第98話 理想のため
「はー……はー……」
その存在は、人の目につかない場所にあった。
暗い森の、さらにじめじめとした奥深くにある洞窟。その中に、それはいた。
ヘドロの塊……それこそ、アリスターが打ち倒したナナシのような存在だった。
とはいえ、流石に天使が神殺しのために使用する終末の化け物よりは、毒々しさも禍々しさもないものだったが。
しかし、それには知性があった。
それも、欲望にまみれた、薄汚い知性が。
「子を……子を産まなければ……。私を受け継ぐ、子を……」
子孫を残すということは、生物として当然にある本能である。
だが、このヘドロの塊のようなものがまっとうな生物とは、とても思えなかった。
事実、これは人間や亜人といったような普通の生物ではない。
「母胎を……母胎を……。私の子を産むにふさわしき母胎を……」
この異形の生物は、一般的な生殖を行わない。
彼自身が同種の雌と交尾をして子孫を残すのではなく、彼が寄生して異種の雌に子種を植え付け子孫を産ませるのである。
だから、この近くに彼と同じ種族のものはいない。
そうすると、必然的に彼も狙うのは異種の雌……それこそ、人間や魔族というものになるのである。
「強き子を産むことができる母胎……。私は探した、ちゃんと探した……」
この化け物は、知性がある。
やみくもに近くにいる人間や魔族を引きずり込んで母胎にするような短絡的なことはしない。
必ずばれるだろうし、ばれたら何かしらの手段で討伐されるだろう。
自分がそう簡単に討伐されることは考えにくいが、しかし余計な危険は冒す必要はない。
彼は、念入りに自分にふさわしい母胎を探したのである。
その調査のために使われた人間は、洞窟の隅っこで倒れ伏していた。
もう用済みだから、食事をした。その人間は、全身の筋肉や内臓を引き抜かれ、骨と皮だけのおぞましい死体になっていた。
利用するだけ利用して、必要なくなれば食材として美味しくいただくことができる。
彼にとって、人間は本当に有用で使い勝手のいい生き物だった。
「バルディーニ……バルディーニがいい。バルディーニの女は、強い子を産む」
はーはーと鼻が曲がるような臭い息を吐きながら、何度も人の名前である『バルディーニ』という単語を繰り返すヘドロ。
この情報も、隅っこに転がっている人間を使って仕入れたものである。
自身の子孫は強くなければならない。強くないと、敵に襲われたら殺されてしまうかもしれない。
だから、そのために母胎となる存在を選定した。
欲を言えば、竜人のような強くてしかも群れることを好まない存在が望ましかった。
強い子を産ませることができるし、群れないから簡単に拉致することができる。
だが、この近くに竜人のような強い魔族は住んでいないようだった。
探しに行こうにも、このヘドロの塊では非常に目立つし、魔族にたどり着くまでに人間に討伐されてしまうだろう。
だから、特別な存在であるバルディーニを狙う。
「どうやって、バルディーニを攫う? 考えろ……考えないと……」
ヘドロは考える。
知性の低いものならば、そのバルディーニとやらがいる場所に後先考えず突撃していただろう。
いや、それでも、これは目的の存在を攫うことができてしまうほどの力は持っている。
不意打ちになるだろうから、おそらくそれは成功するだろう。
だが、問題はその後である。
子を産ませる前に必ず人間たちが救出に動くだろうし、それはなくとも討伐をしてくるに違いない。
押し入った時に邪魔をした人間は殺してしまうかもしれないし、そうなると危険なものは見逃せないはずだ。
子を残す前に殺され、また母胎を奪われれば、まさに本末転倒だ。
だから、ヘドロは考える。知性を持つ存在は、これが厄介だ。
これが何も考えず突撃してきていれば、おそらく人間は多少の損害はあっても討伐することができただろう。
「やっぱり、人間を使おう。同族だから、気が抜ける。人間を使おう、人間を……」
はーはーと息を吐きながら、ヘドロは算段を付けたようだった。
彼が見下ろすのは、隅っこで干からびている人間。
もうあれは食べてしまったので使うことはできないが……また別の人間を使えばいい。
人間は、それこそ害虫のように数だけはたくさんいるのだから、探すことに手間取らない。
