第96話 幕を下ろす
「はっ、はははっ! ナナシはその程度では死なんぞ! 核がある……核がある限り、無限に再生して貴様を徹底的に追い詰める! 楽に死ねると思わんことだなぁ……!!」
天使の頑強さで、再び大笑いしてアリスターをあざ笑うラガエル。
口から大量の血を吐き出し、鼻を折られ、腹部に甚大なダメージを受けながらもこういうことを言うことができるのは、もはや称賛に値する。
なるほど。変貌したアリスターに、自分は歯が立たないかもしれない。
しかし、自分がラッパで召喚した終末の化け物は、絶対に負けることはない。
そもそも、最終戦争で召喚され、神々を殺すような存在がナナシである。
たかが人間風情が、それをどうにかすることなんてできるはずがない。
「アアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」
ナナシの絶叫が響き渡る。
アリスターがまた聖剣を振り下ろしたのだ。
ただ、振り下ろしただけ。特別な技を使ったり能力を使ったりはしていない。
何でもない剣圧だけで、終末の化け物はヘドロの身体をまたバラバラに吹き飛ばされるのであった。
しかし、ラガエルの言う通り、それで命を失うということはなく、ウゾウゾと飛び散ったヘドロが集結して形を作っていく。
「だから、無駄だと言っているだろうがぁっ!! 貴様にナナシは倒せん!! 疲弊して、何もできなくなって無力感をかみしめながら死ね!! 貴様の次は、ここにいる人間どもを皆殺しだ!!」
勝利を確信して大笑いするラガエル。
もはや、天使教の信仰力や信者数なんて関係ない。
自身が人間に吹き飛ばされている場面も見られていて、生きて帰すわけにはいかない。
「いいか!? ナナシの核はそもそも非常に頑丈だ。それこそ、大魔法の直撃でもない限り、破壊することはできん! また、その核はナナシの体内で常に高速で動いている。先ほどから何度ぶちまけても死なないのは、それが理由だ!! 人間程度に、どうにかできる存在ではないんだよ!!」
絶望を与えるため、わざわざナナシの秘密を教えてやるラガエル。
それが、今の黒化したアリスターに聞こえているかどうかは分からないが、少なくともここに集まっている人間たちには、絶望を与えることができたようだ。
悲観に暮れた表情を浮かべる彼らを見て、楽しそうに嘲笑う。
ナナシがアリスターを殺せば、残りの人間は自分が殺してやろう。
彼に好き勝手やられた報復だ。彼自身にやり返すことはできないが、同じ人間として責任を果たしてもらおう。
簡単には殺してやらない。自分が受けた苦痛の、何倍もの痛みと苦しみを与えてから殺してやる。
「くひひひひひっ……!」
口の端からよだれを垂らし、端正に整っていた顔が見る影もなくなる。
アリスターにぶんなぐられて顔面が崩壊していたとはいえ、薄気味悪さまでついてしまえばどうしようもない。
しかし、彼はすぐに来るであろう未来を想像して、これほど喜んでいるのである。
そして……。
『マガリ! 皆を連れて、ここから離れて!!』
「ッ!? 皆、この場所から離れなさい! 早く!!」
聖剣の言葉を聞いて、マガリはそう声をかける。
ただ、それも一度きりだ。別に、彼女からして天使教徒たちは大した価値のない存在なのだから。
何よりも自分が可愛いマガリは、一度そう声をかけると、すぐさまこの場から逃げ出した。
「お、おい! 俺たちも離れるぞ!!」
エリザベスが信者たちに声をかけると、どうしようかと悩んでいた彼らもようやく逃げ始める。
彼女の心情的には、ここに残ってアリスターを一人にしないでおきたかったのだが……アリスターが聖剣に纏わせ始めた黒いものを見て、信者の安全を最優先した。
「ま、待て! 何を勝手に逃げている!? この私が殺すのだから、ここで大人しく……!!」
わらわらと逃げ始めた信者たちに怒声を浴びせるラガエルであったが、彼もエリザベスと同じくアリスターの持つ聖剣を見て、身体を凍りつかせる。
もはや、罵声も怒声も出てくることはなかった。
黒々とした聖剣に、さらに禍々しい瘴気がまとわりつく。
それは、彼がラガエルとの戦闘で使った『邪悪なる斬撃』のそれよりも、はるかに強大で凶悪なものだった。
量も凄まじく、それこそ空高くまで立ち上る瘴気は、離れた場所からでも見ることができるほどだった。
そして、くしくもそれはかつてアリスターが初めて聖剣と出会い、かの力を爆発させたその時と同じような光景であった。
「まっ、待――――――!!」
ラガエルは制止の声をかけようとするが、それよりもアリスターの黒い腕の方が速かった。
ナナシに向かって振り下ろされる聖剣。
ヘドロの塊であるそれは、ただ見上げることしかできず……。
――――――その時、音が世界から消えた。
おそらく、凄まじい爆音が起きていたのだろう。
離れた場所からは、その音と地震と勘違いしてしまうほどの地面の揺れを観測することができたはずだ。
