのを見計らって、リーチェは手元のベルを鳴らす。
すぐに部屋の奥からシスター姿の女性が姿を現した。
「お呼びでしょうか、リーチェ様」
「ノア、跪きなさい」
聖女は貼り付けた笑みを捨て、氷のような表情を浮かべながら命令を下す。
対照的にノアの表情は熱を帯び、奉仕の喜びに震えながら自分より一回りも幼い少女の足元にひざまづいた。
「あぁっ、リーチェ様……」
「いい子ね……。あなただけよ、本当の私を見せられるのは……」
ノアのあごをくすぐりながら、少女が浮かべるのは薄い笑み。
作り物の笑みではない、彼女本来の笑顔。
「ふふっ、いよいよね……。あの時、捕えずに泳がせていた甲斐があったというものだわ……」
あの時、勇者とベアトを見逃した直後に、ベアトの中の聖女の力は覚醒した。
もしも捕えてしまっていたら、今も覚醒はなかったかもしれない。
「やっと、やっとよ……。やっと私は死の恐怖から解放されるの。される、のに……」
しかしその笑みはすぐにくもり、リーチェの目尻にたまった涙の珠がみるみるふくらんでいく。
ついには涙がほほを伝い、小さな手が震えだした。
「……ねえ、ノア。私ね、不安で仕方ないの」
「不安、ですか……?」
「あの子を手に入れれば、機械仕掛けの神は完成する。そうすれば私は十年と言わず、五十年先も生きていられる。だけど、もし、もしも失敗すれば……。私の命はあと……、あと十年も……っ」
この計画が完成した時、リーチェとエンピレオの接続は遮断される。
魔力と引きかえに生命力を吸い上げられることも、強すぎる魔力にあてられて肉体が弱っていくこともなくなる。
人並みの寿命を、手に入れられる。
しかし、ベアトを手に入れるためには最後の障害が存在する。
勇者キリエ。
彼女の存在、強さ、異常性は、リーチェを恐怖させるに十分だった。
あの時勇者を殺していれば、この恐怖は無かった。
しかし、殺していたらベアトは聖女の力に目覚めなかっただろう。
「勇者キリエ、私はあの女が怖い……! アイツが、私の計画をムチャクチャにしてブチ壊すと思うと、もう……っ!」
「泣かないでくださいませ、リーチェ様」
「あ……」
少女の震える体を、ノアは包みこむように抱きしめる。
「きっと、きっと大丈夫です。このノアがおそばについておりますから……」
「な、なにを言って……、あなたごときがいるから、だからなんだと……っ! うっ、ぐぅぅっ、ぐす……っ」
ノアの胸に顔を埋め、幼いこどものように泣きじゃくるリーチェ。
愛しい主人を抱きしめながら、心の底でノアは誓った。
(これ以上、私の大切なものを奪わせなどしない……。勇者キリエ、リーチェ様を手にかけようとするのならば、刺し違えてでも……!)
〇〇〇
よかった、リーダーたちがクレールさんに追い出されなくて。
私たち全員、奥に通してくれた。
居住スペースのテーブルに座って、詳しい事情をリーダーが説明する。
人数多すぎてイスが足りないから、ディバイさんが立ってたりランゴくんがラマンさんのひざに乗ってたりするけど。
「……ってワケだ。とんだ厄介ごとだが、引き受けてくれるかい?」
「はっ、見くびるんじゃないよ。前にベアトが来た時から、とうに覚悟はできてる」
教団に居場所がつつぬけかもしれないけど、しばらく置いてほしい。
こんな無茶なお願いを、クレールさんはなんとあっさりと受け入れてくれた。
少しはゴネられる覚悟してたのに。
「かわいい孫のためなら、こんなお願いヘでもないさ」
そこまでなんだ。
クレールさんのベアトへの愛情、前から思ってたけど、まるで本物の孫に接するみたいだよね。
「ありがてぇかぎりだ。恩にきるぜ」
「しかし、そうか……。あの子だけじゃなくベアトまで……」
聖女の寿命のこと、クレールさんはやっぱり知ってるんだな。
あの人が一瞬だけ見せた悲しげな顔の意味、この場じゃきっと私しか理解できてないだろうけど。
「で、いつまでいるつもりだい? あんまり長くいられちゃさすがに——」
「心配すんな、すぐに全部終わらせて出ていくさ。手始めに今夜、さっそく敵の正体をあばいてやる予定だ」
え、今夜……?
初耳だし、いくらなんでも急すぎない?
「いやいやリーダー、あたし聞いてないよ!?」
「おいらも、寝耳に水ってやつさ!」
あら、みんな初耳だったのか。
誰にも言わずに作戦立てないでよ……。
「すまねぇ。だがこいつぁ——」
「考えたのはボクだ。文句があるなら兄さんじゃなくボクに言ってよ」
え、ケルファが考えたの……?
だとしたらちょっと不安だな……。
「違うだろ、俺の意見をベースにお前が肉付けしたんだ。採用したのも俺、全て俺に責任がある」
「まあなんにせよ、今夜とはまた大きく出たねぇ」
「ここはもう、敵の腹ん中みてぇなモンだ。時間をかければかけるほど、俺たちは不利になっていく。胃液で溶かされるみてぇにな」
うん、例えが嫌だけどうなずける。
こうしている間にも、ここを探り当てられてるかもしれない。
敵がすでにむかってきてる可能性だってある。
「だからこそ、早めの行動だ。今夜大神殿に忍び込むのは俺とキリエちゃん。目的は敵の黒幕を突き止めること。戦う相手がわかんねぇでは、ケンカにすらならねぇからな」
「……確かにね。誰を殺せばいいのかすらわかってないんだもん」
思えばとんでもなく不利な戦いしてるな、私たち。
「キリエちゃん、多少は暴れてもかまわねぇぜ? どうせこっちの存在はバレバレなんだ。巣をつっつきゃ、黒幕さんもあわてて出てくるかもしれねぇ」
「あはは、いいなそれ! おいキリエ、いっちょ大神殿ごとぶっ飛ばして来いよ!」
「いや、トーカ……。いくらなんでもそれは……」
ベアトのお姉さんやベルナさんもいるんだしさ。
いなけりゃ考えたかもだけど……。
「はぁ……。私をなんだと思ってんだ……」
ため息まじりに、なんの気なしに窓の外へと目をむけた時。
「え……?」
まさにその時が、黒いフードに覆面の男がそっと顔を出して中をのぞいた瞬間だった。
そりゃもう、バッチリ目が合った。
「うお、敵か!?」
リーダーもすぐに気がついたみたい。
見つかったことに気づいた男は、すぐに窓から離れて姿を消す。
しかしこんな堂々とのぞいてくるなんて、大胆な敵もいたモンだな。
うかつにも程があるでしょ……。
「私が追うよ。リーダーはここに残ってみんなをお願い」
「おう、気をつけろよ!」
「うん。ベアト、行ってくるね」
「……っ!」
ベアトが力強く、こくりとうなずいた。
頭をなでてあげたいけど、そんな時間はないね。
すぐに裏口から飛び出すと、屋根の上に飛び上がる敵の姿が見えた。
逃がすかよ。
居場所を伝えられる前にとっ捕まえて、逆に情報引き出してやる。