「捕まえよう。捕まえに行こう。バルディーニを捕らえることができる、良い人間を……」
はーはーと息を吐きながら、ずるずるとヘドロの身体を動かして洞窟から抜け出した彼。
薄汚く臭いの酷い洞窟に残されたのは、人外のものに利用されるだけ利用されて最後には生き地獄を味わいながら筋肉と内臓を喰らわれてしまった、哀れな人間の骨と皮だけだった。
◆
「そうか。癒しの力を持つ聖女は天使教の聖女の方か。まったく……何でも信じたらダメだな。俺は、そのことをよく分かっているはずなのに」
その男は、天使教の街で苦笑していた。
ある建物の屋根に座り込む彼。眼下では、天使とアリスターの戦闘で崩壊した街の復興作業が進められている。
その陣頭に立っているのが、小さくて可愛らしい子供のエリザベスであった。
天使教の聖女であり、貴重な回復魔法を使うことができる存在。
本来であれば、彼は自分のために彼女を自分のものにするのだが……。
「あれは、それほど大したものではないな。リスクを負ってまで得ようとするものではない」
彼はエリザベスに対して物欲しそうな目を向けることはなかった。
彼は、しばらく前からこの街に来ており、一連の騒動も見ていた。
そこで、彼女の回復魔法を目撃したのだが……確かに有用だろう。有用ではあるのだが……しかし、天使教……いや、勇者教を敵に回してまで求めるものではなかった。
宗教……ましてやカルトとなると、その信者たちも相当に面倒だ。
「だが、聖女マガリの力はよかったな。他人の能力を無効化する能力……あれは、いい。欲しいな」
癒しを与えるものではなかったが、マガリの聖女としての力は非常に特異で強力なものだった。
武力という面では彼も相当のものを持っているが、他人の能力を問答無用で無効化することができれば、さらに高みへと昇ることができるだろう。
こればかりは、生まれながらの能力であり後天的に彼が得ることは難しいので、本当に欲しいのであれば奪い取るしかない。
そうすることに対して、彼は別に躊躇するものがあるわけではない。
あれほどの力ならば、それこそ国を敵に回したっていい。
しかし……。
「勇者の……アリスターの力が問題だな」
マガリの側にいるアリスターが邪魔だった。
彼の持つ魔剣も強力だが、何よりも彼に躊躇させるのは先日天使との戦いで見せた黒く禍々しい存在へと化したアリスターである。
「あれは、なんだ? あんなものは見たことがない。アリスター自身の中に眠っている何かか……それとも、魔剣の暴走か?」
不思議そうに首を傾げる男。
魔剣は使用者に代償を求める。そのことを考えると、アリスターの身体が魔剣に乗っ取られたと考えることもできる。
「……だが、勇者は聖剣保有者がなる者じゃなかったか? 俺の時代とは変わったのか?」
そう、そもそも勇者と呼ばれている人間が魔剣を持っていることがおかしいのだ。
なぜなら、勇者と呼ばれる者は聖剣の適合者なのだから。
しかし、アリスターが持っていたあの黒々とした禍々しい雰囲気を放つ剣は、とてもじゃないが聖剣とは言えないもので……。
「わからないな。まあ、それもいいか。問題は、あの黒い化け物となったアリスターだ。あれは、相手にするのが少々面倒だ」
天使は超常の存在だ。その力も非常に大きい。
たとえば、今回現れた天使ラガエルは、ラッパを吹いて本来であれば最終戦争まで生まれるはずのなかった終末の化け物を生み出した。
あれは、それこそラガエルが止めなければ、大陸中を破壊することだってできただろう。
それに、ラガエル自身もかなりの力を持っていた。
槍を使いこなす技能や身体能力は、そこらの人間を遥かに超越していた。
それを、あっさりと……本当に赤子の手をひねるかのように容易く屠ったのが、黒化したアリスターである。
基本的に他人に甘い勇者が、あの時は冷酷に何の躊躇もなく命を奪った。そのことにも、男は強い警戒を抱いている。
だが、それでもマガリの持つ聖女の力は欲しかった。
それがあれば、彼はどれほど自分の理想に近づけるだろうか?
そう考えると、やはりあの黒いアリスターを敵に回してでも聖女に手を出さざるを得ない。
「そうだな。では、まずは聖女ではなく勇者の方だ。あちらを、先にどうにかしよう」
男の矛先は、まずアリスターに向けられるのであった。
それもこれも、すべては彼の理想のために。