だが、その爆心地に非常に近い場所にいたマガリやエリザベス、そしてラガエルは、音を音として認識することができなかった。
ただ、闇が世界を覆った。
青い空も見えず、天使教徒たちが作り上げた街の景観も見えず、硬い石づくりの地面も見えず、上下左右すべてが闇に覆われた。
それは、アリスターの溢れ出した瘴気の余波である。
ただ、聖剣を振り下ろしただけで、それだけの二次被害をもたらしていた。
そして、次の瞬間……。
「きゃあああああああああああああああああああああ!?」
エリザベスやマガリに襲い掛かったのは、人が吹き飛んでしまいそうになるほどの暴風であった。
長い髪の毛がたなびき、体重の軽い二人は簡単に飛んでいきそうになってしまう。
なんとか地面に這いつくばって、暴風から身体を逃がす。
しばらくして、ようやく地響きや爆風が収まる。
恐る恐るラガエルが顔を上げると……。
「ば、馬鹿な……」
唖然とするしかなかった。
この辺りの光景が、全て荒廃した死んだ土地に変わってしまっていたのである。
立派で荘厳だった天使教の教会も崩れ去り、砂になっている。
石が均等に敷き詰められて整っていた地面も、ボロボロに破壊されて砂がサラサラと流れるだけだ。
そして……爆心地の中心に、黒いアリスターが立っていた。
彼の側にいたはずのナナシは、その存在を消していた。
今まではヘドロが飛び散っていたりしていて、それがまたウゾウゾと集まって復活することができていたのだが、そのヘドロが一切なかった。
核ごと消し飛ばされたのだろう。
「そ、そんな……神々を殺すことのできる、終末の化け物を……完全に滅ぼした……? そんなことがあるわけ……」
ザリッと砂を踏みしめる音が、やけにラガエルの耳に響いた。
それは、瘴気を発するアリスターが、彼に向かって近づいてきている音だった。
まるで、死神の足音にすら聞こえてくる。
それもそうだろう。アリスターは、間違いなくラガエルを殺すだろうから。
そんなこと、ラガエルにだって分かっている。
自分だって、自分を殺そうとしてきた者を見逃すことはないからだ。
「ひっ、ひいいいい!? 待って……止めてくれぇぇ……!!」
しかし、だからと言って自身の死を受け入れることができるほど、ラガエルの性格は豪胆ではなかった。
アリスターに背を向け、四つん這いで逃げる。
走って逃げたり、それこそ翼を使って空中に逃れたりしたいのだが、顔面と腹部に与えられたダメージは甚大であり、立ち上がることすらままならなかった。
今まで、ラガエルは天使という上位存在として、多くの種族を見下していたぶってきた。
死の恐怖すら感じたことがなかったので、まさにおごり高ぶっていたのである。
圧倒的な力を駆使して、無残にも人や魔物に天罰を下す。
ああ、楽しかった。楽しかったのだが……いざ自分がそれをされる側になるということは、想定していなかった。
「わ、私を殺すな……! 私を殺せば、貴様の存在は天界に知られ、私以外の天使が貴様を誅さんとするだろう。私を見逃せ! そうすれば、うまくとりなして……!」
この取引は、アリスターが正常であれば受け入れられたことだろう。
またラガエルみたいな天使を敵に回して戦いたくないし、生かして帰せばそのことをとりなしてくれるというのであれば、保身大好きの彼は受け入れたはずだ。
もちろん、絶対に信用はしないし、何かしらの手段や安全策をとるにはとるが、ラガエルを殺すことはなかっただろう。
だが……。
「ひっ……!」
ラガエルの目の前に立つアリスター。
全身黒く染まり、燃えるような紅い目だけが煌々と光っているそのおぞましい姿に、ラガエルは悲鳴を上げる。
普段内心に抑え込んでいるありとあらゆる負の感情が溢れ出している今の彼に、そのような取引は通用しない。
将来や未来のことなんて考えられない。
今のアリスターにあるのは、自身を傷つけ精神的にも追いやったラガエルに対する燃えるような憤怒と底なし沼のようにドロドロとした憎悪だけである。
そして、その憤怒と憎悪を解消するためには、ラガエルは一つの方法でしか償うことはできない。
すなわち、死である。
「あっ、あぁぁぁぁぁ……っ!!」
ボロボロと涙をこぼすラガエル。
腰を抜かして両腕を前に出し、何とかアリスターとの距離をとろうとしているその姿は、んともいえないものがあった。
情けない姿だ。滑稽な姿だ。今まで散々人間を馬鹿にして、信者たちにも殺すということを言っておきながら、何だその体たらくは。
……しかし、エリザベスは、彼らは、そんなラガエルを馬鹿にして嘲笑することができないでいた。
それほど、黒く染まったアリスターの恐怖と暴力というものに、畏怖の念を抱いているからである。
「ぶっ、ふふ……っ」
こんな状況で笑えるのは、マガリくらいなものである。
「あああああああああああああああああ!?」
ラガエルの悲鳴と共に、アリスターの聖剣が振り下ろされ、クルクルと天使の頭部が宙を舞った。
こうして、宗教都市で起きた一連の事件は、幕を下ろすのであった。




